裸で独りぼっち

マジの日記

『勝手に震えてろ』80点 小説と映画を比較しての感想 ※ネタバレ

映画『勝手に震えてろ』を見た。

 

で、その後小説を読んだ。

 

その2つの共通点、相違点について語りたい。

 

ストーリー

エトウヨシカ、10月生まれ、B型、雪国育ち、ひとりっ子、彼氏なし(24年間)、絶滅した動物が好き。

中学時代の同級生「イチ」を中学からずっと脳内で思っている。

話しかけたことは3回。

そんな彼女は会社の同僚「ニ」に告白される。人生初の告白。

 

「私には、2人の彼氏がいる」

 

ヨシカは「ニ」とデートを重ねつつ、「イチ」にも接近を試みることにする。

 

共通点

 

furuetero-movie.com

 

『勝手に震えてろ』という小説について、そもそもは以下のネタ画像のイメージしかなかった。

 

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@yuukiの凍結されたTwitterより

ブックオフである。表紙には以下にも一般職然とした痩せて細目の女性が座っており、その周りを絶滅した生物が取り囲んでいる。

左はドードー、右はアンモナイト

スプリングカラーの表紙で、内容は読めない。

 

作品を文字と映像で2度通過した今思うのは、『震える牛』がタイトルでもこの小説行けるなということだ。

 

震える牛:臆病、牛のように一見穏やか、しかし「赤いもの」を見ると牛のように荒ぶる

 

共通点1:主人公イチカ

とにもかくにもこの作品は主人公イチカの自意識に焦点が当たっている。

イチカは自意識が高い。

例えばそれはのべつ間もない小説の語り口だとか、自分位告白してきたニのことをキープ対象としてそのことに何ら罪悪感を抱いていないこととかにあらわれている。

 

それは映画も小説も同じだ。

こういう自意識の語りは綿矢りさ、のみならず純文学作家の真骨頂だ。

それ小説の方が濃い。

というのが定説だが、映画を見たところ全く同じ濃さだった。

それを実現した監督(元芸人らしい)の手法に、街の人々にのべつ間もなく話しまくるという仕掛けがある。

 

映画は、松岡茉優演じるイチカがサブカルめいた、というか社会人生活大丈夫?といった風体のカフェ店員に話しかけまくるシーンから始まる。

「私ね、あなたみたいになりたかったんだ、あ、ねえ、髪触って言い?」

早口。

これを見て、ああ、これは夢の中のシーンなのかなと俺は思ったのだが、その後も「話しかけ」シーンは続く。

なんだこりゃ、自意識が高いっていうか単にエキセントリックな人間じゃないか、と思う。

だが、それはすでに、監督の策略のうちということなのだった。

その内訳については後述する。

 

共通点2:恋愛周りのストーリー

イチを脳内で追いつつ二を振り回すヨシカ。

しかし、イチには届かない。というより、自分の中では手中に収めているつもりなのに、実際の距離は遠い、その固く冷たい現実に耐えられないのだ。

初期は気持ち悪い気持ち悪いアプローチをしてきたニのことをヨシカは袖にしまくり、処女だと知られたことにブチ切れ、振って妊娠を装い、家に引きこもる。

そこに現れるニ。存外に頼もしいセリフ。一個の人間としてヨシカに近しくありつつも、アプローチしたという一点でのみ先を行くニ。

ヨシカは彼の名を呼ぶ。

 

というまあ大まかなあらすじ。

ここは一緒だ。原作なんだからそりゃそうだ。

れないというのは女性の自意識に男性以上に深く結びついているというのがよくわかる。

童貞はさらされるが、処女はこもることになる。

さらされた童貞の方が一見恥のようだが、こもった自意識のドツボの方が深く抜けがたいのは、ヨシカ的人物ならわかっているはずだ、

 

相違点

この映画と小説の相違点を語ることは、そのまま監督への賛辞となる。

自意識をガチャガチャ語る分野というのは、前述のとおり小説のホームグラウンドだ。

アウェイでそれをやろうとすると、日本人バッターがメジャーに出るくらいの覚悟と地肩が必要になるのである。

 

相違点1:空想と遊ぶイチカ

映画は、イチカがのべつ間もなく店員に話しかけるシーンから始まると書いた。

あれは全部空想だったのだ。

イチカはバスでも、陸橋沿いでも、道でも、若者にも、おばさんにも、おっさんにも話しかける。という空想をする。

――これは、痛いあるあるだ。

朝井リョウが『何者』で描いた「友達が活躍した時に悪評がどこかにないかケチの付け所がどこかにないか探す」というのが俺の痛いあるある不動の1位で、この「たにんに話しかける妄想」が俺の痛いあるある2位である。

これが、原作にないというのは綿矢りさもやられたな、と思ったのではないか。

最近結婚して幸せになって作品の質が落ちたらしい綿矢りさよ。

これを見たら嫉妬の情に火がつきやる気が沸き起こるのではないか。

監督・脚本の大九明子は今年で50歳。ポールヴァーホーベン(80)の『ELLE』(2017)を見たときも思ったが、もう50とか80でも才能あったら若者が見ても違和感のない作品が作れる時代なのだな。

若いがアドバンテージではなくなっている。

あるいは俺が老いている。

 

相違点2:来留美の存在感

映画ではホリプログランプリ受賞者石橋杏奈演じる月島来留美の存在感が大きい。映画を見ただけの人は原作では来留美がほとんどセリフもなくて、営業部の出木杉くんとつきあってもないと知ったら目を丸くするだろう。

どうして映画で来留美の出番を増やしたのか。

それは、やはり映画という内面をすべて言葉にしがたいメディアの特性上、という部分が大きいだろう。

映画ではヨシカは来留美に内心を話すのだ。

その結果、ヨシカが小説よりもポップな人物になり”あがりくさって”いるといわれば否定しきれないが、その分来留美を信頼しているという描写ができるし、その結果「裏切り」(一方的な)の衝撃も大きくなる。

やはり、これも良改変である。

 

ちなみに、原作ではオカリナもその彼氏もいない。

あのシーンは芸人を目指していた監督特有のユーモアであり映画への華の添え方であろう。