『怪盗ルビイ』80点 ピカレスクアイドル映画inバブル
アイドル映画とピカレスクって珍しいでしょ、という文脈で感想を述べようと思ったのだが、『セーラー服と機関銃』(1981)とかあるし、その取り合わせの妙から、逆に王道になっているパターンなのかもしれない。
時はバブルまっただ中(1988)。金がうなる街の中では窃盗や詐欺はその字面ほど深刻なものではなかったのだろう。その”ちょっとした犯罪”的な軽さが気にはなるが、それすら、キョンキョンの”輝き”が覆い隠してしまう。
そんなアイドル映画。
ストーリー
母親と二人暮らし、アイワメールシステムで働く冴えない男、林徹(真田広之)。
彼の住むアパートの2階に加藤留美(小泉今日子)が越してくるところから物語は始まる。
昼間はスタイリストを営む留美は、徹に言う。
「それは夜をしのぶ仮の姿なの。本当は私は、犯罪者なの。さしあたっては泥棒をしようと思っているわ」→「手伝って」
徹は、留美=怪盗ルビイの計画に協力者として巻き込まれていく。
所感
和田誠が監督をしている。
俺の中では週間文集の阿川佐和子のエッセイのイラストレーターで
トライセラ和田(略すとピン芸人みたいだ…!)の父親というイメージでしかなかったが、映画も撮っていたのか。
しかも、Wikiをみるとすくなくとも8作品の監督を担当している。
多彩である。
さて、その内容はというと、ド直球のアイドル映画であった。
キョンキョンが衣装を変え、ねじの抜けたような発言をし、真田広之を振り回す。
(あぁ~俺も振り回されてえー!)
当時の非選択的な禁欲主義者たちはそう思ったに違いない。
(チューしてえー!)
バブルとアイドル
今や不倫おばさんとなってしまった小泉今日子(52)だが、この当時のキョンキョン(22)の輝きと言ったらすさまじい。
アイドルとグラドルの違いとはなにか。
それは、「セックスしたい」と思うか否か*1だと俺は思う。
その意味で、この作品のキョンキョンは完璧にアイドルだ。
ただただ振り回されたいし、汚されたり汚したりするところは見たくない。
それゆえ、真田広之のひたすら受け身で言うなりな姿勢が適している。
普通に考えたら、こんな男はクソである。気が弱く、かといって優しくも面白くもなく、頭も悪い。見た目もさえない(真田広之エラい!)。
…と思ってキャプチャをとったけどやっぱり結構かっこいいな。
とはいえ、内面はクソである。
いうまでもなく、これはキョンキョンオタクが感情移入するためにつくられたキャラクターであるわけだ。
そして、この2人以外のキャラクターはがっつりモブである。名前も出てこない。徹の恋敵にあたる陣内孝則でさえ、総登場時間は3分以下である。
セカイ系である。
だから、2人以外のセカイは単なる背景にすぎず、したがってカバンをすり替えたうえ感謝とキャビアをだまし取ろうが、未遂に終わったものの銀行強盗を企てようが、宝石屋が名誉のために警察に出頭できないのをいいことに詐欺を仕掛けようが、それを物語の終わりでも反省せず、しっぺ返しもなかろうが、この作品のなかでは許されるのである。
バブル崩壊とポストモダン以後の僕たちとしては倫理的に納得いかない部分もあるが、バブル時代のアイドル映画の正解はこれなのである。
『スプライス』(2009)85点 内から外から描く性嫌悪スリラー
※ネタバレがあります
”結合”(スプライス)ってキモいよなーという素朴な発想✖毒親の子どもに対する"支配欲"ってグロいよなーという洞察
上2つの要素でこの映画は成り立っている。
ストーリー
夫婦で遺伝子工学の研究者として一級の技術を持つクライヴ(エイドリアン・ブロディ)とエルサ(サラ・ポーリー)。
2人は様々な動物の遺伝子を結合(スプライス)させてハイブリッド・アニマルを生み出す研究に取り組んでいた。
ジンジャーとフレットという二体のキメラの生成に成功した2人。
エルサは、次は人間のDNAを取り入れたいといい、企業の反対に躊躇しつつも、クライヴもそれに流されていく。
そうして生まれたのが1日ごとに急成長し、ワーム型→哺乳生物型→ヒト型と変化する生物。
D-R-E-N(ドレン、NERD(オタク)の逆読み)と名付けられたそれは、日ごとに結合を繰り返し育っていくのだった。
所感
毒親という言葉は、もともとアメリカの精神医学者が記した書籍『毒になる親』(1989)からきているのだという。
てっきり日本のネット民がゼロから考えたのだと思っていた。
そのルーツはアメリカにあったのだ。
参考:Wikipedia「毒親」
ダーレン・アノロフスキーの『ブラックスワン』(2010)であるとか、毒親(特に母親)ものの映画がこの時期にある程度の
バジェットでとられたのには何か時代性や空気のようなものがあったのかもしれない。
モンスターSFで母性の支配欲を描く。
その点に成功している点が、この作品の一番のユニークな点であろう。
とはいえ、ジャンルはあくまでモンスターホラー。
最終的には結合のキメラが暴れまくるモンスターパニックとして話は閉じられ、毒親の精神的グロさというテーマは浅堀りに終わる。
だけど、そのくらいがキュートなバランスにもなっており、好感が持てるのも、また事実だ。
”結合”(スプライス)ってキモいよなー
とにもかくにもこの発想が原点であり、骨子だ。
最初のスタッフキャプションから内臓に走る血管=結合の象徴がむき出しになっている。
そして、男根というフロイト的にもオールオッケーな結合の象徴。
皮膚がむけた男根といったその様相は、人間を本能的に去勢させてしまうようだ。
靴の裏とかウンコ以上にあの表面だけは舐めたくないな、と多くの人が思うであろう。
そして、ドレン。生まれたてはジンジャー(フレット)をより巨大かつ海洋生物っぽく様相。
それが、ほ乳類チックになり、人間らしくなっていく。その段階で正直”生理的嫌悪感”というだいご味は失われてしまうのだが、それは物語後半で
クライヴとドレンが犯す”過ち”のためには仕方ないだろう。
これらのどれもに通底するのは本能的な意味での”性嫌悪”だ。
命を繋ぐ血管が、命を宿す男根が、交わりが気持ち悪い。
性病科のお医者さんとかならこれらのポイントに対して何も感じないのだろうか?
一緒に見て、意見を伺ってみたいものである。
"母子"ってグロいよなー
前述のとおり、この映画の裏テーマは毒親とその”支配欲”。
どんどん人間らしく育つドレン。
エルサは”彼女”に言葉を教え、化粧を身につけさせ、娘のように扱い始める。
その様子に困惑しつつも追従するしかないクライヴはまさに子をなした父親。
成長するにしたがってクライヴはエルサを個として取り扱えるようになり、
エルサは尻尾の毒矢を切り取り、思い通りにしようとする。
なぜ彼女を作ったのだと思う?
人類のためか? 違うだろ。
普通の子どもだと自由にならないからだろ
1:23:19
クライヴにそう告発するが、その前にアレをやっちゃってるんだから
俯瞰してみればほとんど逆切れだ。
『イレイザーヘッド』(1977)はデビッド・リンチの父になる恐怖が源泉となって作られた作品だというのは
有名な話だが、この作品はモンスターという異化装置を使って父・母の両方を描いているわけだね。
"家族"ってキモいよなー
自分とかぎりなく近しいDNAを持ち、生殖能力を持つ他人。
そう考えると、家族というのはやたら気持ち悪い。
そのポイントが一番顕著なのは、実はクライヴとエルサではなくクライブと弟である。
この2人が奇妙に似ている。最初弟もクローン技術で生み出した何かではないかと思ったほどだ。
また、2人ともモディリアーニの絵画のような面長奥目だから余計に不安をあおられる。
で、より深く考えると、兄弟ってそもそもクローンみたいなもんだよな、という点に思い当たる。
父と母の染色体が交じり合って生まれた自分とめちゃくちゃ近しい別物。
結合とは本質的にそういうことだ。
俺たちが性的なものを隠して普段暮らすのは、その本質から目をそらすためかもしれない。
その洞察に至れただけでも良い映画をみれたかなと思う。
ちょっと後半、鵺やん! みたいな感じだったけど。
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『ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル』65点 ヒト(1)味足りないハムのよう
ジュマンジは、ウインナーだ。
子どもたちはみんな大好き。ジューシーで、パチンとはじける歯ごたえが心地よい。
ジュマンジ第一作はボードゲームが現実になるという設定、その活かし方に至るまでまさに子どもの理想を体現した映画だったと思う。
翻ってこの続編『ジュマンジ・ウェルカム・トゥ・ジャングル』。
薄っぺらいハムである。
もちろん味は子どもの好きなように配慮されているし、マヨネーズとかかけりゃあ美味い。なんだけど、それ単体では食いっぷりが足りない。
ブレックファストとしても中途半端すぎるぜ。
ストーリー
ゲームを現実の世界に顕現してしまう恐怖のゲーム、ジュマンジ。ボードゲームからTVゲームに姿を変え、子どもたちを新たなゲームへ引き込もうとしていた。
そんなゲームの中に、4人の少年少女が取り込まれ、さらに姿・能力が変容してしまう。
1.主人公であり勉強がとりえのオタク少年、スペンサー
→ドウェイン・ジョンソン演じるマッチョでセクシーな冒険家、スモルダー・ブレイブストーン博士。スキルはブーメランにセクシーフェロモン、マッチョなパワー。弱点はなし。
2.アメフト部の選手で勉強は苦手、スペンサーに勉強を代行させる黒人の幼馴染、フリッジ
→ネズミと称されるブレイブストーン博士の助手、ムース。スキルは荷物運び、動物学。弱点はスピード、ケーキ、強さ。
3.恋に夢中で勉学はおろそか、テスト中でも友達と電話する女子オブ女子、ベサニー
→小太りの考古学教授、”シェリー・オベロン”。スキルは地図の読解、考古学。弱点は持久力。
4.勉強第一の合理主義、スペンサーがひそかに思いを寄せる偏屈女子、マーサ
→セクシーな容姿と体術が魅力の女性冒険家、ルビー・ランドハウス。
彼らはゲームの最終目的―宝石を悪役キャラヴァン・ペルトから奪還し、元の場所へ帰す―を達成し、無事に元の世界へ戻ることができるのか?
所感――一味足りない
全米でファミリー層を巻き込んで大ヒットしているようである。
だが、俺は物足りないと思った。作品のゲーム感は古いし、人間の描きこみは浅いし、ストーリー的なひねりもないし。
もちろんキュートで面白いシーンも多数見られた。
『ワイルドスピード』シリーズでおなじみ、ドウェインジョンソン=ロックさまの童貞男子的発言、挙動、表情ギャグ。MCU作品でもおなじみのカレン・ギランによる世にも下手糞な誘惑。その2人のあまりに”ロマンチックでない”キス。
ただ、これらは「ジュマンジ」の面白さではなく、入れ替わりコメディの面白さなのだ。それこそ、サラデー・ナイト・ライブでやっても同じようなものが作れそうな。誰もが知っている有名人がそのセルフイメージを反転させた演技を見せて笑いを取るというのは年末の『笑ってはいけない』で「梅沢富雄がレイザーラモンHGをやった」的な笑いであり、テレビの笑いだとおもう。もちろん、雄々しい黒人マッチョという万人に通じるイメージの斑点という意味合いはあるにしてもね。
ココ、ヒト味足りない①キャラの描きこみ
この作品の脚本制作にスクールカースト物のパイオニア『ブレック・ファスト・クラブ』(1985)が大きく影響を与えたことは有名だが、1つ決定的な違いとして個性の描きこみの多様さがあげられる。
『ジュマンジ2』はスペンサー(オタク)、フリッジ(ジョック<体育会系>)、ベサニー(クイーンビー<リア充>)、マーサ(がり勉)の4人にプラスして1996年に引き込まれた飛行機乗りアレックス=シープレーンがあげられる。
それに対し、『ブレック・ファスト・クラブ』はブライアン(秀才)、アンドリュー(スポーツマン)、ジョン(不良)、モリー(温室育ち系リア充女子)、アリソン(不思議ちゃん)の5パターン。
スペンサーにブライアンが、フリッジにアンドリューが、ベサニーにアリソンが、マーサにアリソンが置き換えられると思うが、ジョンはアレックスに置き換えられない。
アレックスはそもそも冒頭でしか子ども時代が描かれず、キャラが定まらない。強いて言うならゲームオタクのサブカル少年だろうが、それはスペンサーと被る。
ジョンに対応するキャラクターとしてアレックスを配置するべきだったのではないか。そうすると中盤以降で仲間割れが発生し、物語の流れが悪くなってしまうという意見もあるだろう(アレックスの登場は物語中盤~)。だとすれば、冒頭からアレックスを登場させるという手もある。ゲーム内の案内キャラかと思いきや、彼は20年前に引き込まれた少年だった。探していたピースは、実は一番近くにあったのだ。
その展開の方が、熱くないですか?
アレックス以外の少年少女の描きこみも正直不十分に思える。スペンサーがオタクだとわかるのはある程度のゲーム知識と冒頭のゲーム描写だけ。しかもストリートファイターはオタクアイテムとしては浅くないか?
フリッジがスポーツマンだというならスポーツで活躍するシーンは1箇所は含めるべきだろう。あのままではただの勉強できない幼馴染に対していやな奴でしかない。
ベサニーはまだ現世の描写は他よりもなされていたと思うが、ゲームの中に入ってから改心までが早すぎると思う。ゲーム開始からものの20分くらいでマーサに「あなたもかわいいのに!」と言ってしまうのだ。スクールカースト上位と下位の差は女子ほど苛烈である。ここは、終盤まで引っ張るべきポイントでは? ギスギスした空気を終盤までひっぱりたくなかったのかもしれないが、対立構造は維持しつつもその様子を外側から描けばスノッブな面白さに満ちている―人生は、アップで見ると悲劇だが、離れてみると喜劇だ――まさにコメディな脚本になったろうし、誘惑レクチャーの下りとかも対立しつつもゲームクリアのためには仕方がないというロジックで描けたはずだ。
マーサは一番描きこみが薄い。体育の授業を屁理屈でボイコットしようとする女をなんでスペンサーは好きになったんだ!? マーサに関しては現実時点でもうちょっと隠された美点を描くべきだったでしょう。
総じて、ゲームの中に入るまでの時間が短すぎるのだと思う。もう5分増やしてよかった。その代わりに、カゴの蛇をとらえるくだりはぬかそう。あれ、3D向けのサービスでしかなかったでしょ……。
ココ、一味足りない②ゲームという設定の活かし方
致命的なもんだいとして、ジュマンジのゲームがおもんなさそうなのである。
まず、あのゲームでネズミのムースを選ぶやつがいるか? 荷物運び専用のキャラって。。ゲーム内パワーバランスがおかしすぎる。ジュマンジはスマブラの開発者にゲーム監修をしてもらうべきだった。
敵キャラもヴァン・ペルト以外モブでしかなかったし、登場する自然の驚異もカバ・サイ・ヘビ・ジャガーと現実の延長線上にすぎる。もっと、巨大なライオンとか出せ中田のか?そうするとランペイジと被るのか?
ゲームの謎自体も単純で特にどんでん返しがあるわけではない。キャラクターのレベルアップ、アイテムのやり取りや精製、回復など普通のRPG要素は一切なし。そのくせキャラパロメーターやNPCといった要素だけ入れているからジュマンジ、ゲームあんまり知らんのちゃうか…とがっかりしてしまうのである。
前作はゲームが現実の世界を侵すのに対し、今作はゲームの中に入り込むのだ。話のスケール自体は小さくなり、悪く言えば個性を失ったのだから、その代わりにゲーム内でしかあり得ない超ド級の映像を見せるべきでしょう。前作の描写のスケール感、設定のスケール感ともに縮小されていたと思う。
ココ、ひと味足りない③ウェルカム・トゥ・ジャングル
サブタイトルにもなっているローリングストーンズのウェルカム・トゥ・ジャングル。この映画ではエンドロールとともに流れる仕様となっている。
だが、どう考えてもタイトルとともに流すべきだったろう。そして、それとともにアレックスのジュマンジ内での孤軍奮闘を描くのだ。そうすることで、後で出てきた時のカタルシスが、2倍・3倍も異なったものになるというのに(この部分、アレックスをはじめから出せという前述の提案とは矛盾するが、今回のプロットの場合の別の提案ととらえていただきたい)。
せっかくサブタイトルにまでするのだから、曲の力を借りてテンションを爆上げにさせてくれ。
そのあたりの発想が一味足らず、また、人間が描き切れていないという意味でヒト味足りないというのが、この映画を鑑賞しての俺の不満であった。
とはいえ、ハムくらいの味付けはしてあるので、見て損ではないと思う。
『レディ・プレイヤー・1』100点 ありがとう! 僕らのポップカルチャー
※ネタバレがあります
『レディ・プレイヤー・1』面白過ぎて泣きそうになった。別にガンダムもゴジラも見たことないけど、何か奇跡的な祝祭が観れているぞと感じた。ありがとうスピルバーグhttps://t.co/Ldco80UNTo
— 遠縁の親戚 (@miya080800) 2018年4月22日
俺はオタクではない、と思っていた。
深夜アニメを楽しみに見た経験がほとんどないし、ガンダムも特撮もハマらないし、好きなものに金ジャブジャブ使えないし。
結局のところ素晴らしい文化や誰かの素晴らしい才能よりも、作品に投影される自分の虚像が一番好きだし。
でも、そんな自分でも「なにか、今大勢のタスキをつないでできた1つの奇跡的なエンターティメントを目にしている……!」と涙しそうになった。
孤立無援のサブカルに、オタクの血が流れていたのだ。
(あるいは、サブカルもオタクの1種でしかないということかもしれない)。
それだけで、100点! 5億点!
ストーリー
西暦2045年。1部の企業のみが富を握り、多くの庶民は狭いアパートに押し込められ貧しい生活を送らざるを得ない。だが、人々は何でも実現可能な仮想空間”オアシス”に夢中の人生を送っていた。
天才工学者ジェームス・ハリデーが設計したオアシスには、3つの鍵――<イースターエッグ>(ゲーム内の隠しアイテム)――が隠されている。その3つを手に入れたものはハリデーの全財産56兆円とオアシスの支配権が与えられると、亡くなった日に発表された映像の中で、ハリデーはいった。
それから数年、ハリデーの謎は1つも解かれていない。
そんな中で本気でゲームクリアを目指すのは、利益集団である企業―101のシクサーズ―か、イースターエッグを狙うもの、ガンターだけだった。
主人公、ウェイド・ワッツもその1人。コロンビアの狭い叔母の家の中、乱暴な情夫にいびられながら、彼は、ゲームの中で、クリアをあきらめず目指す。そんなある日、第一のカギにつながるといわれるレースゲームで、ウェイドは有名な「シクサーズ」殺し、”金田のバイク”に乗った「アルテミス」を見つける。それは、彼にゲーム攻略のヒントを与える大きな出会いとなるのだった――。
所感――これは万人向けの”エンターティメント”だ
原作はアーネスト・クラインの小説。
各所でいわれていることだが、版権ネタ満載のため、スピルバーグというレジェンドが看板とならなければ、そもそも企画自体が成り立たなかった一品。
「映像化不可能」といわれるものほど映像化される法則あるな、コレ。
ただ、俺はその小ネタに感動したわけではない。
もちろん、多くの感想で書かれているように「ガンダム×メカゴジラ」はおお、熱いなと思ったし、「ビートルジュース」がわかったときはうれしかった。「シャイニング」も、双子のシーンが出てきただけでニヤニヤしてしまった。
でも、それはあくまで二次創作的な喜びであって、ファンアートやソシャゲのコラボ企画でも満たされる欲求だ。
そうではなく、ゲームの中に入り込み、ミッションを達成するというだけの話を、”面白いアイディアの数珠繋ぎ”にするための工夫が随所に仕込まれていて、まったく手が抜かれていないのが良かった。
まず、ミッションの構成。
第1のミッション:レースゲーム
第2のミッション:館探索ゲーム
第3のミッション:ゲーム内ゲーム
原作からそうなのかもしれないが、動→静のミッションへという構成がうまい。
派手なアクションでまずは引き込み、徐々に静的なゲームへと引き込んでいく。そして、最後はゲームをしている主体=主人公という状態でオトす。
オタク層にとっては自分をどんどん主人公と重ねていける理想的な構成だし、アクションから徐々に純ゲーム性を高めていくのは、ライト層にとっても親切だ。
また、ミッション外の空間のデザイン。
それは、実際のところあまりきちんと描かれていない。図書館、集会場、様々なキャラが闊歩するエントリーロード、家。しかし、それは、このゲームのオープンワールド性を強調し、現実の世界のゴミゴミした様子と対比されて、まさに”オアシス”であることを表すのだ。
それに、映画の中でゲームという形で映画の世界に入り込むとか、制作者の全時間が360°記録され、自由に閲覧できる図書館とか、作中のガジェットのワクワク感もつるべ打ちでサンドされている。
「”オアシス”に実際は入れたら何をする?」という質問にスピルバーグは以下のように答えた。
作中で『シャイニング』の世界に入っているように、映画の中の世界に入りたい。ただし、自分は役者ではないので、椅子や壁として、別の視点で物語を眺めたい。
ありきたりでなく、また制作者にふさわしい完璧な回答だ。設定に対して”一番ワクワクできる使用法”を考えられる才能、つまりはエンターティメントの才能が本当にある人なんだなあ、と思う。
挙げたような美点は決して小ネタや知ってる人の共感だけ狙って成立するものではない。まず、真っ当にこの素材を使って人を面白がらせるにはどうすればよいか、ということが考え抜かれていると思う。とはいえ、そういったファン向けのサービスもきっちりやり抜かれているのがすごい。その点については多くの記事で元ネタ集などがまとめられているだろうから深くは言及しない。
どういう集団なんだ、101
では、この作品が全く粗のないものかというと、そうではない。
まず、主人公たちトップ5が全員近所に住んでいるというのは奇跡が過ぎる。
それに、ウェイド・ワッツは実はオタクが共感できるような主人公ではない。ゲームに関する知識は並大抵ではないし、ソレント(敵の親玉)の嘘を見破る洞察力もずば抜けている。また、パスワードを覚える記憶力もあるし、格闘術にたけた殺し屋を蹴り飛ばせるだけの運動能力もある。
かなりの完璧超人なのだ。
それに彼は今まで育ててくれたおばさんの死をほとんど悲しみもしない。はっきり言ってサイコパスだ。それほど、精神すらも鉄壁ということでもある。
極端に言ってしまえば、完璧超人が都合よく才能を発揮して世界のすべてを手にする話である。
また、敵の設定もよくわからない。どういう悪い集団なんだ、101。ソレントはその中で上に立つだけの思慮深さや頭脳があるとも思えないし。
あれだけのビジネスマン・オタクが集まって第1の試練すら解けなかったというのもバカすぎる。普通1ヶ月以内に試すだろ。
でも、それらすべてがこの物語の面白さを阻害しない。どころか、十全に設定とストーリーの良さを発揮させるためには最善手だったのではないかと思える。
2時間弱で世界を変える主人公は完璧超人であるべきだし、オアシスの中のセカイの広さと対比するには、現実世界は狭いくらいでちょうど良い。この物語において、真の敵とは、ゲームの攻略だ。101はその道のりを阻害する文字通り雑魚キャラに過ぎない。とすれば、主人公たちを脅かすほどの脅威ではないことにも必然性がある。
とにかく、粗はあるが、それはツッコミどころではあっても、物語の面白さを何ら阻害しないのである。
女はハマらない?
ここまでほめそやしてなんだが、この映画、女は好きじゃないらしい。
とはいっても、サンプル数1なのでまったく一般化はできないのだが、確かに一理あると思ったのでその発言をメモしておく。
「私はそれほど面白くないと思ったな。しかも、それには明確なストーリーの粗とか理由があるわけじゃなくて、世界観や目指すものが、純粋なオタク男子の夢過ぎて付き合いきれないというか。。。」
「この感覚が、何に似ているかっていうと、GANTZに似てる。いやまあ確かに設定とかゲームっぽいところとか似てるんだけど、そうじゃなくてもっと深いところでどうしてもハマれない。」
「それに、主人公とかそのほかの面々はさえないのに、ヒロインはかわいいのがムカついた。それもオタクの夢性が強すぎるというか。もちろんトシロウもイケメンなんだけどね。」
タラレバ娘の『ダークナイト論争』を思い出した。何となく好きになれないんじゃ、暖簾に腕押し。糠に釘。でも、GANTZに似ているというのはなかなか鋭い指摘だと思う。
彼女は『キングスマン』(2014)『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)『バーフバリ』(2017)は好きなのだという。
それらと『GANTZ』『レディ・プレイヤー・1』の違いは何なのだろう?
主人公の肉体性か?
見事なバランス感覚に100点
この物語のラストのセリフは、『だって、リアルこそが本当の意味でリアルなんだから』。
虚構の中でヒーローとなった主人公が現実の大切さを語ることで、「結局現実に向き合えないオタクのたわごとじゃねーか」という批判を見事にかわしている。
そこが周到過ぎて逆に嫌いという向きもあるだろうが、このバランス感覚が俺は好きだ。
とにかく、これ以上のバランスは考えられない。アクションとストーリーのバランスも、ケレン味とリアリティのバランスも、スピルバーグのフィルモグラフィにおける『ペンタゴンペーパーズ』(社会派)と『レディ・プレイヤー・1』(エンタメ)のバランスもそうだ。
そのバランス感覚は、100点だ。
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『ラッキー』70点 死によって完成した哲学
※ネタバレがあります
含蓄を求める日に
”含蓄”を欲する夜。人は賭けに出る。
例えば『レディ・プレイヤー・ワン』みたいなSF大作をみれば、おおよそ眠気とは無縁の2時間強を過ごせるだろうし、『ペンタゴンペーパーズ』だってドラマ性という意味でははずれなしが約束されている。どっちもスピルバーグだし。
いや、別に『ダウンサイズ』でも良い。ネット上の評判はすこぶる悪いが、それでもアイディアの奇抜さである程度の興味の持続の期待感は持てる。
それに対して『ラッキー』。
ストーリー
神など信じずに生きてきた90歳のラッキーは、今日もひとりで住むアパートで目を覚まし、コーヒーを飲みタバコをふかす。いつものバーでブラッディ・マリアを飲み、馴染み客たちと過ごす。そんな毎日の中でふと、人生の終わりが近づいていることを思い知らされた彼は、「死」について考え始める。子供の頃怖かった暗闇、去っていった100歳の亀、“エサ”として売られるコオロギ ― 小さな町の、風変わりな人々との会話の中で、ラッキーは「それ」を悟っていく。
ストーリーに起伏はないことが予想される。とはいえ、『ウディ・アレン』的な会話劇が物語の間中ずっと観客をくすぐってくれるのかもしれない。それは、俺にわかりやすい興奮やドラマとは一味違う”含蓄”を味合わせてくれるだろう。
そう思って、劇場に向かった。
所感―眠い
予告編を見ただろうか? 実際の作品のテンポ感はその0.8倍だ。
ラッキーは老人だから当然しゃべる速度は落ちている。
また、ラッキーの日常に何かが起こるわけでもない。
『パターソン』(2017)以上の繰り返し。
朝、なじみのカフェに行って、昼、タバコか牛乳を買って、
夕方、クイズ番組を見て、夜、バーでブラッディ・マリアを飲み、眠る。
そのほかの行動は一度、商店の店員に誘われてパーティに行くだけ。
――ああ、眠い。
いや、そういう映画だと最初からわかっていたし、それが良いという方が多数いることもわかるが、それでもあまりに遅いと思った。
予告のテンポ感でいいのだ。そこから落としたらさすがにつらい。
要するに、この作品が支持されているのって「国民の持つ底辺老人あるあるに共感できるから」と「ハリー・ディーン・スタントンの遺作だから」なんじゃないの? と思った。
俺はあいにくアメリカ人じゃないし、老人じゃないし、ハリー・ディーン・スタントンに思い入れもない。そんな人間には見る資格がなかったのかもしれない。
だから、もしこれが邦画で主人公が「孤独な元大日本帝国軍人。退職後は極右になり、現在死を前にして孤独」だったらもっと心に来たのかもしれないなと思った。
時代に取り残された男
カウボーイハットをかぶる、1人の孤独な老人。妻や子どもはいない。
どこでもタバコを吸おうとする。
趣味はクロスワードパズルとクイズ番組。だが、あまり複雑な構成の番組は好まない。
わからないワードがあれば、電話をかけて尋ねる。
バーでは、いつも同じものしか頼まない。
それが、ラッキーだ。
カウボーイハットを五厘狩りに、バーを飲み屋にすれば、日本でもこういう爺さんは五万、十万といるだろう。
そんな男が「ラッキー」。そういう、皮肉交じりの導入から、それが実は真実であることを証明する過程、それがこの物語のテーマだったのだと思う。
そのため、この物語ではラッキーのわびしさ・独居老人感が重要になる。
それが、日本人の俺には伝わりづらかった。
もしも、ラッキーが「幸福太郎」という名前で、自宅は猫の額ほどのアパートで、朝は具なしのお茶漬けだったらどうだろうか。
かなり、わびしさが伝わる。
この作品が伝えようとしたものを日本人が味わおうとするなら、すでに『生きる』(1952)がある、ということなのかもしれない。
ただ、『生きる』はまだドラマ性があるからな…。
もっと(悪い意味でなく)つまらない『生きる』だな。
「空」について
植物が咲き乱れる場所の前を通る際には決まって「クソ女め」とつぶやく。
公式説明文でも明らかにもって余った言い回しになっているこの植物が咲き乱れる場所。
そこがなんなのかは、物語の終盤に明らかになる。
そこは、「エデンの園」。つまり、クソ女とは、イヴのことだ。神に作られた最初の人類、アダムの妻で、蛇の誘惑に負け、知恵の実(リンゴ)をかじったことでエデンの園から追放された彼女。
――クソ女め、お前がリンゴをかじったせいで、俺はこんなクソったれな現実を生きてるんだぞ
数万世紀越しの「母ちゃんのせいで…」。
ラッキーは作中で3回エデンの園の前を通るのだが、「クソ女め」とつぶやくのは最初の2回だけ。
3回目は黙って立ち去り(そこで”そこ”=”エデンの園”だとわかる)、「エデンの園」は「閉園中」だということがわかる。
もう1つ、示唆的なシーンがある。
デヴィッド・リンチ演じるハワードが終活のため、呼んだ弁護士にケンカを売ったラッキー。「終活なんかするな! 弁護士なんざ詐欺師だ! 表に出ろ」。表でタバコをふかしていると、友人のポーリーが止めに来る。そうして2人が話していると、店のわきの空き地から、音楽と赤い光が。ポーリーは待てといい、その中へ進んでいく。しばらくしてラッキーもその中へ。そこには落書きだらけの空間と「EXIT」と書かれた扉があり、その中へ進んだラッキーが覗き込んだ顔面のショットで、夢が覚める。
そして翌日、ラッキーは「死ぬのが怖いんだ」と告白する。
つまり、このシーンは、ラッキーが「出口」=「死」を覗き込んだ様子を表しているのだろう。死は、落書きや聞きなれない音楽のように不愉快な道の先にあり、覗き込んだ先は、暗闇でしかない。
終盤、禁煙ルールが敷かれているエレインの店でラッキーはタバコを吸うと言い出し、もめた後、こう言う。
「死とは、「空」だ」
これは、非常に仏教的な考えだ。
空とは、梵語「シューニャ」の訳語で、よく「無」とも漢訳される。(中略)ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを「空」という。
例えば、ラッキーが趣味とするクロスワードパズル。言葉はすべて単体では成り立っていない。「L・U・C・K・Y」のLは「L・I・K・E」の「L」でもあり、「L・U・S・T」の「L」でもある。そこに絶対的な意味はない。観測者が意味を見出すだけである。
説明文の通り。ラッキーは神を信じない。自信を現実主義だと言う。そして自己流で、たどり着いたのが仏教の考え。そう思うと、この作品は、キリスト教では救われない魂が仏教的な”空”の教えに救いを求める話なのかもしれない。
自分は不勉強にして『レボマン』も『パリ、テキサス』も観たことがなく、ハリー・ディーン・スタントンを知らなかったのだけど、これは、彼の映画なんだね。
【ハリー・ディーン・スタントンのプロフィール】
1926年7月14日、ケンタッキー州生まれ。第二次世界大戦に出征、海軍に従軍して沖縄に上陸した。
「ゼン・カウボーイ」と形容され、仏教的な価値観を支持する人物としても知られた。
カントリー・タッチのシンガー、ギタリスト、ハーモニカ奏者として精力的な活動を展開。
そんな彼が遺作として、自身の分身のような作品を作ったこと、それ自体に価値がある、というのはわかる。
まさに、死によって完成した物語なんだな。
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台湾旅行記#1 アラーキーが頭痛でマイム踊る夜
台湾という土地には親日の姑娘がいる。
夜ごと愛をささやき昼を昏くさせたよ。
機下にて俺、アラーキー、彼女は頭痛
仙台空港19:40発、タイガーエア。
その2時間前にはチェックインしなければならない。
俺は同行者のA子と国際線のチェックインカウンターへ向かった。
時刻は17:30。ちょうど良すぎて不安になるような時刻だ。
A子は黒字にピンクの縞模様が入ったバービーのキャリーバックを転がしている。
このキャリーバックの口にはバービーのロゴが刻印されているらしい。
俺は全く気づかない。知らされてはいるけど、気づけてはいない。
旅行前で2人のテンションは高い。仙台の夜風は冷たい。
まだ、3月17日なのだ。桜前線すら来ていない。
A子のキャリーバックを預け、チェックインを終える。俺はでかい緑のリュックを持ち、それよりはだいぶ小さいcallmanのバックを携えていた。緑のリュックは預けない。
それは、何か信念めいたものや精神をいやす作用、他人とは違うフェティシズムによるものではなくて、俺が多少A子より旅慣れているからだ。
預けた荷物が出てくるのは遅い。
19:40の飛行機に乗って桃園空港に着くのは23:05だ。
なるべく早く出なくては、メトロはなくなってしまう。
俺たちの安ホテルは台北市街にある。都会の中の安ホテルだ。
そこまでは1時間30分。
だから、つまり、その、時間を節約したかったわけだ。俺は。
でも、俺とA子は日本を出たら唯一の2人の日本人。いわば一蓮托生だ。
宙を飛来する蓮の葉。預ける荷物も2人で一つ。そのことを忘れていた。
だから、次の瞬間にバチが当たる――。
A子の具合が悪くなる
「風邪薬が欲しい」
A子がそういうので、空港の薬局に来た。3日分と5日分どちらを買うか迷うが、3日分にする。旅は4泊5日の予定だ。3日分で足りるだろうと判断した。
と言ってる間にA子の具合はどんどん悪くなっていく。
仙台空港3階左手にあるロイヤルコーヒーショップ仙台空港店で飯を食うことにする。「何か腹に入れれば治るかもしれない」とA子が言ったからだ。
俺は牛タン油そば、A子はサンドウィッチを頼む。
牛タンまぜそばのどこにロイヤリティがあるのだろうかと思うが、仙台を発つ前に、牛タンを食べたいと、故郷の砂を持ち去る旅人のような気持ちになった。
A子は治らない。
むしろ、どんどん具合を悪くして頭を突っ伏していく。
首を垂れること、冒頭の画像がごとし。
俺は気を使って水を汲んできたりもしつつ、焦りを募らせていく。
――こいつのせいで行けなくなったらヤダなあ。
薄情者はここにいた。熱は出てないかと尋ねるが、A子は出てないといい、俺がカメラを向けると「撮らないで」と身の前半部を隠す。
A子はこんな無様なさまを取られたくないのだという。
俺はシャッターを何度も押す。パシャパシャと音を立てて。カメラからボウフラのように透明なザーメンが飛ぶ。
俺は、平成のアラーキーだ。台湾に行く機会をふいにしようとしているA子を撮る。そうしてせめてもの元を取る。暇つぶしの糧とし、後で笑ってやる。
「やめろってんだろ!」
A子は怒りをあらわにして声を荒げた。俺はレンズに蓋をした。まるで、中折れしたインポがゴムを取り外すように。
機内にて彼女マイムマイム、俺は我慢
なんとか飛行機に乗ることはできた。
こうして彼は鉄の塊としての役目を4時間15分忘れる。
船は、”彼女”(女性名がつけられるから)だというが、飛行機はどっちなのだろうか。
俺は、男だと思う。トバすのは男だという、ただそれだけの理由だけど。
ここでもう1つ問題が起きる。
――空港内でドリンクを買い忘れてしまった。
手荷物検査の際、俺は痔の薬(60g)と歯磨き粉(120g)を没収されそうになり、なんとか痔の薬を医薬品ということで死守した。その結果、飲み物のことは完全に忘れていた。
A子は税関職員にカバンを開かされ、恥部をさらけ出させられる俺を見て笑っていた。もちろん風邪は治っていないので具合悪く笑っていた。人間は、具合が悪いときは悪いなりに他人を(嘲)笑うことができるのだ。その結果、飲み物を忘れたらしい。
桃園空港までは時差も勘案すると約4時間15分。その間中、何も飲めないのはつらい。
と思っていると、不安からか、どんどんのどが渇いてくる。
しかし、タイガーエアは台湾ドルかアメリカドルしか使えない。
日本と行き来する飛行機のくせに、使えない。まあ、現地で両替した方が両替レートいいらしいし、いくらLCCでも水くらいくれるだろ! と楽観視していた俺とA子が愚かなのだが。
A子はついに耐えられなくなり、客室乗務員の男性に向かって1万円札をかざす。
「Please, water water water」
フォークダンスが始まるのではないかと危ぶむくらいのマイム(水の意)の連呼。
大金で水を買おうとするLCC、エコノミークラスの日本女に福原愛の旦那を3発殴ったような顔面の彼は目を丸くして、うなずく。そして、帰ってこなかった(お金は取られていない)。
「もう良い、水呑んでくる」
A子はトイレに向かった。俺は唾を飲み込んだ。
解放されて冬瓜、寝てないのに牛になる
現地時間23:30。
バービーちゃんの荷物を無事受け取った俺とA子は、メトロに向かっていた。
現地についてすぐさま4万円を台湾ドルに両替、自販機でジュースを買った。
左は豆乳ラテみたいなやつ、右は文字通り蜂蜜冬瓜茶。細切れにされて砂糖漬けになった茶色い冬瓜が入っている。
どちらも歯が溶けるほど甘い。「台湾 飲み物 甘い」でググればわかる通り、台湾の飲み物は基本的に歯を溶かすことを目的に製造されている。
飲み干した俺たちは、メトロで台北駅に向かうことにしたのだが、畢竟、終電はもうなかった。
仕方がないのでバスに乗ることにする。
予定が崩れた俺は牛のようにモタモタし、A子は女のようにイライラした。
ありきたりな男女論に当てはまるような人間ではありたくないね。
俺もA子もそう願うが、実際はそうはいかない。ありきたりな人間なのだ。
それでも何とかバスを見つけ、夜闇に消えた。
後はホテルに行って、寝るだけ。
今日は大変な一日だったなあ。
冒頭の詩は、そのときに浮かんだのだ。
次の日は「龍山寺」「突発的祭り」「九扮」を体験した。そのことについて書きたいと思う。
『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目覚め 』90点 冗談の才能はないが彼は品がとても良い
たった5館から始まった感動の実話コメディ。
という触れ込みなのでこの映画を知らなかった人はそれを頭に入れておくと良い。
たった5館と聞くと「マジで!」と驚くほどチープさは感じられなかった。
この作品の主人公のイメージは、俺の中ではCOWCOW多田。
カキタレ*1とやるから!
ストーリー
主人公クメイルはパキスタン出身のスタンダップコメディアン。敬虔なイスラム教徒の家族の反対を押し切って、シカゴでコメディアンとして大成するためステージに立つ日々を送っていた。
ある日、そんなにウケないステージで客としてやってきたのがエミリー。クメイルが声をかけ、2人は付き合うことに。蜜月のときを過ごしていたが、クメイルのカードボックスをエミリーが見たことから2人は喧嘩してしまう。家族のつながりを大切にする両親は、パキスタン人女性をクメイルが来るたびに家に招いてはお見合いをさせていたのだ。その女性たちの写真がボックスには入っていたのである。
エミリーと別れ、行きずりの女と寝るクメイル。そこへ、エミリーの友人から着信が。
「エミリーが重傷なの、すぐ病院へ行って」
そして、昏睡状態に陥ったエミリーをめぐって、クメイルと、エミリーの両親の交流、そして実の両親との決別とがゆっくりと始まることになる。
所感―実話なんだから仕方ない
アメリカのスタンダップコメディって正直面白いと思いますか?
なぜ海外にはツッコミという概念がないのだろう?
一人芸の問題点っていうので最も大きいと思うのが、「自分でボケて(振って)自分で突っ込むという構造上、どうしても作り物めいた感じがしてしまう」ところだ。
面白い話を笑いながらするほど面白くないことはない。
つまり、芸人は自分の芸をあくまでも自分は大まじめに信じているかのように披露しなければならない。
落語が自作の者を披露するというよりは昔からの噺を口承で披露するという型も、あくまで昔からある話を伝える係だから俺は、という言い訳の為に用意されているのではないか。
だから、俺は、誘い笑いのお笑いは苦手だ。
長井秀和とかだいたひかるが嫌いなわけではないし、最近だって街裏ぴんくや桐野安夫は面白いと感じたんだけど。
基本的には、そしてこの作品の主人公は。
なにせこいつは空気が読めない。娘の病状を案じている両親に「でも良い方の昏睡状態で良かったですね!」などというのだ。冗談じゃない。
だから、物語の終盤、大病から目覚め、本音しか言えない彼女に「あなたってホントはそんなに面白くないわ。それに、嫌い。一緒にいると悲しくなるし」と言われたときは、「よくぞ、俺が思っていることを言ってくれた」と溜飲が下がった。
しかし、このクメイルがこの作品の本当のモデルで、この作品の脚本を書いて、製作総指揮もしているんだよね、
だとすると、わざと絶妙に面白くない自分をうまくキャラクターとして描いていたということになる。
…むう、すごい。
①つまらない自分を描き出せる客観性が
②絶妙な”つまらなさ”を描き出せるセンスが
それを知ってなお、「でもこいつほんとに面白くないけどなあ」と思ってしまうくらい主人公クメイルはつまらない。すごいぞ、クメイル(本物)。すごすぎて腑に落ちないけど。
良い点①おしゃれな描き口
クメイルのポリシーなのか、この作品の基本的な色調はコメディだ。
メロなところはほんの少ししかないし、その時も悲しげな音楽が流されるなど、ダサい演出は一切流されない。
さらっと流される。その描き口は非常に上品で、好感が持てる。
やっぱり海外はウエットじゃなくて良いなあ。
特におしゃれなのはラストシーン。
コメディアンとして一流になるため、NYに旅立ったクメイル。舞台上で漫談をしていると、客席にエミリーの姿を見つける。
エミリー「lololoolo」 (笑い声・奇声)
クメイル「ちょっとお客さん、笑うのは失礼ですよ」
エミリー「おかしいから笑ってもダメなの? 最高よ! て」
クメイル「ダメです」
エミリー「じゃあ例えばベッドで”最高よ!”っていうのもダメなわけ?」
クメイル「ダメです。それに、僕よりウケるのも」
客「lololo」
クメイル「NYには何しに?」
エミリー「人に会いに」
クメイル「へえ、その彼、彼女かもしれないけど、には会えました?」
エミリー「ええ、彼に、会えたわ」
上記のくだりは初対面と全く同じ。こういった手法はロマコメでは結構使い古されたものかもしれない。だが、イスラム家族との訣別というあまりポピュラーでない題材を持ってきてからの、普通のロマコメ的ベタラストというのは、やはりおしゃれで気が利いていると思う。
変化球を見せたからこそ、最後のストレートが映えるのである。
悪い点①現実よ、主人公に甘すぎでは?
実話なんだったらしょうがないんだけど、クメイルは正直幼児的なところが多分にあるし、自分勝手でもある。
母の言うなりにお見合いをしてきて、その裏ではエミリーと付き合い、お見合いの用をすっぽかす。
相手の女性の気持ちを考えたことがあるのか。
その点についてクメイルが深く反省するようなシーンがなかった*2ので正直彼の成長は一面的なものにすぎないと感じた。
また、ルームメイトのひげ(名前を忘れてしまった)の扱いもひどい。
良い奴なのに、センスのない馬鹿扱いされて、NYへの上京でも仲間外れにされるのだ。あいつは何だったんだ? あいつの意思はどこにあったんだ?
クメイルとエミリー母との和解のプロセスも正直よくわからない。それまでしかめっ面だったのにクメイルが漫談を初めたとたん笑いだし、クメイルを侮辱した男に怒りまでするのだ。母がかなりのモラリストだとしても、クメイルの漫談そんなにツボだったわけ?
俺はずっとクメイルがつまらないと思っていたから、その点がクエスチョンマークでしかなかった。
まとめ――描く違い
本作のコメディは違いを描くコメディだ。
それは、イスラムと欧米社会の違いでもあるし、男と女の違いでもある。
論理に偏る男、感情を叫ぶ女というステレオタイプは欧米でも変わら内容で、共感性が高く、そこでは純粋に面白くあれた。
きっと、イスラムや欧米人が身近にいたら国民性違いコメディ部分ももっと笑えたのやもしれぬ。
勉強になった。
(上品だがつまらない幕切れ)