20200913_昨日の俺の空間と利己的な寄付
まごうことなき休日を過ごした。
ケーキも食べたしカフェにも行った。
飯を食って公園のほとりを散歩。
夜にはYOUTUBEを撮影。
仕事は全然進まなかった。
──でも、昨日の俺はえらい。
やらなくても死にはしない仕事に耽溺するのははっきり言って心の弱さゆえだ。
死ぬか生きるかで生きるべきだ。
常に経帷子着たつもりで……。
といいつつ、締め切りには間に合わせるのが仁義である。
やれよ、今日の俺。
昨日の俺はズルい!
今日の俺が抗議の声を上げる。
その声は封殺して話は進む。
なぜなら、このページは「昨日の俺の空間」だからだ。
嫁はんはこっそりとnoteを書いているらしい。
ひっそりと、年に3本ほどしたためているとのこと。
俺の好みではないが、確実にある種の文章が書ける人だと思う。
「何か」になれるよ。
その何かが俺の好みと合致するとは限らないけれど。
昨日の夜は『ハイパーハードボイルドグルメレポート』の「炭焼き村」の回と『千原ジュニアの座王』を見た。
そろそろ乏しい俺の年収の1割くらいは寄付するルールを設けた方が良いんじゃないかと思う。
正直もったいねー、しょうらい金ないとき後悔するやろ?という声もあるのだが、意外に人生を豊かにする可能性も高いと俺は考え始めている。
生殖や仲間意識や上昇志向ではなく、利己的な思想で生きている人間には、自分が自分の思う正当な人間であるという実感くらいしか支柱になるものはない。
それをいくらかで贖えるのならかなりお得な買い物の気もする。
座王は西田が勝ちすぎてつまらないと嫁が行っていた。
同感である。正直これまでのプロップスで西田が有利に傾いている。
ここは、何か流れを引き戻す強いルールや審判、もしくは西田はフリースタイルダンジョンで言うラスボスの地位に据えるなどの対処が必要だろうと思う。
20200912_クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者
クレヨンしんちゃんの映画を2つも見た。
ひとつは劇場で、ひとつはテレビで。
評判のよさを聞きつけて見に行った。
それと、コンセプトフェチなので。
(というか大雑把にしか作品を楽しめない)子供向け映画で落書きをテーマにして、それを動かすというのはめちゃくちゃいいアイディアだと思う。
昨今の子供向け映画でしばしば落書きや子供たちの写真が主題歌とともにうねうね動き回るOPというのはあったが、それ自体を映画に利用しちゃえばいいんじゃないの?というのは発想として美しいし、効果も見込まれる。
視聴者の子どもたちは自分の絵が大好きなしんちゃんの中で動き回っているのでうれしいし、
大人たちは新しいコンセプトに挑戦しつつ、創造性を子どもたちにある種助けられて新規なものを作ることができるし、
我々大人の視聴者も子供の絵が見れてうれしい。
三方よしである。という期待満載で見に行ったので、予想を超えることはなかった。
でもしっかり及第点の出来だったと思う。でも、各所で言われていることではあるけどやっぱり登場人物が多いんだよな~。
ユウマも唐突に出てきたうえに性格的には素体の風間君といった感じであんまり特筆すべき魅力がない。
とはいえヤダみが一切ない男の子だったので物語上のストレスにならない点は好感が持てたのだけれど。一方ヤダみを一身に背負うブリブリざえもんは、ボケキャラとして正直言ってしんのすけと食い合ってしまうのが問題だった。一日飯を食わず、素直に言うことに従って、ななこおねいさんのひいきもせずみんなを救おうとするって、ちょっとしんちゃんいい子すぎないか?
勝手で自由なハチャメチャ5歳児=しんちゃんだからこそ、嵐を呼ぶ勇者たりえると思うのだが、これではただの勇者である。
そういえば、ボーちゃんが選ばれず、しんちゃんが勇者に選ばれたのも根拠がない。それはそういうものと言われればそれまでだが、めんたいこを書いたしんちゃんと石を活写していたボーちゃんならボーちゃんの落書きの方が自由じゃない?
ボーちゃんが好きなので、しんのすけの引き立て役としてのみ利用されたのには納得がいかない。また、水にぬれるの基準があいまいなのが気になった。
涙、カレー、汗…。
キャッチコピーを見て初めて気づいたけど、そういえばクレヨンは「クレヨンしんちゃん」というタイトルにもかかっていたのだな。
そういう意味でも目の付け所が圧倒的に良い。
ただ、上記のポイントに加えて、設定については大いに気になるところがある。
今回の話、つきつめれば「春日部という街」がやばいというだけの話なのだ。
ラクガキングダムが落ちてきて起こる被害は、キングダムの民と春日部という街の崩落であり、すくなくとも直接的には人命被害については言及されない。
むしろ、現場に残ってクレヨンで奇跡を起こそうとする方が人命に対するリスクは大きい。
そこを賭しても「春日部の街」を守るというのなら、それ相応のロジックが必要だっただろう。
富士のふもとから帰ってくるパートを描いている場合じゃないのだ。
家に帰ってきてからは、公開日に合わせて放映されていた『クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜』を見た。
こちらが面白かった。
完全に大人向けの話だけど。
次の映画で監督交代だから好き勝手やったのだろうか。
ちょっとみさえが「女」すぎてクレヨンしんちゃんじゃねえだろ!とは思ったけど、それを賭してもやりたいことだったし、そういう志で『オトナ帝国』はうまれたのだからそれでいいのだ。
20200911_視座が上がると昔の俺が顔を出す
仕事を受けすぎてる気がしてウケんね。
と、己からほど遠い窪塚洋介みたいなセリフを書いてみる。
いや、窪塚は仕事を受けすぎる状態から最も遠い人間だ。
ただの変な口調の俺だ。
とりあえず資料の本を読み終えたので記事に手を付ける。
記憶が鮮明なうちに書いてしまった方がいい。
自分の脳みその短期記憶というメモを一番に信用すべきで、物理的なメモは実のところその補助装置にしかなりえない。
脳みそに直接文字は書きつけられないし、暗記パンもこの世に存在しないから僕らは手帳を手に取るだけだ。
じっと手を見る。
なかなか記事は進む。
なんかもう、正確性とかそういうことではない気がしてきた。
ライター駆け出しの時はとにかく“面白い表現”とか”独特のレトリック”とかは悪もしくは灰汁だと教わる。
とにかく正確であることが重要である。
間違ったことを書いた面白い記事を書いて許されるのは土屋賢二と東海林さだおだけだ(そんなことはないが、要するにヒトカドの人物でなけれならない)。
だから、面白さはある種排除、していたのだが。
はたときづく。
面白くないと価値がない。
難しい問題だ。
強くなければ生きていけないが優しくなければ生きる資格がないbyレイモンド・チャンドラーみたいなものかもしれない。
ありがちな盲を説くために極端なものを与えられるが、それはやはり極端で、どこかで功夫を積むことで視座が上がり、以前の自分が求めて手に入れられなかったものに手を伸ばす必要が生じる。
「守ってね」ぶりっこだった。
あのころの小林よしのりは面白かった。
今はしらんし、正確にはあの頃もシラン。
ミセスについてプレゼンだ。
20200910_布団に寝られる
Web会議を二発やった。
セックスみたいに言ってやる。
朝から「なんだか頭が痛いんだ」状態だった。
積み上げた布団の間に頭を挟んで普段自分が体重を預けているものの重みを全身で感じる。
落ちつく。
俺は、布団の上で寝るより布団に上で寝られた方が落ち着くのだ。
生来の敷布団である。
13:30からWeb会議を予定していた。その後、15:00からも。
億劫な仕事はまとめてしまった方が良い。
俺は、人と顔を合わせるのが大嫌いだ。
みんな嫌いじゃないかと思っていたのだけれど、どうやら違うということが世間知を獲得するにつれてわかってきた。
おいおい、俺は人間嫌いの森のゴブリンかよ!
そう考えても、ひとり。
ああ、心地よいひとり。
──13:30
頭の上に鎮座する布団をはねのけ、mtgに出る。
いつもWeb会議では、カメラに写ってから自分のかみの乱れに驚き少し直す。
身だしなみになぜ気が向かないのだろうかと思っていたが、俺は自分を見る自分の視点を一切持たないのだ。
俺が人を見るだけ。観察するだけ。覗くだけ。
人からよもや日々睥睨され価値を図られ何かを与え与えられているとは思いもしていないのである。
まるで生まれたての赤ん坊のようではないか。
……そうでもないか。
mtgはつつがなく進んだ。
ものすごく活舌の悪い人が積極的にしゃべったのでびっくりした。
その人は取材にもっ積極的である。
俺は見る視線。
─15:00
もうひとつのmtgへ。
こことは以前取引していて、なかなか苦労させられた覚えがある。
面倒ごとは避けたいものだ。
軽く吹っ掛けて、ある程度のところにディスカウントした。
でもそもそもこことそんなに取引したい思いがなかったのだからディスカウントに応じることもなかったかもしれない。
俺は金が欲しいが、面倒は避けたいし、もっとうまくもうけられる方法を自ら忌避してしまっている気がする。
──夜
一度家を出て少し仕事に興じて、眠る。
『青くて痛くて脆い』を見ようかと思ったが、予告編で満足してネタバレを見てしまった。
20200909_恥
日々のルーティンが面倒になっている。
しかし、面倒なときは心を殺してただ続ける野田。
継続こそが価値なのだ。
毎日おんなじこと言うてんな。
昨日も『透明人間』を見ようと家を飛び出して、結局見なかった。
観ずに仕事をした。
それでいいのだ。
俺は仕事が好きではないが、仕事を消化せざるにはいられない。
得する機会を逃す気はない。
夕飯はカレー。
それに牛乳と野菜スティック。
忙しいがゆえにちょっと小説読むのも楽しめるわけで、いいじゃん。
昨日は千代女と恥を読んだ。
とにかく「恥ずかしい」という気持ちは人生を曲げてくる。
曲がった人生は曲がったキュウリのようで見ていて気持ちがいいけれど、売れない。
なんか、自分の打ち込んだ内容に自分で酔うことをだんだんためらわなくなってるな。
毎日やることで、人はちょっとずつ傾向に従って、坂道を転げ落ちるように変わっていく。
よかれあしかれそうだ。
よしかれよ。
今日はウェブ会議が二回。
面倒だが、断らん。それは恥をかきたくないからか?
そうじゃないんだけど。。。
なんか惜しいのだ。
20200908_人生はパチンコ
やってられるかやってられないで言ったらやってられるんだけど、どうにも攻撃的な気分だ。
どう考えてもほぼベストな時間の使い方ができているし、朝はなかなか早く起きているし、余計なことにリソースを割いてもいないのに成果物は大して生まれていない。
ベストを尽くせば何でもできるさ、俺はやり方がへたくそなだけと考えてやってきたが、天井が見えてきているのかもしれない。
といいつつ、ベスト(と思える方法)を捨ててやるべきことなど何もない。
粛々と続けるだけである。
そして確変を待つ。
そう思えば、人生などパチンコのようなものだ。
俺は色んな台でちょっとずつ打つという超絶効率の悪いことをしているのだが、一つの台にずっと座っていたとして、それは退屈なことだし大当たりが来るかどうかもわからない。
でもそれも、いいわけなのかな。
わからなくなってきている。
でも、それでいいのだ。
ともかく現状は認めなければならない。
肯定ではない。あるということを認めることが大事である。
映画『透明人間』を見に行きたいと思って家を出て、ドトールで仕事に少し手を付けるうちに見る気をなくす、という行為を2日続けている。
これが、忙しくて見る場合じゃない状態なのか、実質『透明人間』を見たい気持ちが仕事をしたい気持ちを下回っているのかが判然としない。
俺は仕事を下に見ている。
正直今の生活に不自由しない状態で仕事にあくせくしてひーひーいうのは本質を見失っており、非常に滑稽だと思っている。
しかし、舞い込んできたものは受けてしまうし、ある程度好条件なのに断ると罰が当たり、将来的に後悔するのではないかという不安の虫が湧いてしまうのだ。
将来なんてあるかないのかわからないのにね。
太宰のきりぎりすを読んだ。
梨泰院クラスを見た。
20200907_不定形・液体
眠気がありつつもやる気を維持できたいい一日だったと思う。
結局仕事進めねばならんし、やりたいことはやるべきで、“やりたいことっぽいやりたくないこと”はやるべきではない。
自分の気持ちがいまいちよくわからないので、ついつい“やりたいことっぽいやりたくないこと”に手を出して”やりたいことをやったという実感”をカンフル剤的に注入したくなるが、“やりたいことっぽいやりたくないこと”はすべきでない。
といいつつ気持ちは不定形。
今日も”やりたいこと”はわからない。
とりあえず金を稼いだのは良かった。
先方の提案と俺の適当に字数埋める技術が合致してむしろ記事を書きあげるスピードは上がったと思う。
俺はアンチプライドである。
プライドを持って作ったものが良いものになるなんて全く信じていない。
良いものが良いものになるだけだ。
理屈と膏薬はどこにでもひっつくので、だいたいの因果関係は半分的を射ているが、半分間違っている。そしてその結果は状況によって変わる。
ペットボトルの中の液体である。
理屈は液体だ、いくらでも形を変える、ピューウ。
夜はWeb会議。
俺以外の人の方がその分野に関しては専門的な知識を持っていると思われるのだが、何となくライターとして未知に先鞭をつける技術だけでうまく乗り切った気がする。
結局あまりに専門的な技術は言葉をつくしてつくしてつくさないと伝わらないので、会話ベースや少ない文字数でのやり取りではその神髄は伝えられない。
神髄を身に着けたいが、今はまだやることやる段階だ。
やることやって、金を稼ぐのだ。