「信用」をあまり欲しがるな
俺は基本的にどんな言説も50%しか役に立たない思っているし、逆に言えばどんな言説も50%は役に立つと思っている。
シロクマさんがこの記事で言いたいことは「挨拶や礼儀作法はなぜ大事とされているのか」で、その答えは以下の通りだ。
→信用は放置しておくと目減りする
→そのため、信用をメンテナンスしなければならない
→信用のメンテナンス方法とは、挨拶や礼儀である
※そういうものをショートカットする手段はあるが、そういった手段で気づいた信用は偽物であり、非常に失われやすい
この文章も例に漏れず、50%しか役に立たないなあと思う。
信用をメンテナンスするといっても、水道工事ではないのだから月一で点検作業のように礼儀を払ったり敬意を示すわけにはいかないだろう。
タイミングが重要であるし、タイミングを外したら、意味がない。
そして、信用メンテナンス弱者は、タイミング読みの下手な人間である。
ありがとうをいうべき時にごめんなさいを言ってしまい、挨拶が必要でない火急の事態で挨拶をバカ丁寧に行ってしまう。
そうして、精一杯「信用」を積み重ねるべく行った行動も1タイミングを逃したことで「パー」だ。
もちろん見てくれている人もいる。
俺はブラックジャックの「六等星」という話が好きだ。
ブラックジャックはある日、町で起こったトラック事故に見事な処置を施す椎茸医師に出会う。しかし椎茸医師は病院では日陰者だ。周りからは地味で無能な医師だと思われている。
椎茸医師の務める病院では次期院長をめぐる争いが起きており、もちろん椎茸医師はその輪にも入れていない。そんなある日、院長をめぐる汚職で2人の時期院長候補のエース医師は逮捕されてしまう。
そこで、椎茸医師が実力を発揮するのだ。
ブラックジャックはああいう人こそ、「遠くで光り輝く6等星」のように実は大きく周りを照らす存在ではないかという。
椎茸医師のようにコツコツ信用を積み重ねるという手はある。
しかし、現実は漫画ではない。
本当の人間は椎茸医師のように誠実ではない。
能力は低いうえ、本当は礼儀など誰にだって払いたくない、みんなが自分に払うべきだ、これは俺に対する税金だとしか思っていない。
だから、どうせボロが出る。
そうなったら、どうせそれまで気づき上げた信用はボロボロと灰燼に帰すのである。
こんな危険な賽の河原の石積み的行為を俺はとてもおすすめできない。
もういっそ、「信用」が欲しいという気持ちは棄ててしまうのが良いと思う。
そのうえで、挨拶したいときはするし、礼儀を払いたいときは払う。
決して見返りは求めない。
ただ脳の信号に従ってやる。
そう決めたほうが、結果として「信用」は積み上がりやすいし、たとえ積みあがらなかったとしても、苦しまずに済むのではないかと思う。