裸で独りぼっち

愉快な毎日の記録

『モダンタイムス』における野蛮とその乗り越え

『モダン・タイムス』はチャーリーチャップリンにより1936年に制作されたコメディ映画である。あらすじは以下の通り。

 大工場の労働者チャーリーはベルトコンベアーで流れてくるナットを占めるだけの単調な仕事の中で精神に変調をきたし、職を失い、警察に連行される。刑務所を出て出会った孤児の少女と出会ったチャーリーはいつしか愛し合うようになり、二人の家を建てるためにまた働く。レストランで働くある日、浮浪罪により少女が逮捕されそうになり、逃げた二人は新しい世界を求めて手を取り歩き始める。

 この映画が機械文明による人間性のはく奪を批判するものであることは冒頭の一文

人間の機械化に反対して個人の幸福を求める物語

や、羊のモンタージュ による労働者=羊の群れの示唆からも明らかである。


この機械文明を神話/啓蒙の分類に当てはめると啓蒙に当てはまるだろう。アドルノが野蛮と化した啓蒙として名指ししたのはナチズム、スターリニズム、アメリカの文化産業であるが、この文化産業と双子のような関係として『啓蒙の弁証法』では機械文明は名指しされている。

娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である。娯楽とは、機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ。

その大きな共通点として、すべての人を一律に扱う点、こちらからの働きかけを許さず一方的に影響を与えるのみである点が挙げられるだろう。文化産業としてはラジオと映画がその代表的な例として挙げられている。現代ではテレビもそうであろうし、ネットも双方向の働きかけが可能とはいえ『啓蒙の弁証法』の

一人一人の購買者は、いわば自発的に、あらかじめ表示された自分の「レベル」に合せて行動し、彼のタイプ向きに造られた大量生産のカテゴリーにしたがって選ばなければならない。

ホルクハイマ―、アドルノ著 徳永恂訳『啓蒙の弁証法 哲学的断想』岩波文庫、2007年

という一文と、評論家・思想家の東浩紀による

ネットを触っているかぎり、他者の規定した世界でしかものを考えられない。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』幻冬舎、2014年

という一文を照らし合わせると、テレビ・ラジオ以上に娯楽産業=機械文明的な特徴を備えているとさえ言えもする。


さて、モダンタイムスにおける機械文明の象徴は監視用テレビモニター、流れ作業、全自動食事機、歯車などが挙げられるだろう。いずれも一方的かつ一律にチャーリーら人間を扱う。このような固有性を認められない職場においてチャーリーは上手く立ち振る舞うことができず、仕事は往々にしてうまくいかない。

 

だが、チャーリーにも特技がある。それはローラースケートと歌である。
チャーリーはデパートの夜勤の場に少女を招き入れ、おもちゃ売り場のローラースケートをうまく乗りこなす。
また後半で少女の口利きでレストランで給仕と歌手をすることになったチャーリー。給仕ではドタバタのミスを繰り広げ、いざ歌う段になり、歌詞を書いていた袖のカフスが飛んでしまう。しかし、チャーリーは即興で適当な言葉を作り、歌を成功に導き支配人に「素晴らしい」とまで言われる。
歌も玩具も、文化産業に位置づけられるものであろう。そして映画も文化産業に位置付けられている。つまり、チャーリー自体が機械文明を批判しつつも文化が産業に堕していることには気が付かない野蛮な啓蒙、映画の象徴であると非難されるという構図も考えられるわけだ。


 しかしその構図は『モダンタイムス』には当てはまらない。

なぜなら、いずれの場合もチャーリーの振る舞いは画一的な再生産を行っていないからだ。ローラースケートは目隠しをして、深夜のデパート内で乗りこなす。歌は歌詞を適当にでっち上げ、即興の身振りとともに披露する。そして初のトーキー導入を意味のつかめない歌にて行う。その点で、『モダンタイムス』は「あらかじめ決められた隠語の徴しを帯びて」 いない。すなわち、古い図式に縛られてはいないのだ。


啓蒙の弁証法』では目新しい効果こそ古い図式に縛られているともいわれているが、適当にでっち上げられた自然は、やはりあらかじめの図式に縛られているともいえないのではないだろうか。


これはコメディという物語自体こういった即興的な要素やお約束の崩しがあると思うので、そう考えると笑いにこそ啓蒙を野蛮にさせない鍵があるのではないかという考えが浮かぶが、文字数の都合上一度ここで筆をおきたい。

 

 

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