『天気の子』邦画界最大の世界征服者新海誠 ※ネタバレ
Filmarks
好き嫌いでいうと好きなんだけどこれでええんか……というのが正解のリアクションな気がするんだけど好きかどうかもよくわからない。
確かにSNSで言われているとおりゼロ年代のギャルゲーのにおいが確かにする。
もともと新海監督はギャルゲーのOPを監督していたわけで作家性の原点回帰であり、独壇場ということか。
といいつつ、同じ匂いを多分に残していたであろう、初期の作品ともどこか違う。
初期の作品はテーマが先に合って、それを美麗な作画(キャラは別)で完全再現していたという感じがした。それが『天気の子』では描きたいシーンが先に合ってそれにストーリーがついてきた、結果として作家性がむき出しになったという感じがする。
展開は雑でツッコミどころは多い。特に時間が対して立っていないのに登場人物の関係性は進むので瀧と三葉ほど帆高と陽菜に強い関係性―キミとボク性―は感じられなかった。その点で、スコアは低くなった。
しかし、身勝手さから女性に「気持ち悪い」といわれた主人公が、その身勝手さのままにセカイと対峙し、ついには変わらないままでセカイを変えてしまうというのは、そしてそれが全国東宝系のビッグバジェットで観られるというのは、なんらかの悲願が成就した気がする。
最後に。
あなた一人と ほか全人類 どちらかひとつ 選ぶとしたら どっちなのかな? 迷わず―― (RADWIMPS ます。)
俺、おっとボクはセカイ系を卒論のテーマにしたくらいセカイ系が好きなセカイ系のアレなんだが、その指向は佐藤友哉とか西尾維新の小説に向いていた。
で、お金をケチりたかったのと自由意志が乏しく夜はグーグー寝ていたのであまりアニメにもギャルゲーにも(世代的に)触れず、来たわけだが、だからlainとかkeyとかいわれてもわからないニワカなわけだが、ちょっとなんかどこかよくわかったのはこの結末と随所随所の決め画を描く、というのがそもそも新海誠監督の目的だったんだろうなということだ(余談だが、RADWIMPSの歌詞も基本この仕組みで書かれているよなあと思う)。
だから話には納得いかないところも多い。
・そもそもなんで帆高は地元から東京に家出してきたの?
・知らん客にビッグマックタダで出していたらそりゃ首クビになるだろ。 陽菜のモラルどこ?
・なんでマック首になったら次の手段AVなん?落差でかすぎるやろ。アホなん?
・結局あの銃は誰の銃? 警察の銃?
・なんで天気の子の人柱として陽菜が選ばれたの?
・なんで両親なくした家の凪があんな金持ち私立みたいな出で立ちなんだ? 親戚から金出てるの? だとしたら陽菜働く必要ないし……。
・なんで天気の力使ったら透明になるの?
・なんで透明になって消えてしまった陽菜が普通に雲の上にいるの?
・なんで穂高は陽菜のところにいけたのん?
覚えているだけでもこれだけの疑問が浮かぶ。小説版で補完されているところも多いんだろうけど、映画単体しか見ない人もたくさんいるわけで。なしでも作品の質に影響しないと制作陣は考えたはず。
つまり、そこじゃなくてエモーションなんだよ。
…ってことですよね?
先ほど随所随所の決め画重視の作品だと書いた。
・最初に陽菜の祈りにより晴れ間がのぞくところ
・フリーマーケットの上空が晴れるところ
・雨に包まれ光る東京のビル群
・花火の中を上空撮影のように縫って動くカメラワーク
・雲の上の世界
覚えているだけでもこれだけのシーンが浮かぶ。
そして、前作キャラとのクロスオーバー。
画とキャラで観客にサービスは十分にしている。だからエモーションはめちゃくちゃ揺さぶられる。ゆえに設定のディティールはあえて詰めなかった。
……ということだと思う。
つまり描きたい画、というのはもちろん制作陣の描きたいものでもあったろうし、観客に確実に届けられる部分でもあったのだろう。
それでは、観客に届かなくてもいい、それでも描きたいという新海監督のコアはどこにあるかというと、やはりラストになる。
「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(きみとぼく)を社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、96頁
ここで君を選ぶことで二種類のカタルシスが得られる。
ひとつは、愛の成就。
もう一つは、セカイの破壊だ。
「セカイの中心でありたいな。そのためならセカイが滅びてもいいのにな。むしろ滅びてほしいな」という鬱屈したラノベ、アニメ、ゲーム愛好者の征服慾が満たされるのがセカイ系のミソである。
それが今回見事に成就したわけで、『キミの名は』より『天気の子』が好きなんていっていうのはほとんど破壊願望の吐露でっせ。それを実現するバジェットはでかければでかいほどまさに現実とリンクするわけで、その意味で今回『君の名は』の次の作品で解放した新海監督は現状邦画界最大のハカイシャ(ⓒクローバーフィールド)なのである。新海あっぱれとか俺は好きだとか言っている人はその大人になってもアノ気持ちを持ち続ける気骨にベットしてるんだと思います。