裸で独りぼっち

マジの日記

ウィーアーリトルゾンビーズ感想 エキセントリック天才肌ゲーム風映画 ネタバレ

 

Filmarks

前半、スゲーと思った。後半、腹が立ってきた。
良くも悪くも広告会社のクリエイティブ出身の日本監督といった感じがする作品。

たぶん、ゲームみたいな映画を作りたいというのが初期の構想だったはずだ。それが前半はハマっていたし新しかった。
電通、Robotのクリエイティブの技術はやはりセンスがあってかつ面白い画を見せてくれるなあという感じだ。
しかし、主人公たちがリトルゾンビーズを結成したところからややうんざり感が生じる。

うがった見方をするとここで監督の「作りたい」に「ウケたい」という邪念が混じってしまった気がする。
広告会社の大人のふるまいとか、菊池成孔とか、監督が社会に出てから見つけた”あるある”をそこに忍ばしていて、それが作品のユニークさを殺してしまっていた。だからゾンビ映画ってこと?

字数の関係でかなり批判っぽく終わっているがつまらなかったわけではない。

というか、俺が作りたかった映画だこんなのは。

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近年、どんどん映画の意識が下がっていると俺は思う。

それは別に批判ではなく好ましい変化で、要するに商業作品として絶対こっちのほうが面白いということはやっちゃおう是それが映画であるとかないとかはとりあえず横においてさあという意見が市民権を得てきたということだ。

その象徴が「映画のMV化」。

君の名は、グレイテストショーマン、ララランド、ボヘミアン・ラプソディー……。

ロッテントマトで評論家が腐らせるのに観客超フレッシュ系の映画は総じてそういう傾向にあるのではないか。

その最も象徴的なのがディズニーで、MCUだってGOGの曲づかいの妙は最高のMVづくりといってもまあ、差支えはないだろう。

 

いい曲をいい映像と掛け合わせて作ったら超良いMVになる。それを2時間にしたら超最高の映画になるはずだ。

 

その意見自体は超いいもの、だと思う。だから、エキセントリックなセンスと高クオリティの技術で画面を成立されているこの試みができるのは、うらやましいし、すごい、と思った。

 

でも、やっぱり映画はそれを許さない。2時間の間観客を退屈させずに真っ暗闇の中どでかいモザイクの塊に集中させるには、やはり登場人物の実在感と共感できるストーリーが必要なんだ。

 

その点がウィーアーリトルゾンビーズにはかけていたんじゃないかな、なんて。

 

だから、後半の偽バッドエンディング。あそこで終わっていたら消化不良感はあるもののこの監督、最後に俺をびっくりさせやがったなで記憶に残るカルト映画になったかもしれない。

しかし、そのあとの子供の我侭パワーでどん底のポジティブをつかむみたいな展開は、やはり大勢が関わった作品だとそれが限界か―という、がっかり感があった。

もちろん監督はこの一作で終わるつもりはなく、どんどん作品をビッグバジェットで作っていきたいからそうしたのだろう。

次は原作付きに挑んでほしいな。

 

尖った美的センスとクリエイティブが持ち味の監督はやはりストーリがおろそかになりやすい。観客を置いてけぼりにしていたり、逆に過剰に説明しすぎだったり。

今回は後者の面が出ていたかなと思う。

 

「僕は泣けないんだ、多分独りぼっちだったから(意訳)」なんてことをはっきりキャラに言わせるべきではない。余談だが俺はそれをはっきり言わせまくる『湯を沸かすほど熱い愛』がほんとに嫌いだ。『長いお別れ』も予告を見る限りそんな感じなので見たくないが、見てボロカス言いたいというアンビバレントな感情にさいなまれている。

 

いや、しかしはっきり言わせるのももしかしたら監督の意図で、要するにゲームではそこらへんしっかり説明するからということなのかな、と好意的に解釈もした。前半はしていた。

しかし、池松壮介が出てきてからの展開、テメーはだめだ。

池松も面白そうなキャラクターではあったがこの情報量の多い話で視点を4人の子供たち以外にずらすと話がずれまくる。やはりバンドとかは演出程度にして、尖った泣けない子供たちの誰にも知られない反逆を描く方がよかったのではないか。

 

P.S.飯の味がしなくなったといっていたデブ。その伏線全然回収されねーじゃねーか。味しないくせに飴とか食べてるし!わすれてたんじゃねーのか?