デトロイト 世界で一番悔しい映画 93点 ※ネタバレ感想
これは昨年9月の事件。
なんか、『デトロイト』を見た後だと、本当に暗澹な気持ちになる。
畜生!! ファックバビロン!!
『デトロイト』今まで映画みて1番悔しい気持ちだ!戦慄の40分どころじゃなく、「事件」が怒ってからはずーっとずーっとずーっと悔しい。畜生、差別しやがって。記録映画の様だったのに、こんなに感情移入できるとはなあ
— 遠縁の親戚 (@miya080800) 2018年2月5日
ストーリー
1967年。アメリカ第五の都市、デトロイト。
アメリカ全土にはいまだ、黒人差別の風潮は色濃く残り、黒人たちは自由な居住区の名のもとに、差別の目にさらされながら生きていた。
その怒りはついに都市で爆発し、黒人たちは店から物を盗み、街を破壊した。暴動である。
それへのカウンターなのか、それとも更なる締め付けか。白人が98%を占める警官は黒人たちを執拗に疑い、追い詰め、中には正当防衛と称して射殺するものさえいた。
そんな中、若者でにぎわるアルジェ・モーテルから銃声が。
狙われたと思った警官たちはモーテルに大挙して押し寄せ、黒人青年やそこに居合わせた白人少女たちに尋問という名の拷問を始める。
感想
大方の人が知っていると思うが、大みそかにこういう出来事が物議をかもした。
年末恒例の番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで 笑ってはいけないアメリカンポリス24時』で浜ちゃんが「ビバリーヒルズ・コップ」に登場するエディ・マーフィーのコスプレをして登場。それが、人種差別的で不快だと、日本在住の黒人作家が指摘。たちまち論争が巻き起こった。
一方は、日本という国で。固有の文脈をもってお笑いでやっていることに、差別の意図を読み取るのはおかしい。差別はそれを見る人の心の中にいるのではないかといい、
また一方は、世界基準に照らしてアウトなことを平然と放映するこの国がおかしい。日本人はあまりに差別の歴史に無知すぎると批判した。
僕はというと、圧倒的に前者の意見だった。
なぜかって、お笑いが好きだし、過剰な表現規制は逆差別の入口だと思ったからだ。
それは今でも頭では正しいと思う。
でも、今は同時に、”あの悔しさ”が蘇る苦しみは、そんな理屈では解決できないのだ、とも思う。
あの悔しさとはつまり、その、「差別される悔しさ」だ。
つまり、「人間としての尊厳を剥奪され、それに抵抗できず、したところで無残な死しか待っていないという、絶望の心持ち」だ。
モーテルで、
白人警官のリーダークラウスは高圧的にふるまう。
それは、黒人を2人も正当防衛でなく殺してしまったという危機感の裏返しかもしれないし、
開き直りによって表出した余所行きでないむき出しの差別心なのかもしれない。
クラウス役のウィル・ポールター。児童文学『トムソーヤの冒険』に出てくるいじめっ子のような、いかにもムカつく面である。しかし、もちろん実際の彼は反差別主義者だ。撮影中、彼は演技ながら罪悪感に苦しんだという。
彼は高圧的にふるまい、事故を正当化して暴力をふるい、とうとう保身のために完全なる殺意を持って無抵抗の少年を殺害する。
そしてその罪は、、、、。
本当にやり切れない気持ちになる。
そういう思いがフラッシュバックするとすれば、やはり差別の歴史を思わせる素振りは理解と覚悟をもってやらなければならないのだろう。
クラウス・デメンズ・フリンの3人は、黒人を殺害しながら、弁護士の擁護の元、法廷に立つことができる。そして、あまりにどうしようもない形で事実はうやむやにされ、罪は隠蔽される。
だが、そこで畜生! コブラが出てきてこいつらを皆殺しにしてくれればいいのに!
とならないのがこの映画の奥深さだと僕は思う。
白人たちもビビっていた。それは事実で、暴力はその引き金を引くだけなのだ。
道徳の教科書なんか嫌いだしジョジョ6部は好きだけど、やっぱり暴力の連鎖が生むのは同じような地獄の裏返しだ。