裸で独りぼっち

愉快な毎日の記録

20190518日報 チャクラが開いたさよなら俺

今日、ついに自分の発表したいものをてらいなく発表する方法を見つけたかもしれない。

それ、「できあがったものと自分を完全に切り離すこと」だ。

 

今まで俺は曲にせよ文章にせよ表に出すのは恥ずかしすぎるしなんか嫌だと思ってひた隠しにした入り、セルフで(姉が勝手に写真送っちゃったんです)式の姑息な提出方法を行ってきたが、そんなのは嫌だなと思って早幾星霜である。

 

結局姑息に何かを隠す態度というのは大成しない。

そんなんしっとるわマイセルフと90年代ミスチルの歌詞式におのれにツッコミをいれてここまでやってきた、というかやってこざるを得なかったわけだが、それは結局作り上げたものが不出来だと批判される=俺が不出来だと批判されることだという感覚があったからだと思う。

 

当たり前の話ですまない。だけど、すごくチャクラが開いた気がしたんだ(でもこういう感覚はたまにあるので幻想かもしれない。てかたぶんそう)。

 

そのきっかけはピクサーのなんちゃらいう偉い人の本を読んでた中でとにかく繰り返し失敗を恐れるなと連呼、いや連書きされていたことである。

 

ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法

 

 

まあよくある話だし、なんかキンコン西野とか怪しい情報商材売ってるやつが言いそうじゃない?という謗りはわかる(俺はキンコン西野が怪しい情報商材売りと同様だとは思っていない。)。

 

俺もその言葉自体は知っていたしお題目だと思っていたというか、自分には失敗を恐れないマインドがそこそこあるのでは(仕事辞めたし)と思っていたがそんなことはなかたようだ。

 

具体的にどういうのが失敗を恐れない態度かというと、誰かに「作品」(便宜上こう呼ばせていただく。気取った言い方で好きではないし、自分に見合わない)を批判されたら「おー、確かにそうだそうだそうだ。こりゃだめだ」と言ってやる態度のことである。

 

相手が上司や同僚の場合「いやお前がやったんだろ。無責任か!」と叱責されそうな態度だが、だがこれがいいのだ。

結局これで怒られることが怖くて俺は何となくこの手法に気づいていながらも避けていたんだネ。(←ダッサ)

 

作ったものは世に出た時点で、というか俺が「これででーきた」と思った時点で俺とは切り離されているのである。いわば見知らぬ他人だ。あるいはうんこと似ている。

 

うんこ

うんこ

 

 もとからうんこなのだからうんこだといわれても気にするな、というライフハックの話ではないよ。

うんこが体から排出した時点で他人と考えるように、作ったものも他人と考えなさいよということだ。

そして、その人の良いところも悪いところも同様に見つめてあげるのだ。

自分のものだと思うとどうも過剰に良く思えたり、逆にあら捜しをしたくなったりするが、それが間違いである。そいつ他人です。

 

だから要するに何が言いたいかというと、この文章も俺にとってもうすぐ他人になる。今はまだ血のつながりを感じているが、それもあと数十秒のことだ。

 

じゃあね、ありがとね。3、2、1…