『レディ・バード』97点 ”青春は情報量が多い“と青春映画は言う
※ネタバレがあります
―マザーグースより
監督グレタ・ガーヴィグは、映画を撮りだしてしばらくしてから、母が子どもの無事を案ずる気持ちが唄われたこの歌のことを思い出したと語るが、そんな穏やかな話ではない。
青春は情報量が多い。
「
それら羨望の対象となるのは、学校という箱庭の中で過ごす、青春というある一定の期間の濃度が、明らかに大人になってからよりも濃いからだ。
それは大人になっても懸命に毎日生きてるだかどうかで違うだとか、そんなうすら寒い自己啓発の言葉を鼻で笑って寄せ付けない。それほどに、世界を知らな過ぎていて、回数を重ねてなさすぎる。
レディには漠然と都会の大学に行きたいという思いがあるが、同時に初めて免許を取得して運転席から見た街のそこかしこに新たな何かを見つけ、後ろ髪を引かれる。
その、”気づいてしまった”瞬間。
地元に縛られているという枷が取れ、その代わりに一生都会を夢見て青春を過ごすという可能性が閉じた瞬間はとてつもなくエモい。
友人・親子・恋愛・進路、テーマを見失うくらいに開かれたこの作品の可能性と情報が一気に閉じたラスト20分付近。
それだけでおじさん(だったら)泣いちゃってたよ。
おじさんじゃないからまだ泣かなかったけど。
ストーリー
これは、クリスティン・マクファーソンが高校3年になってから大学に入るまでの1年と少しの物語。
彼女は自分に自分でレディ・バード(てんとう虫)とあだ名をつけている。
母マリオンは病院で働いており、父はラリーは失業しそう。
レディ・バードは自分の家を
<線路向こう> と呼んでいる。親友は数学教師に恋する太ったジュリー。
レディは母との対立、父の失業、ミュージカルへの出演、恋愛、処女喪失、大学受験などを体験しながら、目まぐるしく過ぎる高校最後の1年を駆け抜けていく。
所感―ひと夏の経験ではない
予告編を見ると恋愛がテーマなのかな、とか親子の対立と和解がテーマなのかな、とか友情がテーマなのかなとかめいめい勝手に想像するかと思うが、どれも正確ではない。
この映画のテーマは青春―(ライムスター宇多丸いうところの)あらゆる可能性が開かれた状態―の1年間そのものである。
だから、情報量がとめどなく多いのだ。
そしてそれゆえ、この映画は青春恋愛映画でもなく、家族映画でもなく、人間ドラマでもなく、純度の高い青春映画として凛と立っているのだ。
ここで反論をひとつ。
さて、どんな人間になるべきか。レディ・バードは「これこそ自分」と思えるものに飛びついては派手に失敗する。
彼女自身が「自分はちょっと他の子とは違う。スターになれる」みたいに思い込んでいるところがものすごい痛い感じなんですよ。
これらの証言は、レディを少し誤解している、と俺は思う。
いずれも「私はこれだ」とレディが(一時的にせよ)思い込んでいることが前提となっているからだ。
俺は、そんなしっかりと定まったルートなんてひとつだって彼女にはなかったと思う。
彼女にあるのは「今の私は本当に私ではない」、それだけだ。
Noはあっても、Yesはない。
だから、ミュージカルで役を与えられてもそれ以上続けようとはしなかったし、イケメンバンドマンのカイルとの初体験を終えた後でも何も大きな変化がなかったことにがっかりしたのである。
自室のポスターに統一感はなく、好きな音楽は”ありがちだ”と都会の男にバカにされるようなヒットソングで、信じられる才能はない。
それを一般人と呼ぶ。
レディは髪はピンク、ご聖体のクッキーは食べる、自分ネームはつける、とエキセントリックな人物のようなポイントもあるが、それらも含めてちょっと痛い面も持ち合わせているような一般人性こそが大きな魅力なのである。
母からの手紙
ちょっとした不満。
レディの成長描写として最も重要な後半の場面である母の手紙。
あの部分、字幕が少なすぎてどういう手紙なのかよくわからなかった。
実際の手紙はそれなりの長さなのでもう少し内容があったのだと思う。
年を取ってからの子どもでもあり、母マリオンはレディをたいそう愛していることはわかったが、それ以外の内容も気になる。
なんとか公式が公開してくれんもんか。
キャスト
主演:クリスティン・”レディ・バード”・マクファーソン(シアーナ・ローナン)
母:マリオン(ローリー・メトカーフ)
父:ラリー(トレーシー・レッツ)
親友:ジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)
第1彼氏:ダニー(ルーカス・ヘッジズ)
第2彼氏:カイル(ティモシー・シャラメ)