裸で独りぼっち

マジの日記

ぼくの卒論「「ぼくとぼく」系セカイ系が描く自意識―佐藤友哉の作品分析を通して―」

※本文章には、佐藤友哉の小説作品、(特に、『大洪水の小さな家』『クリスマス・テロル』『1000の小説とバックベアード』『世界の終わりの終わり』『鏡姉妹の飛ぶ教室 〈鏡家サーガ〉例外編』『灰色のダイエットコカコーラ』『子供たち怒る怒る怒る』の重大なネタバレが含まれています。

 

卒論題目

「「ぼくとぼく」系セカイ系が描く自意識―佐藤友哉の作品分析を通して―」

 

章立て

 

はじめに

1章 自意識を描く「ぼくとぼく」セカイ系

  1節 セカイ系分析の流れ

  2節 セカイ系の定義のパラダイムシフト

  3節 自意識を描く「ぼくとぼく」セカイ系

 

2章「ぼくとぼく」セカイ系はどんな自意識を描くのか

  1節 「きみとぼく」セカイ系から「ぼくとぼく」セカイ系への移行としての

     『大洪水の小さな家』

  2節 〈他者〉の問題とひきこもり

  3節 「社会」の内面化による唯一性の獲得への欲望

 

3章 「ぼくとぼく」セカイ系はどのように自意識を描くのか

  1節 自意識を再生産するための自意識モード

  2節 作者の登場とアイロニカルな没入-『クリスマス・テロル』の作品分析を通して-

  3節 相反するメッセージによる自意識の再生産

  4節 「書くこと」で「1000年残ること」

おわりに

 

「はじめに」

 

 セカイ系という言葉がある。この言葉は2000年代のアニメ・マンガ・ライトノベルなどのサブカルチャーと、それを論じる界隈における、重要なキーワード[1]であり、東浩紀宇野常寛笠井潔斎藤環などのサブカルチャーと親和性の高い多くの論者たちがさまざまな作品をセカイ系と名指しして、論じてきた。だが、その定義について一般的に共有されているものは存在するものの、異論も多く、またそれに当てはまらないような作品であってもセカイ系と名指しされ、論じられるようなものは多く存在する。

これはなぜか。

それは、セカイ系が多く論じられるようになる中で、その定義に1度パラダイムシフトが起こり、その前者の定義と後者の定義がはっきりと峻別されないまま議論がなされてしまっていたからである。このようなパラダイムシフトについて言及するため、またセカイ系論のまとめとして前島賢の『セカイ系とは何か』が2010年に刊行されたが、セカイ系についての議論が沈静化していたこともあり、未だパラダイムシフト発覚後にセカイ系を、特に変化後にその定義からは切り離され、しかしなおセカイ系作品だとして名指しされることも多かった第1次定義の典型的な作品について中心的に論じられた例があまりない。しかし私はその第1次定義の典型例であり、しかし第2次定義からは切り離されたものこそが「自意識」を描くという点で、新しい想像力であり、東浩紀が言うところの「まんが・アニメ的リアリズム」でしか描かれえないものを描いていると考えている。

その、第2次の定義からは漏れてしまった作品にこそ描きうる「自意識」とはどのようなものなのか、そしてその実践としてどのような試みがあるのかを本論文では論じたい。私は今回主に「セカイ系」作品を作る作家の中でも佐藤友哉という小説家の作品群を取り上げる。それは、佐藤がセカイ系、(と名指しされる作品形態)の中でも自覚的に「自意識」を描き出す実践を行っていると考えているからである。

具体的な章立てについて説明したい。

まず第1章では「セカイ系とはなにか」と題し、セカイ系の意味のパラダイムシフトとその過程で切り捨てた要素について前島賢の論を下敷きにして述べ、その切り捨てた要素「ぼくとぼく」セカイ系こそが自意識を描くという主張の土台をつくる。

第2章では、「きみとぼく」セカイ系的感性から「ぼくとぼく」セカイ系的感性への移行を描く佐藤友哉の『大洪水の小さな家』を分析し、2節・3節でその中で描かれる自意識の抱える問題(自傷的自己愛)とその問題の救いをどこに求めるのか、を述べる。

第3章ではまず、佐藤の作品を佐藤自身が作中に初めて登場した『クリスマス・テロル』以前以後に分け、その以前、以後において佐藤作品はどのような自意識の描き方をしているのかを分析する。そして、その後佐藤が「自傷的自己愛」から自己を救う道として光を当てた「書くこと」について述べる。

文学のテーマとして、自意識の悩みというのは、普遍的なテーマであり続けてきた。その追及が推理小説というジャンル小説からでのメタ的な実践から私小説に持ち込まれたことはひとつのエポックメイキングであった、と私は考えており、それについて現時点でまとめることは文学の実践の追求への貢献において意義のあることであるという考えのもとに私は卒業論文にこのテーマを選んだ。

 

「1章 セカイ系とは何か」

 

1節 セカイ系論の歴史

 

 まず、セカイ系という言葉が一般にどのように論じられていたか、認識の共有を行うために主にどのようなセカイ系論が展開されていたのかを示したい。

 セカイ系論が大きく取り上げられることとなったのは、評論家の東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』でキャラクター小説(ライトノベル)で多くみられるオタクのジャンルコードに満ちていながら世界を直接に描こうとする(「不透明」でありながら「透明」であろうとする)「半透明」な言葉の想像力として「セカイ系」を取り上げたのがきっかけである。これに対し、評論家の宇野常寛が著書『ゼロ年代の想像力』を刊行し、「セカイ系」とそれを擁護する東ら論者を批判[2]することでセカイ系を肯定するのか、否定するのか、といった論議が盛んに行われ、作家、笠井潔や評論家、蔓葉信博(つるばのぶひろ)らによる限界小説委員会が宇野常寛セカイ系批判に対し、再反論を試みるなどの動きがあった。しかし東がセカイ系を肯定するのではなく、セカイ系のような小説が出てくる環境を肯定するのだという立場をとったため論争が広がらず、加えてセカイ系の意味が拡散し、多くの作品に当てはまり過ぎるようになったため、次第に論じられなくなり、セカイ系の起源と定義の変遷をまとめた評論家、前島賢の『セカイ系とはなにか』が2010年に刊行されることでセカイ系をめぐる論争は落ち着いた。 

 

2節 セカイ系の定義のパラダイムシフト

 

 前島賢は「セカイ系」とは何かを明確に定義しようと『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』でセカイ系の誕生からそのブームの終焉に至るまでの言説を総覧した。

同書で前島は「セカイ系」の定義には一度パラダイムシフトがあったという。

以後、パラダイムシフト以前の定義を1次、以後の定義を2次とする。

 

先に2次の定義について述べる。前島の言葉を引用して、ざっくりまとめなおすと2次の定義は「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」[i]となる。だが、この定義は2003年以降、「セカイ系」という語が文芸評論を中心に広まり定義された後のものであり、加えて現在「セカイ系」とされている作品すべてに当てはまるものでもない。

そもそも「セカイ系」という言葉は、「ぷるにえブックマーク」というウェブサイトの管理人ぷるにえが提唱したものである。彼のセカイ系の定義は以下のものである。

 

・ぷるにえが一人で勝手に使ってる言葉で、大した意味はない

エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる

・これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった。[3]

 

以上のように「セカイ系」の定義は提唱者にとっても非常にあいまいなものであり、加えて揶揄的な意味合いが強い。前島はこの曖昧さやウェブサイトの書き込みゆえの口語的で議論で用いづらい表現、揶揄的な意味合いを脱臭するために「セカイ系」の定義のパラダイムシフトは起きたのではないかという。

前島は「エヴァっぽい」という表現が主人公の自意識を描き、エヴァに感情移入し主人公と自分を同一視する視聴者を多く生んだ「オタクの文学」ともいえる「後期エヴァンゲリオン」に由来するのではないかとし、以下のように「セカイ系」の1次の定義を記す。

 

「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素や ジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。その特徴のひとつとして作中登場人物の独白に『世界』という単語が頻出することから、このように命名された。命名者はウェブサイト『ぷるにえブックマーク』の管理人、ぷるにえ」[4]

 

ここで最も重要なのは「自意識」という言葉である。1次の定義では「きみとぼくの恋愛関係の中でありのままの自分の承認をもとめる」という、引きこもり的な自意識を扱う作品だけが「セカイ系」とされているが、2次の定義では「自らの自己認識を元に倫理観を超越しようとする」『DEATHNOTE』の夜神光のような、評論家の宇野常寛が「セカイ系」を批判し、より新しい想像力として取り上げた「決断主義[5]の自意識も「セカイ系」に含めるのである。

 前島は1次の定義を選択したうえで「セカイ系」の核を「自己言及性」に求める。自己言及性とは、エヴァンゲリオンを見た主人公シンジが「これ、ロボット?」というように、その作品内で自己の虚構性のアピールを行うような作中の要素のことである。このような自己言及性が「セカイ系」の「半透明性」を内容の面から支えていると前島は言う。登場人物がアニメをアニメと指摘できる近代的な自意識と傷つく身体をもつ「透明」な文体で描かれるべき存在であることをアピールしつつ「不透明」な「まんが・アニメ的リアリズム」の世界に飛び込むことが作品の「半透明」性を文体とは別の面から支えるというのである。前島は内容と文体の双方から目指される半透明性が「セカイ系」のキーポイントであるという。

 さらに前島は「セカイ系」の流行の背景には弱い主体に同一化し、反省したいという奇妙な欲望があるとする。「セカイ系」批判の典型として①社会が描かれていない、②引きこもり的である、というものがあるが、そのどちらについても作中で言及されている。つまり「セカイ系」は批判を織り込み済みで、むしろ批判と共依存関係にある中で弱い自分を反省したいという欲望を満たすのである。

 

3節 自意識を描くセカイ系

 

  前節の流れを一度まとめよう。

  前島賢は、セカイ系の定義に一度パラダイムシフトがあったとし、パラダイムシフト以前のセカイ系を第1次、パラダイムシフト後のセカイ系を第2次とした。

第1次の定義は、前島による、以下の定義である。

 

「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素や ジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。その特徴のひとつとして作中登場人物の独白に『世界』という単語が頻出することから、このように命名された。命名者はウェブサイト『ぷるにえブックマーク』の管理人、ぷるにえ」[6]

 

後者の定義は東浩紀による、以下の定義である。

 

「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(きみとぼく)を社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」[7]

 

第2次定義における代表的作品は、『最終兵器彼女[8]、『イリヤの空、UFOの夏[9]、『ほしのこえ[10]の3つである[11]とされている。

では、第1次定義の代表的作品とは、何なのだろうか。「オタクの文学」と化した後期『エヴァ』はもちろん当てはまるのではあるが、後期『エヴァ』後にその自意識の「1人語り」というテーマを訴求する役割を受け継いだ作品は何なのかということである。私は、推理小説のレーベルである講談社ノベルスから出版された佐藤友哉や、西尾維新や、舞城王太郎などを代表とするいわゆるファウスト[12]の小説群がそれになると考えている。これらの作品ではいずれの主人公も10代ないし20代前半で、その自意識を激しく作中で一人称を用いて一人語りする。前島はこれらの3人の作家の作品に共通することとして、「密室や探偵といった推理小説の決まり事をことさらに作中でアピールする点」、「他作品(特にアニメや漫画などのサブカルチャー)からの引用が多い点」を上げる。3作とも推理小説なのだから推理小説の決まりごとがはっきり見られるのは当然なのではないかという反論が生まれそうではあるが、ここで問題なのはジャンル小説として疑いなく受け入れられていた推理小説のルールに作品の主人公が自覚的であり、そのジャンルにおけるルールを前提とした上であえて破壊することで、結果的にジャンルを解体しているということである。基本的にこれらの作家の作品は推理小説という形式をとっているものの謎解きには重点が置かれておらず、それゆえ笠井潔に「本格形式を前提としつつ形式から逸脱する傾向[13]から推理小説の文脈で「脱格系」とも呼ばれている。3人の講談社から出版された作品のいずれにおいても例えばクローン人間を生み出せる科学力を有する研究所、予知能力や死者をよみがえらせる能力を持つ能力者、ヨウ素を用いて育てられ異様に大きく育った赤ん坊などの現実離れした設定が前触れもなく出てくる。これは言うまでもなく推理小説におけるルール違反である。しかし、「脱格系」は推理小説の形式をとっていながらルールなどまるで存在しないようにふるまうのだ。

実際デビュー後3人の小説はいずれも本格ミステリの形式から出発するものの、西尾の作品は少年漫画的なバトル要素を持ったライトノベルとして評価されていき推理小説的な謎解き要素よりも少年漫画的な能力バトルとキャラクターの掛け合い、そしてトートロジーアナグラム、韻文を用いた「言葉遊び」に重点が置かれていく。佐藤は私小説的な過剰な自分がたりにより、舞城は独特のドライブ感を持つ文体と思春期的な感性により、のちに三島由紀夫賞を受賞することからも分かるように純文学として評価されていく。

引用に関しては西尾と佐藤に顕著である。その中でも佐藤に特徴的なのは漫画・アニメなどのサブカルチャーも、テレビ番組や有名なミュージシャンなどのポップカルチャーも、「文学」の範疇に入るような小説も、具体的な商品名も、すべてを同じ手つきでサンプリングすることである。

 

「今回は何を描いてるの?ガンダム?」[14]

 

クラフトワークなんぞにしやがって生意気な。あんなデブは三分間クッキングで十分だ。[15]

 

『兄さんなんか大嫌い!この海にいる人はみんな嫌い』[16]

サリンジャーナイン・ストーリーズ』からの引用

 

加えて、前島は西尾と佐藤の作品における「1人語りの激しい」自身の主観的な判断によって犯罪行為を行ったりする倫理観の欠如が、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』でセカイ系後の新しい想像力であるとして持ち出した究極的に無根拠であることを織り込み済みであえて特定の価値観を選択する決断主義と一致すると指摘する。[17]つまり、決断主義も第1次セカイ系は含むということである。

このような、決断主義を含む作品内で若者が自意識を吐露する作品を「きみとぼく」の閉鎖的な恋愛関係に限定された第2次セカイ系の代表作と対比し、自己の心情をひたすら自問自答する「ぼくとぼく」セカイ系と呼ぶことにする。これは、ファウスト系もしくは脱格系とほぼ一致するものの、あくまで雑誌のタイトルから派生した呼び名であるファウスト系よりも、また推理小説の中の本格ミステリという概念から対置される脱格系よりも、セカイ系の文脈で使用しやすいためこの呼称を採用したい。

私は、「ぼくとぼく」セカイ系にこそいまだ解決されないセカイ系が描くもの、自意識のテーマの(物語が描かれた時点で)最新の問題が表れていると考えている。それは、「ぼくとぼく」セカイ系がそのルーツを探偵小説に由来するからである。

どういうことか。探偵小説が勃興した19世紀末の時代と、セカイ系が生まれた20世紀末の時代の想像力の環境はリゾーム状/データベース状中心の消失/大きな物語の凋落世界を読み込む探偵/データベースを読み込む読者、という点で符合するのだ。

東京都立大学教授の高山宏は自身の探偵小説評論において「シャーロックホームズ」や「ドラキュラ」を分析し、19世紀末の探偵小説における探偵の役割を世紀末的な混沌に満ちた世界を「読む」ことでテクスト化していくことに見る。

 

名探偵のあるべき性格造形とは何か。枝葉を捨てて一言にして言えば、読みの困難なものを解読可能なものに、過剰な根茎(リゾーム)状の混沌を要するにテクストに変えていく能力の体現者と言うに尽きるだろう。万事が「読み」とりにくい世紀末の状況が要請していたそういう記号論的ヒーローが、つまりは名探偵であり、彼が一切を解読して世界をテクスト化していく経緯(ゆくたて)を描くメタ-テクストたる推理小説という斬新なジャンルは、従って十九世紀末をもってピークに達する理屈になる。[18]

 

そして、そのような小説の生まれた背景として19世紀末の宗教と倫理の後退のために物と物をつなぎとめる〈中心〉がなくなり、リゾーム化した社会を挙げる。

 

宗教と倫理が後退して、物と物をつなぎとめる〈中心〉がなくなり、当世ふうに言えば「超越論的シニフィエの不在」と言うべき記号論的状況が起こる。「交換と媒介」をめぐる活動が一挙にさかんになる。まさに巨大な「リゾーム(根茎)」と化した世界、物と物、言葉と言葉の関係がよく見えなくなった世界で、物、言葉の並べ方(アレンジメント)をめぐる遊びと商業戦略とが次々に〈発明〉された。[19]

 

それは、20世紀末の国家や父親といった社会をまとめ上げるシステム、大きな物語という〈中心〉が凋落しデータベース化した社会において、人は大きな非物語=データベースから情報を読み取り世界をとらえることになるという東浩紀の主張と国と世紀の差を超えて重なるのである。

 

ポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。[20]

 

ポストモダンにおいては、世界の深層はデータベースとして表象され、表層に位置する記号はすべてその解釈(組み合わせ)として捉えられる。[21]

 

そして、東浩紀はこのようなデータベース化したポストモダンの物語の環境を反映した小説としてキャラクターのデータベースをその物語の源泉として持つライトノベルを挙げる。

 

ライトノベルの本質は、物語にではなく、キャラクターのデータベースというメタ物語的な環境」にある。ライトノベルの作者や読者は、物語を構築する、あるいは読解するために、作者のオリジナリティや物語のリアリティにではなく、メタ物語的なデータベースへの参照に頼り始めている。[22]

 

そしてそのライトノベルを成立させるありふれた街や日常と宇宙戦争や戦争を結びつけてしまうようなポストモダン半透明な文体[23]でしか描けないものを描く作品の典型例として「セカイ系」を挙げているのだ。さらに上記した探偵小説の生まれた環境とポストモダンの環境の符号をみるに、「セカイ系」の中でも探偵小説をそのルーツとする「ぼくとぼく」セカイ系こそがデータベース化したポストモダンの環境における自意識を描くことにと考えられるのである。なぜなら、探偵小説はその構造上謎を解く=データベースを読み解くことを物語の基本構造としており、ポストモダン社会における世界の捉え方をまさに実践する小説の形式だといえるからだ。そして、「ぼくとぼく」セカイ系=「脱格系」の作品はその構造を受け継ぎつつさらに逸脱し、外から見る、つまりポストモダンの世界をメタ的に読み解く構造を有しているのである。

以上の理由により、私は自意識を描く想像力の先端について考えるにあたって「ぼくとぼく」セカイ系に焦点を当てて考えることにする。

 

「2章 「ぼくとぼく」セカイ系はどんな自意識を描くのか」

 

1節 「きみとぼく」セカイ系から「ぼくとぼく」セカイ系への移行としての『大洪水の小さな家』

 

 前章で「きみとぼく」セカイ系に対して「ぼくとぼく」セカイ系というジャンルを設定したが、いくつか疑問の生じる余地がある。1つは「ぼくとぼく」セカイ系と「決断主義」は同じではないのか、あえて峻別する意味はあるのか、というもの。2つ目は宇野常寛が指摘したように、セカイ系は「決断しないことを決断した」だけで、ポストモダンの諸問題に対する回答がないではないかというもの。ここで「ぼくとぼく」セカイ系という概念をより正確に伝えるためにある作品を取り上げたい。「ぼくとぼく」セカイ系の精神を端的に表している作品に佐藤友哉の『大洪水の小さな家』がある。以下、あらすじを記す。

 

主人公の「僕」は弟の文夫とともに洪水で浸水した家の屋根に取り残されている。「僕」は自分たちが両親に取り残された原因が、自分たちが春、文夫、梨耶の兄弟だけで完結しており、両親も含めてそれ以外にはまったく愛情を感じていないことに気づかれたからではないかと考える。「僕」は梨耶を探しに家の中に戻り、兄弟との思い出や他人に興味を持てない理由などを独白しつつ家の奥へと泳ぎ進む。だが、発見した時には梨耶は死んでいた。しかし梨耶の死によって春は自分が本当は自身だけで完結しており文夫を梨耶も必要としていなかったことを知る。そして春も『自己完結』の喜びの中で溺れ死ぬ。

 

 この物語のキャラクターは、当初、非常に「きみとぼく」セカイ系的である。小学生であり、かつ自分の兄弟以外は全く信用していない主人公の「僕」はまさに社会という中間項を排除し、唯一信用できる兄弟との閉鎖的な人間関係のセカイに閉じこもっている。そして洪水による兄弟との死別という「世界の危機」を回避しようとする。

 

梨耶の世界の登場人物は、僕と文男の二人だけ。

それですべてが完結していた。[24]

 

そんな幸福を取り戻すために、一刻も早く梨耶を助けなければならない。そうでなければ僕たちは完璧に終わってしまう。[25]

 

しかし、妹理耶の死体を発見することで「僕」は自身が「きみとぼく」セカイ系的キャラクターではなく「ぼくとぼく」セカイ系的キャラクターであったことを知る。

 

『他人』なんて『必要』ない。僕たち『三人』が『溶け合う』必要もなく、この僕という存在は『完結』している。僕の『世界』には、『他人』も『文男』も『梨耶』も『不必要』なのだ。[26]

 

「僕」に必要なのは同じセカイに存在する他者ではなく、自己という存在のみで「完結」した充足だったのだ。そして「僕」はその充足の喜びの中で死ぬ。つまり、これは自意識がもつ問題を自己完結とその死による凍結で解決する物語なのである。その、自意識の問題とはなにか。それは『他人』の問題である。

 

2節 〈他者〉の問題とひきこもり

 

他人とは何だろう?

それを考えることもある。

だけど答えらしい答えは浮かばない。

他人とは文字通り『他』の『人』であって進んで関係を持つ必要性を感じなかった……いやそうではない、僕は『他』の『人』とすらも思っていない。そもそも『他』という意味が解らないし、『人』というものはそれに輪をかけて謎だ。(中略)自分が他人と接点を持つ様子がまったく想像できないのだ。[27]

 

これは、「僕」が妹の梨耶の死体を発見する直前に行っていた他人についての一人語りである。ここで描かれているのは、大澤真幸が述べるところの〈他者〉抜きの〈他者〉への欲望と〈他者〉への嫌悪である。〈他者〉とは、象徴秩序の中の規定によらず、自身と絶対的な差異を持つ完全なる他人[28]のことを指す。この〈他者〉抜きの〈他者〉とは、例えばインターネット上のみで関係を持つ他者のような、他者でありながら他者性を持たないという矛盾した存在であり、実現しようとすれば〈他者〉と直接の関係を持たない「ひきこもり」になるしかないと大澤は述べる。しかし、その欲望は妹の死体の発見によって「僕」自身に幻想であったと否定される。それは、死という現実を「僕」が前にしたからだと考えられる。現代社会では、〈他者〉抜きの〈他者〉への欲望以外に、「現実」の中の「現実」(以下〈現実〉)への逃避の欲望が存在すると大澤は述べる。例えば、リストカットや死などの暴力や、テロや大事件などを大澤は〈現実〉としている。この欲望については、佐藤も幾度か述べている。『大洪水の小さな家』でいえば、洪水と、妹の死と僕の死が〈現実〉であろう。しかしここでの欲望からの解放は動物的な〈現実〉による充足であり、主人公の死によって完結性が閉じられたまま『大洪水の小さな家』が終わるが故のものだと考えられる。リストカッターは一度手首をきって安心を得たとしても、死ななければまた不安定になることになる。評論家、医学博士の斉藤環は佐藤の作品を「ひきこもり文学」として分析した評論において、佐藤の作品的自意識の特異な点として世界との隔絶感と徹底したディスコミュニケーション[29]をあげる。後者のコミュニケーションの不可能性が、佐藤の作品が「ひきこもり」的といわれる最も大きな所以であろう。斉藤はまた、「ひきこもり」を論じた別の著書でひきこもる若者の精神分析を行っている。斉藤は「ひきこもり」は「自身を「負けた」という意識の中に監禁し続け」ているという。[30]いったい何に負けたのか。それは、「コミュニケーション」においてだと斉藤はいう。そして、その「負けた」意識は彼らにとって自らのプライドを温存するために必要なのだという。彼らは「負けていない」と否認することによって自らの「正気」すら手放してしまうのでないかと恐れているのだ。この自己愛の形式を斉藤は「自傷的自己愛」と呼ぶ。この、「自傷的自己愛」は1章2節の終わりで紹介した前島の指摘するセカイ系の「弱い主体に同一化したい」という欲望と一致する。そして、「自傷的自己愛」にすがるしかない自意識を、佐藤友哉作品、「ぼくとぼく」セカイ系作品は赤裸裸に描いている。

 この自傷的自己愛」にすがる他に救われる方法はないのか、というのが佐藤の「ぼくとぼく」セカイ系作品の大きなテーマである。「ぼくとぼく」セカイ系は、宇野が「選択しないことを選択した無責任な決断主義」とよんだ「ひきこもり」にならざるを得ない状況からいかに抜け出すのかをテーマとしているのだ。あるいはそれは決断主義の動員ゲームで「負けた」ものがどう生きるのか、を模索することと言い換えてもいいかもしれない。それゆえ「あえて特定の価値を選択し、価値観の動員ゲームに参加する」決断主義とはその立場を異にする。コミュニケーションで他者を巻き込めないものは何を選択すべきかを、「ぼくとぼく」セカイ系は模索している。これは、第2の疑問への反論にもなる。「選択しないことを選択している」のではなく、「価値観の動員ゲームから抜け出す方法を模索している」のだ。

 

  3節 「社会」の内面化による唯一性の獲得への欲望

 

 2節で死という「現実」が、〈他者〉抜きの〈他者〉への欲望を解消するが、動物的な一瞬の快楽であるため問題の完全な解決にはならないと述べた。しかし、それでも救いではある。それゆえ、初期の佐藤の作品では主人公(視点人物)が殺人を犯すものが多い。デビュー作のシリーズである鏡家サーガ3作全てで視点人物が殺人を犯す。佐藤が2008年雑誌『ファウスト』の「佐藤友哉のすべて」と題された特集で発表した短編『ウィワクシアの読書感想文』は、コミュニケーションを苦手とする主人公が心臓から得られる「心臓の物語」を手に入れる為、人を殺し解体する物語だ。

佐藤の殺人者のイメージとして明らかな、実際の殺人者がいる。それは、神戸連続児童殺傷事件[31]の犯人少年Aである。『灰色のダイエットコカコーラ』の佐藤自身をモデルとしたフリーターは、少年Aに「先を越された」と思っている。また、短編『子供たち怒る怒る怒る』の舞台は基本的に北海道を舞台とした佐藤の作品において例外的に神戸で、そこに牛男という殺人鬼が現れる物語である。さらに2015年4月に発表された短編「ドグマ34」は作者自身をモデルとした「僕」が神戸連続児童殺傷事件の犯行の舞台に侵入し、取材する話である。

なぜ佐藤は少年Aを殺人者のイメージとするのか。

藤田直哉は、『セカイ系の終わりなき終わらなさ』で佐藤作品の主人公と少年Aの関係について言及し、その共通点を「唯一性を得たい」という欲望に見出している。

 

「唯一存在としての俺との違いは、殺しを行ったか否かという点にある」

 

「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続ける僕を、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として頂きたいのである」

 

上が『灰色のダイエットコカコーラ』の主人公の独白で、下が少年Aの神戸新聞社に送り付けた挑戦状の一部である。両者の共通点は、殺人によって唯一性を獲得して自己の存在を確立させたいという欲望である。では、なぜ殺人を犯さなければ自己の存在が確立されない(=透明)になってしまうのか。そこには、冷徹かつ均質な「社会」が個人の中で内面化してしまっていることが大きく関わっていると評論家の藤田直哉はいう。

 

佐藤作品の主人公がなぜひきこもるのか。あるいはなぜひきこもらざるを得ないのか。閉じこもったセカイで、脳内妹と戯れなければいけないところにまで追い込まれるのか。これは斉藤環が佐藤と滝本を論じた「ひきこもり文学は可能か」の中で「社会と個人は対立しない。社会に個人が内在すると言いうるのと同程度に、個人の中に社会は内在する」と述べているように「個人と社会」という対比で考えるべきことですらないだろう。むしろ、主体の中、無意識の中、内面の中すら他者で覆い尽くされてしまっている、他者によって自分が構成されてしまったが故に、主体でも個人でもない、という状態なのではないだろうか。多様なサブカルチャーの引用だらけでしか自分が表現できないということ、自己否定、自己注釈などにその意識は非常に良く見えてしまう。[32]

 

 ここで藤田が引用している斉藤の言説は、ラカン精神分析の「社会とは言語のことだ」とする考えから生じている。セカイ系はしばしばラカン精神分析の用語を用いて「想像界現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」[33]と定式化されるが、この斉藤の説を踏まえると「ぼくとぼく」セカイ系においては象徴界が主体に内在化することで、想像界現実界が短絡したような描写がおこなわれる」と言えるだろう。

 藤田はこの社会の内面化の現れている具体的な佐藤作品の表現として、佐藤の決まり文句ともいえる「自意識過剰」な描写を挙げる。藤田は佐藤の『鏡家サーガ』第3作『クリスマス・テロル』の一節

 

駅に着き、電車に乗りこむ。すべての乗客が、汚らわしいものを見るような目つきを僕に向けている。誰も僕の半径一メートル以内に入ろうとしない。そんなに僕は……気持ち悪いのか?いやそんなはずはない。これは自意識過剰がもたらす錯覚だ。[34]

 

を佐藤の自意識の過剰性を示す具体例として挙げている。佐藤の作品の自意識過剰性は『世界の終わりの終わり』、『灰色のダイエットコカコーラ』、『クリスマス・テロル』などの佐藤自身をモデルとした登場人物「僕」が出現する作品でも非常に顕著である。一例をあげるなら、以下のような部分が挙げられる。

 

どうしてガキは、こう云う自己満足オナニー小説ばっかり書くんだろうなんて思ってる奴、どこかへ消えてしまえ!僕が本当に自己満足な小説を書いていると思っているのか?ふざけるなよ畜生め。自分と妹との関係を公にするのにどれだけ神経を摩耗させていると思っているんだ?暗闇の公開にどれほどの精神力を必要としているのか解っているのか?[35]

 

 では、このように、社会が内面化してしまうのか。それには「父の凋落」が大きく関わっていると考えられる。斉藤環は家族について論じた著書[36]において酒井順子の著書『負け犬の遠吠え』をきっかけとして「三〇代以上、未婚、子なし」の女性を「負け犬」とよぶ「負け犬ブーム」が生じた背景を「世間」の視線に求め、さらにこの視線は「ひきこもり」を規定する視線でもあるという。この「世間」は「想像的に内面化された倫理観[37]という斉藤の定義を踏まえると、「内面化した社会」とほぼ同義と考えてしまっても問題ないだろう。そして、現代日本においては「世間」対「個人」という対立軸は存在せず、ありうるとすれば「世間」対「家族」としてあらわれるのだという。そして、その「世間」に対する「父」の役割は「家族の近代化」によって凋落してしまったと斉藤は言う。

 

「家族の近代化」は、ここに何をもたらしてきたか。社会の成熟化と富裕化にともない、地域共同体が希薄化し、家庭は密室化して排他的となり、血縁関係の重要性は後退した。その結果、父親に残された重要な役割は経済的機能のみとなったのである。[38]

 

 だから、現在では「父」になっても自己が確立されず、「透明」なままになってしまう。つまり、社会にコミットして象徴的なファルス(収入や地位)を手に入れ、「父」になることによるアイデンティティ確立は、無根拠なものになってしまったのである。

 「ぼくとぼく」セカイ系がその名前が示しているように主に男性の自意識にかかわる問題ばかり扱っており、ぼくとぼく「セカイ系」作家と名指しされる作家が男性ばかりなのは上記のような男性の「父になる」ことによる自己の確立が困難になってしまったからではないだろうか。

 1章3節でも挙げたようにこのような前近代のシステムが失調して生きる意味を与えてくれなくなったことを東浩紀は「大きな物語の凋落」と呼び、その凋落の結果、空白が生まれるとした。そして宇野常寛はそれゆえ「あえて究極的には無根拠なことを承知の上で特定の価値(=小さな物語)を選択する」必要が生じ、人は必然的に決断主義的にならざるを得ないと述べた。そして、佐藤友哉の「ぼくとぼく」セカイ系作品はこのような「大きな物語の凋落」以降のポストモダン世界での自意識の悩みを、リアリティをもって描くことに非常に適しているのだ。その悩みの顕著に表れた症状の代表的な例が「自傷性自己愛」である。そして、本章で示した「大きな物語の凋落」以降の世界を「自傷性自己愛」に頼ることない選択肢は3つ。1つは決断主義を採用してあえて特定の価値を選択して生きること。2つ目は自身の死によって〈現実〉の充足の中で死ぬこと。3つ目は他者を殺害することで死という〈現実〉を絶え間なく補給し続けること。[39]

3章では佐藤の「ぼくとぼく」セカイ系における自意識の描く方法を具体的な作品分析を通して分析したのち、佐藤の「自傷性自意識」に頼らないもう1つの選択肢であり、佐藤が現在まで追求し続けている「書くこと」を取り上げたい。

 

「3章 「ぼくとぼく」セカイ系はどのように自意識を描くのか」

 

1節 「自意識を再生産するための自意識モード」

 

 佐藤の作品はよく「テロル」以前、以降といった文脈で語られる。「テロル」とは2002年に発表された『クリスマス・テロル』という作品のことで、「問題作」とされ、賛否両論を呼び、しかし発表した作品初の重版となったこの作品の発表以降佐藤は「文学」を意識的に書き始める。

 まず、「テロル」以前のジャンル小説としての佐藤の作品『鏡家サーガ』(『フリッカー式』、『エナメルを塗った魂の比重』、『水没ピアノ』)についてこの節では論じたい。2章1節で述べたように探偵小説をルーツとする「ぼくとぼく」セカイ系の典型例としてはこれらの作品が最も当てはまり、また東浩紀がいうところのデータベースの読み込みを前提とした半透明な文体による「セカイ系」でしか描けないものもここにこそ典型的に表れている。もちろん、「テロル」以降の佐藤の作品も「ぼくとぼく」セカイ系として自意識の問題を描いているのであるが、文学として描いている分作品のテーマ性との葛藤が前面に出ておりむしろライトノベルであり推理小説として描かれた作品の方が「ぼくとぼく」セカイ系の基本的な自意識の描き方の特性をよく表しているのである。

 では、その特性とは何か。

 それは、「自意識を再生産するための自意識モード」である。文学研究家の中沢忠之が自身のWEBサイトで佐藤の作品を青春小説として分析した際[40]に佐藤の作品の自意識の描き方の特性を説明するにあたって用いた言葉だ。中沢は佐藤の自意識のモードを太宰治と共通するものであるとし、そのモードを太宰治の『人間失格』の主人公葉造の「道化」を例にとって説明する。

 

何でもいいから、笑はせてをればいいのだ、さうすると、人間たちは、自分が、彼等の所謂「生活」の外にゐても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになつてはいけない、自分は無だ、風だ、空だ、といふやうな思ひばかりが募り、自分はお道化に依つて家族を笑はせ、また、家族よりも、もつと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴイスをしたのです。[41]

 

このように葉造は自我をその内面に囲い込むために偽の「道化」の自分を作り上げ自他の境界を先行的に設定する。そして、ここで重要なのはこの「道化」が見抜かれかけても「ワザ。ワザ。」とそれすらも織り込み済みであり、その都度再設定して「道化」は継続されるということだ。

 この構造を佐藤の処女作であり『鏡家サーガ』1作目の『フリッカー式 鏡公彦が引き戻す犯罪』に置き換えてみる。

フリッカー式 鏡公彦が引き戻す犯罪』は、主人公鏡公彦が最愛の妹佐奈を強姦され、その結果佐奈が自殺し、その復讐のために公彦が佐奈を強姦した犯人の3人の娘を誘拐するというサスペンス調の推理小説として当初設定される。しかし、この設定は第2章の3節、視点が主人公公彦からその幼馴染明日美に移り変わった場面で「偽」の片輪を見せる。明日美が超能力により殺人時の殺人鬼突き刺しジャックと視点がつながるという漫画的な設定がここでつけ加えられる。ここで、純粋なサスペンスという設定は壊れ、ライトノベル的なSFサスペンス/スリラーといった境界が再設定される。しかしその構造も物語終盤では崩される。結局佐奈を殺したのは公彦だったのだが、都合よく記憶を改変していたのである。さらに公彦の中には死んだ兄創士の人格が形成されており、公彦が眠っている時には創士が身体の主導権を握ることもできる。ここで当初の推理小説としての構造は完全に崩される。地の文の情報が記憶喪失者かつ多重人格者の視点によるものでは全く推理の手掛かりとならないのだから。そして、最終章ではこれまで一度も言及されていない高度な科学技術を持った研究所の力でよみがえった佐奈もしくは佐奈のロボットが登場し、物語のジャンルの枠組みはまたもや破壊される。(佐奈がオリジナルなのかどうかの真相は曖昧にされる)

このように突然新たな設定が前触れもなく提出され、物語の世界は再設定され続ける。そして中沢はこのようなジャンル内の世界とジャンル外の世界の再設定による「自意識の再生産」を佐藤友哉の『鏡家サーガ』の特徴として指摘する。この世界の再設定がなぜ自意識の再生産につながるかは中沢が青春小説という観点から佐藤の作品を見ていることに由来する。中沢によると青春小説における自意識とは、①自分を取り巻く社会に対する苛立ちなり齟齬感がある②自分の力なり手段を持て余しているという二点を条件として持っている。そしてここでいうところの自分を取り巻く社会とは、『フリッカー式』において幾度となく改変された世界設定に該当する。それゆえ自意識の苛立ちもしくは齟齬感の対象である世界設定が再設定されると、それに応じて自意識自体も再生産されるのは当然のことであるといえる。自意識の感情を向ける世界の構造自体が改変されれば、その感情自体、そしてその感情を生み出す自意識にも変化が生じるからだ。そして、そのように自ら築いた世界設定を崩すことを織り込み済みで偽の自意識を設定する運動の構造こそが、「そのような小説を書かざるを得ない自意識」という「固有の自意識」をジャンルとその外の境界のあわいにおいてあぶりだすように表しているのである。このような小説内の世界設定を崩すことで小説内とメタ次元のあわいに生じる自意識こそが東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で述べたところの自然主義リアリズムの文体では消えてしまうセカイ系」でしか描き得ないものだと、私は考えている。

 

2節 作者の登場とアイロニカルな没入-『クリスマス・テロル』の作品分析を通して-

 前章のような形で佐藤は自意識をジャンル小説の枠組みを破壊しては設定するあわいのなかで「ライトノベル的な小説を書かざるを得ない自分という自意識」を浮かび上がらせる。そのような小説の構造を利用することによる自意識の示唆が私は「ぼくとぼく」セカイ系の特異な点であると考えている。

 そしてその形式の破壊と再設定は2002年の『クリスマス・テロル』で臨界点に達する。佐藤は推理小説のルールのみならず、「小説」それ自体の枠組みすらも破壊と再設定による自意識の再生産に利用したのだ。

より詳しく説明しよう。

クリスマス・テロル』は今までの『鏡家サーガ』と同様の推理小説的な構造を持った作品として始められる。物語の「起」の部分のあらすじは以下のようなものである。

 

主人公小林冬子は衝動に突き動かされて船の貨物に密航し北海道北広島から、名前も知らない島へとたどり着く。そして、島で建場というごみを回収し、リサイクルする仕事を営む熊谷真人の家に住み、港に建てられた小屋の中にいる熊谷真人の弟、尚人を監視するという仕事をさせられることになる。

 

だが、2章5節、冬子がリサイクル商品からポール・オースターの『鍵のかかった部屋』を発見し、その一節

 

『いくら多くの事実が語られたところで、いくら多くの細部が伝えられたところで、いちばん大事な部分は語られることを頑なに拒むのだ。誰それはどこで生まれてどこで育ち、これをしてあれをして誰々と結婚してこれこれの子供をもうけ、そのように生き、やがて死んでいきましたが、これらの本を(何々の戦いの勝利を、どこそこの橋を)後世に遺していったのです――などと並べ立ててみたところで、大事なことはなにも伝わらないのだ』[42]

 

を読むと突如作者の「僕」、の視点が登場し、小説論が展開され、作者の気持ちと読者への要望が語られる、以下のように。

 

 おいおい作家が何を書いているんだと冬子はびっくりしたが、しかしそれは少しでも本を読む(書く)人間にとっては自明でしかない。当たり前すぎる事実だった。

一番大切な個所は語られるのを拒み、本質は解体や解説を否定したがる。だからそんなにすぐれた作家が何をどう書こうとも、物語の奥に潜むそれを表舞台に引っ張りだすのは不可能だ。それでも……それだからこそ、作家は物語を世に放出する。

 ときには聖書のように。

 ときには汚物のように。

 どんなにふざけた、あるいは子供じみた物語であろうと真剣に。

 それはつまり使命なのだ(うつむき加減で赤面しつつではあるが、しかし口調だけは嫌にはっきりとした感じで、そう宣言したい)。物語を世界に放ち、作中では決して語られない部分を理解してくれる読者のレスポンスを待つ。ちぐはぐとした暗闇に向かって手を振ってくれる読者の出現をただひたすら待つ。そしてもし、理解を示してくれる読者が現れてくれたら、僕は本当の意味で泣いてしまうだろう。

 ああ、やっと解ってくれたか。

 ああ、やっと届いてくれたか。

 そんな感謝と感激がまぜこぜになった魂の言葉を、気でも狂れたように叫びながら、精神の全面的信頼を内在した握手を求めるに違いないだろう。

(中略)どうか最後までつき合って欲しい。文章をおろそかに読んでも構わない。思想と奇想を取り違えても構わない。数時間かけて捻り出した一文をさらりと読み流されて

も構わない。リアルを表現するために書いた嘘の部分を指摘して喜ぶウスバカ同業者の意見を鵜呑みにしても構わない。

 だからどうか最後まで読んで欲しい。

 そう祈りながら。[43]

 

この後の2章6節からは何事もなかったかのように日付が変わり、監視している小屋から突如消えた男の謎を解くことを物語の核として冬子の物語がつづられる。だが、時折「僕」の視点に切り替わり、上記のような作家論と作者の気持ちが語られる[44]パートが挿入されることになる。冬子のストーリーは以下のように続く。

 

冬子は、同年代の少女岬や、バイカー老人といった島民と交流しつつ監視生活を続ける。だが、ある日尚人が冬子の監視下にあるにもかかわらず、密室状態の小屋から姿を消す。冬子は真人に報告。真人は警察を呼び、冬子は実家に連れ戻される。しかし冬子は祁答院浩之、唯香の兄妹と出会い、もう一度島で事件の真相を探ることとなる。冬子は町の人々に熊谷尚人についての聞き込みを開始する。そこで岬と再会するが、記憶を失う病を持つ岬は冬子のことを忘れていた。岬は冬子のことを思い出すためきっかけとして自分の指輪を冬子に渡す。また、冬子は岬に真人を好きだということを聞かされる。調査二日目。冬子は島民のだれにも尚人のことが存在以外認知されていないことを知る。そして調査の途中、冬子は血を流した岬の母親タキと出会う。記憶を失った岬がタキを刺したのだ。冬子は岬を追う。しかし、岬は冬子のことも忘れ、指輪を取られたと勘違いして追ってくる。冬子はいったん逃げるが、岬が飛び降り自殺を企てていると知り、追う。塔の屋上まで岬を追うが、岬はいなくなってしまった。しかも死体もない。熊谷の家に行くと、真人とタキが寝ている。それを責め立て、真人に暴行を受けた岬は失神する。冬子が二か月の眠りののち目覚めると浩之と唯香は消えていた。浜辺に行くと大量のクリスマスプレゼント用のおもちゃが流れ着いている。冬子は岬の部屋で岬が記憶を記したノートを発見し、読む。そして、その中に岬が熊谷尚人に恋しているという文章を発見する。しかしその気持ちも消えてしまい、岬は指輪をくれた真人に恋したのだ。真相を知った冬子はバイカー老人の家に行く。そこに尚人は潜んでいた。真相は、冬子が無関心の末、尚人の存在を「透明」としてしまった、つまり気づかなくなっただけだったのだ。岬は塔から飛び降りていた。そして尚人がその死体を寄せ集め、老人の家に潜んでいたのである。尚人は自分の小説を読ませるために自身のパソコンのアダプターとバッテリーを冬子に渡した。しかし冬子はパソコンを壊し、それを拒否する。

 

これが、第8章まで、冬子パートの物語のあらすじである。しかし、冬子パートの終了後も小説は続く。終章があるのだ。終章では作者、佐藤が登場し、自分の気持ちを語る。本が売れず、もう出せないという。

 

さて、聡明に聡明を重ねた『あなた』ならばすでに気づいていると思うが、今作、『クリスマス・テロル』を最後にして、佐藤友哉の短い作家生命は終焉をむかえることとなった。[45]

 

さらに、自分を認めようとしなかった読者や世界を非難する。

 

世界とは新しいものを求めている癖に、いざそれがやってくると混乱する保守的なものだ。僕は憎らしくて仕方がない。傾向の異なる作家を一括りにする魔法の呪文、『新しい波』を唱えて安心している住民どもが憎らしくて仕方がない。古いものばかり、既存のものばかりを擁護する世界が憎らしくて仕方がない。[46]

 

さらに読者の無視、無関心への恐怖と、自分の思うように自分の作品が読者、世界に受け入れられなかった恨みを語り、そして敗北宣言と礼を言う。そして終わる。

 

無視。

無関心。

僕が何より恐れているのは其の二つだ。

 

僕は『あなた』を信じて作品を世に放った。届くところには届くと思った。

その結果がこれだ。

予測が甘すぎたのか?それとも世界は本当にくそったれなのか?今となっては解らないし確認する気にもなれない。[47]

 

さて、

 右に名前の挙がったみなさんにも、

 紙幅の都合上、名前を挙げられなかったみなさんにも、

 僕は心から感謝しています。

 本当にありがとうございました。

 そして、申し訳ありません。

 このような形で途中退場せざるを得なくなったこの僕を、どうか嗤ってやって下さい。

                                  佐藤友哉[48]

 

このような佐藤自身の不意の登場は2つの効果を生み出す。1つは本節冒頭にあげたように、小説、という世界自体の破壊による自意識のモードの創出だ。ここで佐藤は「ジャンル小説を書いていたのに自分を登場させ、私小説へと変容させざるを得ない自分」という自意識を小説と、小説以外のあわいに描き出しているのだ。

もう1つの効果は、この佐藤自身の終章での自意識の吐露に感じられる奇妙なリアリティを生じさせている。この作品は大きな賛否両論を呼んだと本章冒頭で述べた。その否としては「せっかく物語を積み上げてきているにもかかわらず作者自身が愚痴を語ることで物語作者としての責任を持つことを放棄している」というものが挙げられる。

 

終章に至っては、作者は物語を完結することを諦め、筆を投げたのか、突然、小説とかミステリとかに対する語り、というか愚痴が始まる。で、もうこのシリーズは書けないよと、泣き言が始まるのだ。いったん物語を終わらせて語るならまだしも、物語に連なる「終章」という形で、愚痴るのはどうかと。。[49]

 

だが、意外なことに作者佐藤自身の愚痴が「キャラ」としての自己ではないか、この吐露自体が賛否両論を引き起こし、話題になることを狙った炎上商法のようなものではないか、といったような批判はあまり見られない。実際、賛否両論が巻き起こったことにより『クリスマス・テロル』は佐藤の作品で初めて重版され、佐藤の文壇からの注目度は高まった、そして佐藤はその後も筆をおかずに本を様々な出版社から出しているのにも関わらず、である。ここでの佐藤の自己の吐露は、奇妙なリアリティをもって、読者に受容されているのだ。

 その理由は、「アイロニカルな没入」にある。

 アイロニカルな没入とは、「それが偽だとわかっているにもかかわらずある事象を信じてしまう態度」のことだ。大澤真幸はこれをオクターヴ・マノーニの論文で分析されている漁色家として知られたカザノヴァのエピソードを引用して説明する。[50]カザノヴァは田舎娘をわがものにするために魔術師のふりをして地面に「魔法の円」と称するものを描き、わけのわからない呪文を唱え始めた。そのとき、稲妻が轟音とともに光った。そのとき、驚いて偽物の「魔法の円」に飛び込んだのは娘ではなくカザノヴァであった。

 カザノヴァはなぜ自分で偽だとわかっている「魔法の円」に飛び込んだのか。それは、魔法の円の中にいなければ雷に打たれないだろうと信じなければその場に一瞬たりともいられなかったからだ。カザノヴァにとって雷はなんでもないただの「現実」であり、それが落ちてきた理由は偶然にゆだねられておりわからない。そのような、無意味な、同定不能な偶然にゆだねられることにカザノヴァは耐えられなかったのだ。だからこそ、あえてカザノヴァは雷を神の怒りによる天罰だと信じ、そこから逃れるために偽と分かっている「魔法の円」に入ることに没入したのである。

 このように「それが偽だとわかっているにもかかわらず同定不能な現実にさらされることを回避するためにあえて信じるような態度をとること」を大澤は「アイロニカルな没入」と呼ぶ。

 佐藤の『クリスマス・テロル』で吐露される自意識を人々が偽ではないと信じるのも、同様の構造による。『クリスマス・テロル』における「魔法の円」は「熊谷尚人」であり、「稲妻」は「佐藤友哉」である。どういうことか。「熊谷尚人」は作中において、あたかも作者の分身であるかのように描かれている。黙々と小説を書く若い男という設定に加えて、過剰な自意識のありよう、自身の存在を「透明」にされることへの恐れ、憤りといった内面が佐藤の読者のイメージと重なる。

 

君は島の連中と同じだ。君は僕の表面を撫でた程度ですべてを知った気になって、僕を空虚と評したんだろう?何もない人間と決めつけたんだろう?[51]

 

「僕の価値は僕が書く物語で決まる。だから、それを考えているときや書いているときの姿なんて無価値なんだ。でも君にはそれが解らなかった。表面こそがすべてと判断を下した。そしてただの影でしかない表面の観察をひたすらつづけて、僕を失われた人間だと規定し、透明人間にさせた。」[52]

 

さらに尚人は

 

「ここは僕の世界の中だ!」[53]

 

とまでいう。

 しかし、佐藤は終章においてその尚人を否定するような発言をする。

 

熊谷尚人は、否定される恐怖は無視や無関心以上と云っていたが、僕はそうは思わない。[54]

 

 熊谷尚人は世界への期待を捨て、自分自身のためだけに物語を作る道を選択したが、しかし僕は彼と同じ道を歩むことは絶対にできない。なぜなら僕は、自分の価値を世界に注ぐタイプの人間だからだ。[55]

 

この結果、作中で佐藤の隠喩としてきた佐藤、つまり「キャラとしての佐藤を否定する佐藤」という図式が出来上がる。そして、この「キャラとしての佐藤を否定する佐藤」を、読者はさらに「キャラとしての佐藤を否定する佐藤を否定するキャラとしての佐藤」として偽だと否定する態度はとれない。なぜなら、熊谷尚人=「キャラとしての佐藤」を否定する佐藤の発言を否定してしまうと、どちらの佐藤の考えが本心なのか、もしくはそのどちらでもないのかわからない同定不能な偶然にさらされてしまうからだ。

 私は「ぼくとぼく」セカイ系の作品に多くみられるメタ発言などの1章3節で挙げた「自己言及性」も、この「アイロニカルな没入」を促す効果を持つと私は考えている。ジャンル内のルールのような作品自身の虚構性について作中の登場人物が言及することは、前島がいうように逆説的にその人物が虚構を虚構と指摘できる近代的な自意識を持つことを示す。そして、そのメタ的な自意識はアイロニカルな没入の回路により、否応なくリアリティを感じざるを得ない。

 それゆえ、東浩紀が『新現実 vol.1』における編集者、評論家の大塚英志との対談で述べているように、佐藤の作品はその虚構性があらわになる荒唐無稽な場面でこそ、リアリティを帯びるのである。

 

佐藤友哉という作家が持っている一番リアルなアイテムは妹になっていて、妹の首が線路の向こう側に飛んでいくとか何とか、荒唐無稽なことを書いている時が一番現実と結びついている。[56]

 

 この「アイロニカルな没入」がと1節で取り上げた「自意識を再生産するための自意識モード」との組み合わせで佐藤の「ぼくとぼく」セカイ系作品の自意識はリアリティを与えられている。「先の世界設定における自意識は偽だ」と告発して再設定される世界設定の自意識に、そしてさらに再設定された自意識を否定して再生産された自意識に…と、読者は無限に再生産された最新の自意識に「アイロニカルな没入」をしてしまうからだ。

 

3節 相反するメッセージによる自意識の再生産

 

 『テロル』以降、佐藤は自己をモデルとするような「僕」を主人公としたメタフィクショナルな作品を書き始める。だが、これらの作品は『テロル』と同様もしくはそれ以上に賛否両論が多い。その理由として中沢忠之は「純文学には、ジャンル小説のようなルールなり消費の期待値が明確にないため自他の境界設定の方法がメタフィクションやパロディー、韻文の導入といった比較的安易な方法になってしまうこと[57]を挙げる。

 しかし、この時期の佐藤友哉は作品ごとに矛盾するメッセージを発することでメタ的な運動性を生じさせていたと藤田直哉は指摘する。詳しく説明しよう。

 藤田が挙げる矛盾するメッセージとは「セカイから外にでる」、「セカイに閉じこもる」、「力で覇王になる」「弱きものを救わなければならない」の4つである。1つ目は2002年に『新現実vol.1』に初稿が発表され、大幅に加筆修正されて2007年に単行本化された『世界の終わりの終わり』、2つ目は2003年から2004年にかけて講談社のWebサイト上で発表され、2005年に単行本にまとめられた『鏡姉妹の飛ぶ教室 〈鏡家サーガ〉例外編』、3つ目は2002年に佐藤が西尾維新舞城王太郎ら他の『ぼくとぼく』セカイ系作品作家と出した同人誌『タンデムローターの方法論』が初出で2007年に単行本にまとめられた『灰色のダイエットコカコーラ』、4つ目が2005年に単行本化された短編集『子供たち怒る怒る怒る』の表題作「子供たち怒る怒る怒る」(初出『新潮』2005年1月号)である。

 『鏡姉妹の飛ぶ教室 〈鏡家サーガ〉例外編』はサブタイトルの通り『鏡家サーガ』の番外編で、ライトノベル的なジャンル小説に属する物語の形式をとっている。突如大きな地震により地下に埋没した学校の中で異常な力を秘めた人間『闘牛(トロ)』を巡って学生たちが戦いを繰り広げるという佐藤の作品でも最もライトノベル的なストーリーとなっている。その結末で主人公鏡佐奈は浸水した学校の中に沈み、水死体となる。これは、ライトノベル的なセカイの狂乱に『大洪水の小さな家』と同じく死ぬことで閉じこもる=「セカイに閉じこもる」というメッセージを表していると藤田は言う。

 『世界の終わりの終わり』では佐藤自身をモデルとした主人公の「僕」が小説家デビューしたものの全く売れず、脳内妹と戯れ暮らす日々を過ごし、一念発起して上京するものの北海道に帰ることとなる。そして何をしても再生できないことから自殺を図るが、今までの脳内で作り上げてきた妹や自己の分身、東京で出会った少女らに応援されて再生する物語だ。この物語は、雑誌『新現実』での初出では東京で出会った少女も現実にはおらず妄想で、ラストも途切れ行く意識の中で光をつかもうとするラストであり、ついに再生はかなわないのだが、単行本化にあたって少女との関係も現実のものとして描かれ、「僕」は脳内の妹たちの応援により再生し、再び小説が書けるようになり、その後もファンレターなどによる応援で書き続けるという、「応援による再生」が大きなテーマとなった。これは、藤田曰くつまり世界の終わりの終わり、つまり「世界の終わり」という「セカイ系」的なテーマは終わらせて再生する=「世界から外に出る」というメッセージを表している。

 『灰色のダイエットコカコーラ』。これは佐藤と同じく北海道に住む「僕」が63人を殺した強大な祖父と同じ力を持ち、好きに弱者を蹂躙できる覇王となることを至上命題とし、覇王以外の人間を「肉のカタマリ」と見下してあがく物語である。このような覇王思想を藤田は「力で覇王になる」というメッセージとしている。

 『子供たち怒る怒る怒る』では神戸に引っ越してきた、主人公の「僕」が班の仲間と連続殺人鬼牛男の出没場所を当てるゲームをすることになる。「僕」は世界の悪意にうんざりし、普通になることを望んでいる。

 

安心なんていらない。

普通が欲しいだけだ。[58]

 

さらに「僕」は友人が差別的な扱いをされたら憤り、理由もないのにひどい目にあっている人々を助けたいというメンタリティを持つ。

 

「助けたいんだよ。みんなを助けたいんだ。理由もないのにひどい目にあってる人たちを、なにもしてないのに泣いてる人たちを、ぼくは助けたいんだ」[59]

 

そして物語終盤、班の友人町井由紀子が牛男を操ることができる人間だということが発覚する。「僕」は町井を連れて神戸の繁華街に出て、牛男を解き放ち、街を「更地」にしようとする。それは、一切を平等に壊し、上下の差のない「更地」で暮らしたいという社会主義的な欲望であり、そこに藤田は「弱きものを救わなければならない」というメッセージを見る。

このような互いに相反するメッセージを同時期に作品として発していたのが「テロル」後、2002年~2007年の佐藤友哉である。これをいかに受け取ればいいのかというと、「この矛盾と否定の自己運動の運動性こそがこの時期の佐藤の主張」だと考えて受け取るしかないと藤田は言う。

 

社会主義的なものの、よさも悪さも、同時に抱え込み、普通であり特別でもあり、セカイに閉じこもり外に出て、弱者に優しく同時に厳しく、そのような矛盾ゆえに回転し続けなければならない。それこそが「佐藤友哉」の自意識であると考えるべきである。[60]

 

そしてこの運動はもはや死や死体などの「現実」に相対しても止まらないという。なぜなら、その死や死体は小説内の虚構であり実際の現実に影響を与えるものではないからだ。佐藤友哉という実存の複数の作品にまたがる矛盾したメタ・メッセージこそが主張である以上1作品の中の死はもはや「現実」とはなりえないのである。

 上記のような自意識の描き出し方は初期『鏡家サーガ』における「自意識を再生産するための自意識モード」とそのシステムとしては変わりがない。佐藤はジャンルの枠組のない私小説の中で「自意識」を再生産するために各作品の中で相反するメッセージを発し、その矛盾によって自意識を再生産する、つまり作品1冊で作り出した自己を同時に他作品で否定し、相互に無限の再生産を行うシステムをここで用いているのである。

 だが、2007年の三島由紀夫賞受賞作『1000の小説とバックベアード』以降、単一のテーマを掘り起こし始める。それは、「書くこと」によって「1000年残ること」である。

 

4章 「書くこと」で「1000年残ること」

 

他人が見る自分は、問題ではなくなりつつある[61]

 

今の僕は発見を渇望している。文学でも本格ミステリでもエンターテインメントでもなくて、『小説』を『どうにかする』ものを発見したがっている[62]

 

これは、『新潮 2007年7月』号に掲載された佐藤友哉三島由紀夫賞の受賞コメントである。この言葉をそのまま信じると、佐藤の自意識は社会の内面化を脱し、『小説』-「書くこと」-に向かっている。

 これはどうしてなのだろうか。

 『1000の小説とバックベアード』のあらすじは以下のようなものである。

 

27歳の誕生日。仕事を首になった「僕」、木原のもとに配川ゆかりという女性が現れる。「僕」の仕事は片説家。片説家は依頼人を恢復させるためだけに会社組織を作り文章を書く職業だ。この世界において「小説」は高尚なものであり、才能のあるものしか書けないものであり、「世界と握手する方法や、世界を殴りつける方法を教える」[63]ものである。それに対して片説は文章を書ける人間ならば誰でもなれるものであり、グループを組んでたった1人のために書くものである。配川ゆかりは僕に「小説を書くこと」と「自分の妹つたえに渡した片説を読ませること」を依頼する。僕が友人の探偵一ノ瀬に配川つたえが残した手掛かり(配川つたえに渡した片説『うしなわれたものがたり』と「僕」の『ジャポニカ学習帳』とすり替えられた『トーカイグラフィック学習帳』)を持ち込むと、一ノ瀬はその片説が「やみ」によって書かれたものだと推理する。「やみ」とは、才能があるのに小説家にならない人間を指す言葉で、小説を否定する存在である。僕は馘首された片説家の会社『ティエン・トゥ・バット』に戻り、文学にまつわるテストで「うしなわれたものがたり」を書いた者をあぶりだす。しかしそれを書いた社員南野は、「やみ」ではなかった。配川ゆかりこそが「やみ」で、配川つたえは姉に読まされた小説の影響を消す片説を会社に依頼していたのだ。片説家たちはやみの毒を抽出したような小説をばらまこうという『1000の小説計画』を阻止しようと徒党を組みだしていた。そして配川ゆかりの依頼で小説を書いている僕は、やみになるのではないかと片説家集団に疑われることになり、捉えられそうになったところで大男に拉致され京王プラザホテルの地下につくられた図書館に拘束されることになる。そこのトップがバックベアード。小説の神のような存在の全身黒ずくめの男である。僕は図書館でしばらく生活するも、仲間の協力を得て図書館から抜け出し、配川ゆかりと合流する。すると配川ゆかりに『1000の小説』の真実―世の中でちょうど1000冊の本当に小説と呼べる小説のことを『1000の小説』と呼び、それを目指すという決意表明が『1000の小説計画』であるということ―を聞かされる。配川ゆかりは全く新しい文章、文体が今必要だという。そこでまたもや片説家に僕と配川ゆかりは拘束されるが、一ノ瀬と配川つたえに救われる。そして舞台はマレーシアのクアラルンプールに。僕は配川ゆかりと配川つたえとともに『日本文学』という名の老人に会いに来ていた。しかし海の上の船-『日本文学』の住処―に行くと、『日本文学』は朽ち果て、右腕だけになっていた。僕はどんな小説家も死に、忘れさられるという事実に打ちのめされそうになる。しかし『日本文学』の遺言は「たとえ死んでも言葉は残る」というものだった。僕は文字となって世界を循環し、「言葉が残ること」と「自身の生」を実感する。

 

 ここで注目すべきはやはり物語の結末である。僕は『日本文学』の死を知って、忘れられた小説家に思いをはせ、打ちのめされそうになる。

 

「みんな死んだ。みんな死んだ。小説家をささえた妻たちも死んだ。小説家と一緒に作品を練り上げた編集者たちも死んだ」

 みんなみんな死んでしまった。

 みんなみんな死んで、後には何も残らない。

 小説を書こうが、評論を書こうが、ヒットを飛ばそうが、認められようが、話題になろうが、今となってはほとんど残っていないという事実が、僕を思い切り殴りつけた。

 百年後には、忘れられている。 [64]

 

しかし、『日本文学』の遺言は、「たとえこの世にいなくても、言葉は残る」というものだった。僕は海水の中に言葉の大群が流れるのを発見する。さらにその文字が地球を取り囲むのを見る。さらに自身も文字へと変わり、世界を循環する。循環した僕は浄水場のフィルターに阻まれ元に戻りだすが、それでも小説によって世界を循環する喜びをかみしめて笑う。

 これは、自分が死んでしまっても自分の書いた小説は巡り巡って誰かに影響を与え、『小説』を更新される、ということのメタファーである。一見無根拠に見えても巡り巡って書いた小説は誰かに影響を与え、残る。

だから1000年後も生き残るために「書くこと」。これが、「自傷的自己愛」にすがる以外に佐藤が選んだ生き方である。

ここでこれは佐藤が小説家だから言えることではないのか。著名な小説家である佐藤だけの救いではないかという批判が思い浮かぶ。

だが、ここで佐藤が定義する『小説』は紙で書かれたものだけではない。佐藤は作中で何度も、「小説を書くような心で書いたら、それはもう小説なのだ」[65]という主張を繰り返す。作中で佐藤は小説家を志していた石川啄木の評論『弓町より(食ふべき詩)』も、喜怒哀楽や性的衝動を呼び覚ます映像も、片説でさえも小説を書くような心で書いたら小説だという。そしてその小説の役割は、自分の捉えた世界を表現することだという。

 

この世に生きること。

この世に感じること。

この世に起きること。

それらすべてを、すべてのすべてを、正確かつ正直に表現すること。

それをなすために小説は存在する[66]

 

 小説を書くような気持ちで自分の見たもの、感じたことを表現すること、そしてその小説で世界を循環することで1000年後も生き残ることが、「大きな物語の凋落」後のポストモダンを生きる4番目の選択肢、「書くこと」である。

この「書くこと」というメッセージも「セカイに閉じこもれ」「セカイから出ろ」というように他の小説に否定され、運動性の中で自意識を再生産するための仮のメッセージではないのかという疑問が思い浮かぶかもしれない。しかし、この「書くこと」というメッセージは否定されえない。なぜなら、「書くこと」を実践せずに小説を書くことはできないからだ。たとえ小説内で「書くこと」が否定されたところで、態度でメタ・メッセージとして「書くこと」は発し続けられている。そして、それはむしろ「書くことを否定する」という作品内のメッセージが発せられたところで「書くこと」というメタ・メッセージで否定することで「アイロニカルな没入」により、より強いリアリティを持つことになるのである。

佐藤のこの後に発表された作品を「書くこと」という視点で見ると、その影響は多くみられる。

2012年に単行本化された『星の海に向けての夜想曲』と2013年に単行本化された『ベッドサイド・マーダーケース』は、いずれも世界を揺るがす大きな災厄が1000年をかけて癒えていく過程の物語を描くという点で一致している。両作品とも2011年の東日本大震災とその後の福島第二原発の事故から大きな影響を受けている。『星の海に向けての夜想曲』における災厄は天を花が覆い尽くしてしまい、その花粉を浴びると自我を失い暴力的になってしまう病にかかるというものであり、『ベッドサイド・マーダーケース』における災厄は大災害による核兵器原子力発電所の崩壊そのものだ。そして、その災厄は1000年という単位で癒えていく。それは、「書くこと」により「1000年」残ることで、確かに世界を変えられる、どんな人間でも物語を持つことができることを示唆している。

さらに佐藤は2009年にスタートした『ニコニコ動画GTV』での「ニコニコ生放送」での実況中継に参加して小説だけでなくゲームの実況などでも自身のことを表現したり、Twitter星海社の運営するウェブサイト「最前線」の中で『最前線セレクションズ』[67]という選書企画を始めたり、など小説執筆以外の活動も多く始めている。その中でも特異なのは『佐藤友哉×星海社のGumroad1000ドル小説の旅』という企画[68]である。これは、12部限定で1000ドル、つまり約10万円の小説『ラストオーダーの再稼働 鏡佐奈は終わらない探偵』を書き、それぞれ佐藤と編集者の太田克史が直接購入者に届け、その人生の「物語」を聴いたのちに売り渡すかどうかを決定するという企画だ。しかもその小説はすべてエンディングが異なるマルチエンディングとなっている。これは、1人のためだけに書かれるものである点で、『1000の小説とバックベアード』に出てきた片説と一致する。[69]そしてこのような実況も、Twitterも、片説も『1000の小説とバックベアード』で何度も言われていた通り、佐藤にとっては「小説」なのだ。実際、佐藤は著書『1000年後に生き残るための青春小説講座』で「ライフログ」について言及し、「1000年」生き残る方法について言及する。「ライフログ」とは、四〇年代アメリカで提唱された「その人の人生に起こるすべてを、デジタルデータで保存する」[70]という考えのことだ。佐藤はこのライフログを現代の技術(メール。サイト閲覧履歴。交友記録。スキャンデータ。画像。音声。音楽。映像など)を意識的に収集することで「死んだとしても、その死が無効になるのではないか[71]という。

このように、佐藤は「書くこと」で「1000」年生き続けることに生きる意味を見出しているのである。

 

死ぬな。

書け。

書きつづけろ。

結果……いつか、どれかが、歴史に残るかもしれない。

その存在を、有能な観測者が見つけてくれるかもしれない。

何年何十年何百年何千年かかろうと、書いているかぎり、チャンスはある。[72]

 

おわりに

 

本論文の流れを再びまとめよう。

1章ではセカイ系というゼロ年代に流行した物語の形式を第1次と第2次の定義に峻別し、探偵小説をルーツする前者をポストモダンの自意識を描くものとして取り上げることに決め、「ぼくとぼく」セカイ系と名付けた。

2章では「ぼくとぼく」セカイ系が持つ自意識が、すなわち「自傷的自己愛」にとらわれたものであることを佐藤友哉の『大洪水の小さな家』をテーマに明らかにし、その原因としての「社会の内面化」による社会の透明化と唯一性の獲得の欲望について述べた。

3章では「テロル」以前、以降で佐藤の作品を分析し、「自意識を再生産する自意識モード」と「アイロニカルな没入」という佐藤友哉の「セカイ系」作品がリアリティをもってポストモダンの自意識を描くシステムについて詳らかにしたのち、その『文学』(私小説)における応用と、「自傷的自己愛」の救われる手段として佐藤が見出した「書くこと」について述べた。

私は佐藤友哉が「ぼくとぼく」セカイ系で描くような自意識に自己を重ね合わせる読み方をしてきた。だからこそ、長年読み続けてきたし、研究対象としたいと思った。しかし、その研究対象への没入は、適切な距離を保って冷静に分析することを阻害しているのではないか、という危惧は常にあった。その危惧が正しいのかそうでないのかは本論文を読んだ方に判定していただくほかない。

そうではあるがしかし、佐藤作品に没入してしまっていたからこそ、私はこの佐藤作品が描く自意識のリアリティと、「書くこと」により「自傷的自己愛」から救われることのリアリティを、実際に感じられているとも思う。

どういうことか。

小説を書くような気持ちで書けばそれは小説、という佐藤の定義に従うならば、この論文もまた私にとって「小説」であった。私は佐藤の「ぼくとぼく」セカイ系が描く自意識を、私が没入してやまない世界を、参考文献の読み込みとその分析から始まる思索から描き出そうとしたのだ。そして私は本論文を書くことにより、自己の思考が整理されること、「自傷的自己愛」にとらわれた実存の悩みが明らかになり、昇華される感覚を確かに得たのである。

その感覚は、本論文と実際の私とのあわいで、本論文の論じていることの確かな手触りを、私に保証しているのである。

 

[1]ほしのこえ』、『イリヤの空・UFOの夏』、『最終兵器彼女』、『魔法少女まどかマギカ』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『AIR』、『世界は密室で出来ている』などマンガ、小説、アニメなど多くのサブカルチャーにおいて流行したり議論を呼んだりした作品が「セカイ系」と名指しされた。

[2] 批判は、「レイプ・ファンタジー」と「古い想像力」という2つの観点から行われた。前者は、セカイ系の代表的な戦闘美少女とその恋人である無力な僕という構図は、結局自身は傷つくことなく異性からの絶対的な承認を得たいという無責任な欲望を満たすためのものだとするもの。後者は、「世界が生きる意味を与えてくれないからひきこもる」という「セカイ系」の想像力は高見広春『バトルロワイヤル』に代表されるような「生きる意味を世界が与えてくれなくとも生き残るために戦う」サヴァイヴ系の想像力に比して古いというものである。

[3]前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年、28頁

[4]前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年、129~130頁

[5] すべてが相対化されたポストモダン社会の中であえて特定の価値を選ぶ態度のこと。評論家の宇野常寛が著書『ゼロ年代の想像力』の中でセカイ系批判に用いた。

[6]  前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年、129~130頁

[7] 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、96頁

[8] 1999年から2001年に『ビッグコミックスピリッツ』誌上で連載されていた高橋しん作の漫画。北海道の普通の高校生シュウジとその恋人であり日本の「最終兵器」であるちせの物語。二人の純愛と、徐々に厳しくなる戦争、終わりゆく世界の中で人々がいかに生きるかを描く。

[9] 秋山瑞人作のライトノベル。全4巻。普通の高校生浅羽と北と呼ばれる謎の敵国に対する戦闘機ブラックマンタのパイロットイリヤの純愛をテーマとする。

[10] 2002年の新海誠作のアニメ作品。ほぼ新海1人により、監督・脚本・演出・作画・美術・編集・声優がなされたことで有名。主人公ノボルと地球から何万光年先の星までの調査船のパイロットになったミカコとのメールだけでつながった純愛を描く。

[11] ただし、この3作においても、多くの相違点が存在することを前島は指摘している。だが、小森健太郎が指摘するように確かな―少なくとも「ぼくとぼく」セカイ系と対比できるくらいの共通項は存在する為、あえてここでは「きみときみ」セカイ系とひとくくりにしている。

[12] 編集者の太田克史が2003年に立ち上げた雑誌、ファウストに載せられた作品の典型的な物語の形態のこと。セカイ系的な社会の排除とミステリ的な道具立てとファンタジー要素が特徴的だと言われている。主な作家として本文の西尾、舞城、佐藤の他に乙一滝本竜彦渡辺浩弐など。

[13] 笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、2008年、18頁

[14]佐藤友哉フリッカー式講談社、2001年、30頁

[15] 佐藤友哉フリッカー式講談社、2001年、38頁

[16] 佐藤友哉フリッカー式講談社、2001年、91頁

[17] 宇野自身第2次定義にあてはまるセカイ系のことを「社会が物語を備給しない世界において、母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止する、いわばきわめて無自覚な決断主義の一種」(『ゼロ年代の想像力』98頁)としているが、ここで私が言いたいのは宇野がセカイ系と対比して新しい想像力と呼んだサヴァイヴ系の想像力も第一次定義には含まれる、つまり決断主義の想像力はセカイ系の範疇にあるということである。

[18]高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』、創元ライブラリ、2002年、47頁

[19]高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』、創元ライブラリ、2002年、85頁

[20]東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、44頁

[21]東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、156頁

[22]東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、49頁

[23] 東は意味や歴史に満たされた言文一致体以前の前近代の文学の言葉を「半透明」、意味や歴史などを排除し、主体が世界を直接に描写するための言文一致体以後の言葉を「透明」と表現する『日本近代文学の起源』における柄谷行人の定義を用いてオタクカルチャーのコードに満ちた不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする新しいキャラクター小説の文体を「半透明」と名付けた。

[24] 佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、20頁

[25] 佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、23頁

[26] 佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、35頁

[27] 佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、24頁 

[28] 大澤真幸『不可能性の時代』、岩波新書、2008年、189頁

[29] 斎藤環『文学の徴候』、文藝春秋、2004年、34頁

[30] 斎藤環「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』中公新書ラクレ、2005年、19頁

 

[31] 1997年に神戸市須磨区で起きた小学生を対象にした連続殺傷事件。小学6年生の児童の頭部と「酒鬼薔薇聖斗」と署名のある挑戦状が発見され、犯人の逮捕後には同じ地区で起きていた小学生の女児を対象にした連続殺傷事件も犯人当時中学3年生の少年Aによるものだったことが判明した。

[32]藤田直哉『社会は存在しない セカイ系文化論』「セカイ系の終わりなき終わらなさ ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」、南雲堂、2009年、264頁

[33]東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』、東京創元社、2013年、19頁

[34] 佐藤友哉水没ピアノ 鏡創士がひきもどす犯罪』、講談社ノベルス、2002年、26頁

[35]佐藤友哉新現実 vol.1』「『世界』の終わり」、2002年、67頁

[36]斉藤環『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』、ちくま文庫、2010年

[37]斉藤環『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』、ちくま文庫、2010年、127頁

[38]斉藤環『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』、ちくま文庫、2010年、158~159頁

[39] 東浩紀は著書『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』において新井素子法月綸太郎押井守小松左京らの「セカイ系」作品分析を通して他に4つの「大きな物語の凋落」後の世界での生き方を示している。1つ目は「人間と社会のかわりにキャラクターと家族を信じて生きること」。2つ目は「さっさと親元を離れ恋愛をして他者に直面すること」。3つ目は「だれか他のひとにとっての希望かもしれないのだからセカイ系の不能性の中にとどまること」4つめは「生殖への欲望を目的として生きること」。(同書、88、112、155頁)

[40]中沢忠之『青春小説論―佐藤友哉の自意識というモード』

http://d.hatena.ne.jp/sz9/touch/20080830

[41]太宰治人間失格』、新潮文庫、1972年、13頁

[42]クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、51~52頁

[43]クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、52~55頁

[44] 具体的には4章1節、5章4節、8章2節、終章で「僕」は登場する。

[45]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、240頁

 

[46]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、241頁

[47]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、244頁

[48]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、246~247頁

 

[49] Amasonレビュー(http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AB-invisible%C3%97inventor-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%8F%8B%E5%93%89-x/dp/4061822691):投稿者:太郎、投稿日:2007年6月17日、レビュータイトル『なぜ、この本がこのまま出版されてしまったのか疑問に思う』より引用

[50] 大澤真幸『不可能性の時代』、岩波新書、2008年

[51]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、222頁

[52]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、222頁

[53]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、227頁

[54]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、242頁

[55]佐藤友哉クリスマス・テロル invisible×inventor』、講談社文庫、2002年、243頁

[56]東浩紀 大塚英志新現実 vol.1』「工学、政治、物語」、2002年、143頁

[57]中沢忠之『青春小説論―佐藤友哉の自意識というモード』

http://d.hatena.ne.jp/sz9/touch/20080830

[58]佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、195頁

[59]佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』、新潮社、2005年、191頁

[60]藤田直哉『社会は存在しない セカイ系文化論』「セカイ系の終わりなき終わらなさ ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」、南雲堂、2009年、286頁

[61] 『新潮 2007年7月号』「第20回 三島由紀夫賞発表 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」」「受賞記念エッセイ 1000の受賞とバックベアード」、新潮社、2007年、145頁

[62] 『新潮 2007年7月号』「第20回 三島由紀夫賞発表 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」」「受賞記念エッセイ 1000の受賞とバックベアード」、新潮社、2007年、146頁

[63] 佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』、新潮社、2007年、11頁

[64]佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』、新潮社、2007年、281頁~282頁

[65]佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』、新潮社、2007年、72頁、107頁、146頁、151頁に見られる。

[66]佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』、新潮社、2007年、274頁

[67]最前線『最前線セレクションズ』「木 佐藤友哉」(最終閲覧:2016年1月11日)

http://sai-zen-sen.jp/special/selections/author/YuyaSato/

[68]最前線『太田克志のセカイ雑話』「『佐藤友哉×1000ドル小説の旅』全国ツアー開幕です!」2012.07.05(最終閲覧:2016年1月11日)

http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/1000-3.html

[69] 佐藤が片説を書いたのにはある意味で小説以上に1000年後に残ることに対して有効だからである。自分1人のために書かれた世界に1冊の本。それを1000ドルという本としては破格の大金で直接作者から手渡しで買ったという体験は、読者の胸に他のどんな小説よりもその小説を残すことが期待される。本を渡す際に読者1人1人の人生の物語を聞き出すのもあるいはその体験を印象深いものにして記憶に残りやすいものにするためかもしれない。

[70] 『1000年後に生き残るための青春小説講座』、講談社、2013年、224頁

[71] 『1000年後に生き残るための青春小説講座』、講談社、2013年、224頁

[72] 『1000年後に生き残るための青春小説講座』、講談社、2013年、225頁