裸で独りぼっち

マジの日記

20200821_2分の1の魔法

原稿を3本も終わらしてやったぜ。

 

そして、ディズニー/ピクサーの最新作『2分の1の魔法』を見た。

2分の1の魔法

ピクサーにしてはまあ普通。
発想は面白いけど結構粗がある設定でもある。
最近のディズニー/ピクサーの傾向として脱いいこちゃんというか、イルミネーションやドリームワークスの空気を取り入れようとしているのかなと思った。端的に若返ろうとしているというか。
『アナ雪2』のクリストフによる洋楽PVパロとか、今回でいうとグウィネヴィアの特攻シーンの無駄にヒロイックにすることで笑いを誘う演出とか。

エルフやゴブリン、妖精は普通にいるもののみんな科学に頼っている世界という設定はとても面白い。そこの世界観を見せるのが本作の魅せどころだと思う。野良ユニコーンとか、暴走族妖精とか、いいよね。

ただ、やっぱりなかなか無理のある設定でもあるぞ、と。
なにせほぼ一日で主人公イアンが最強の魔法まで身に着けてしまうのである。
科学はいいなあ魔法は大変だなんて言って魔法をみんな身につけたそうだが、魔法十分便利やんけ。イアンにものすごい才能があったということかもしれないが、そんなに唯一無二の天才の物語なら兄バーリーとの「2分の1」の対比も崩れてしまうし、我々が自分を重ねることもできなくなってしまう。
妖精も飛ぶことを思い出すし、マンティコアのコーリーは往時の気持ちをイアンの言葉で取り戻して店を焼いちゃうし、どうも魔法を忘れるってそんなしょぼいレベルでのことだったの?と疑問に思って悲しくなって泣いてしまいました。
ほんまは泣いてないけど。

人間がかつて持っていたはずの野生のカンとか体力、発想力が魔法のメタファーならば、あんなに簡単に取り戻せるものではないよね。
でもその路線の方が絶対深みがあるしそう読み取られると思う。

毎回なんらかの映像的な凄みを見せてくるピクサー。今回は煙の表現だった。呪いのシーンはこれまでに感じたほどではないもののまだ映像的な驚きが、劇場で見るべき工夫があるなと感じた。

エンドロールは結構詰まんなかった。
吹き替えでは、春菜がちょっと違和感というか「春菜やんw」感がつよかったなー。普段はこう思うこともないんだけど。おそらくあのお母さんのもともとのキャラ自体が変わった喋り方の演技になっているのではないか。そこに合わせようとして齟齬が生じている感が。
あと、今回文字を書くシーンが多かったが、やっぱり手書き感が少し薄くて覚める。あそこをもうちょっと完璧に置き換える技術は持ち込めないんんか。天下のディズニー/ピクサーなんやで。

全力少年がエンディングの意味もいまいちよく分からなかったけど、まあそれは日本版テーマソングの宿命である。

最終的にイアンが○○という展開はなかなか踏み切った勇気ある演出だし、そのせいで消化不良感もあるんだけど、それでもおしゃれでいかすと思う。

 こんなにしたり文で語っているが、特にディズニー/ピクサー通というわけではない。

WALL・Eとか、インクレディブルファミリーとか、カーズシリーズとか、見たことがない作品もたくさんある。

見ていない中での感想である。

でもおおむね世間一般の反応と変わりないのではないだろうか。

 

映画をよく見ていればまあ穏当なところに落ち着いたなーと思うだろうし普段見つけていなければすげー面白い!となるだろう。

俺は高校の時に見た『サマーウォーズ』がそうだった。

当時はこんな面白い映画はないねと思ったものだ(遠い目)。

 

アニメーション映画はこともがたくさん見に来ていて心の保養になる。

ある女の子は「2分の1の魔法は怖い! ドラえもんの方がいい」としきりに言っていた。

「これで怖いのか~」とほほえましくなった。

俺はだんだん自分がいいパパになれるという自信がついてきている。

屋っと大人になってきたかもしれない。

ただ、まだ別に何の種も仕込んでいない。

 

マックが食べに行きたいとふんわり思っているのだけれどちょうどいいところに店舗がない。

車に乗って食べに行くほどではないと思ってしまう。

バブー。

 

20200815_アングスト/不安

『アングスト/不安』を見た。

アングスト/不安

まあまあだった。観客が嘔吐したとか鑑賞料金の返金を求めたっていうのは時代のせいもあるし誇張もあるのでは。

なんとなーく印象に残ったのは「犯人は精神上問題ないとされ、実刑が下された」というくだり。明らかに精神障害・知的障害がある犯人の行動といい、精神治療をしっかり受刑者に受けさせることは大事だよーという主張があるのではないかと思った。

犯人は刑務所を出る際「更生などしていない」的な話をするしな。

人間の暴力性をどうするか、という話でいうと先日見た『許された子供たち』もそうだったなと思いだす。
あの話はいじめの話でもあるし子どもの話でもあるので性的倒錯とか滑稽さとかは排除されていた。
こちらはその部分がキモだ。ある意味大人バージョンといえるかもしれない。

元となった事件では猫が殺されたらしいが、本作では犯人は犬を引き連れ、しまいには餌までやることになる。
それは犯人が人間よりもむしろ犬に近いという表現ではないか。人間がオオカミを家畜化した犬だが、時折噛みついて危害を加えることもある。凶暴性を持つ犬種も存在する。
今回にあたってつけられたAngst(アングスト)はドイツ語で不安・恐れを指す女性名詞だ。
犯人は身の毛もよだつ犯行に身をやつしながらなんども「怖い……!」という。
犯人は犬である。人間を怖がっている。
犯人はサディストである。性的倒錯に溺れている。
その二つが、両立している。極端な接写で。

 面白いと思わせるより、監督が取ることに酔っている(それで私財を失ったが、CMの巨匠として取り返したらしい)。

ただ、その酔いこそがこの作品を特異なものにしているので、悪いことではない。

 

ほかのトピックとしては、仕事を2本終わらし、嫁班とパンを食った。

やれると思えばやれるものである。

マンガも読んだ。

・トリコ15~18巻

・闇麻のマミヤ1巻

今際の国のアリス1~3巻

チェンソーマン8巻

 

今際の国のアリスはデスゲームスレでやたらと評判が高いが、なんか、インディーズ間にイマイチ乗れない。

俺はたたかれがちなリアルアカウントが好きだった。

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20200812_サイコ

胸が痛い一日だった。

ときどきこういうことはあったのだが、今日は特に痛くてしんどい。

狭心症じゃないのか……と不安になってきたので病院に足を運ぶ。

 

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結果としては、全然違うかった。

心電図もレントゲンも問題なし。

しっかりとした分厚い体である。

でも、なんだか胸の間がピンポイントでいたいのだ。

肋間神経痛の可能性を示され、痛み止めももらわずに帰る。

それでも違和感は消えない。

 

そうだ、ラーメンを食べよう。

その足でときどきいく半分居酒屋半分ラーメン屋の店へ向かった。

うまいうまいと食いほした。

しかし、食道と胃袋に違和感が。

 

ドトールに入ってほどなくして、トイレで結構吐いてしまった。

最近脂っこいものを食うとこうだ。

胸の痛みも逆流性食道炎のせいなのかもしれない。

身体に軋みが来ている。

こちらの方を病院で見てもらうべきだったなと思いながらサイコを視聴した。

サイコ

 

思ったより変な構成の話だった。
前半でマリオンの4万ドル泥棒を描き、警察官に見つかるまでのハラハラを見せたところで、「なるほどあの警官がなんかサイコなやつなのかな…」と思ったら二度と出てはこない。
代わりにの後止まったモーテルの主人がサイコ。
しかみ、結構ボリュームを持って描かれるのが殺した後の後始末。
そのあとの癪が足りなかったのか、殺すときの描写がやや雑になってくる。
あんな岩で頭ゴチンしたくらいで男が倒れるかね。
そして倒れた男を放置して女を探しにやってくるかね。
特殊メイクや人工皮膚はサスペンスの演出にものすごく貢献してきたんだなあと気づかされた。

しかし、見た目は全く同じなのに「老女の声」だけが聞こえてくるという気味の悪さはいまだにユニークだった。
ほかにも「声」の演出にほかの映画との大きな違いを感じる。
麻里門が車を運転しているときのボイスオーバーでほかの場所の状況を描くとか、よくよく考えると超能力で声をキャッチしてるみたいでちょっと変なのだが、状況説明としてはかなりすっきりするし、話の流れも最短で伝わるので全然意味は伝わる。
これがスタンダードですよと何食わぬ顔をすれば、全然今のインディー映画で使ってもいいのではないか。

犯人の心理分析、そして落ちの「あの人、虫も殺せない」でベイツ親子の顔が重ねられるところも切れ味抜群、ラストカットが沈められた車を引き揚げる画というのも今では考えられず、面白かった。
車を沈めるシーンを気に入っているのか、ヒッチコックは。
一回目もやたら執拗に描いていたし。
しかしそのおかげで2回目は川のほとりに立っているというだけで「起こったこと」が伝わるという名ストーリーテリングでもあった。

 奈良に西湖という中華料理屋がある。

西湖とサイコではおおちがいですな。はっはっは。

これが遺言になったらイヤだなあ。

20200808_カセットテープダイアリーズ

朝から『カセットテープダイアリーズ』をみた。

カセットテープ・ダイアリーズ

だいぶ良かった。
ずーっと歓びにあふれているので見ていて気持ちがいい。
話の落としどころは「まあそこしかないでしょうね」というところに落ち着いたが、それでいい、ストレートに万人におすすめできる快作だ。

そういう意味で一昨日見た『サンダーロード』がB.スプリングスティーンの現実へのメッセージをオフビートに描いたB面、本作がストレートに描いたA面といえるかも。

B.スプリングスティーンについては全然知らなかった。きいてみて「ああ、Born in the USAはきいたことあんな」くらい。2作見ての印象といえば日本で言えば長渕的な立ち位置なのかなと。
一見、マッチョなイメージがありながら一貫して弱さ・苦しみ・しがらみとそこからの「心」の脱却を歌っている点が似ているように思う。

イギリスでの90年代のパキスタン人の立ち位置やムスリム的厳格さと自由を求める若者の対立といたモチーフに関しては、パキスタン移民二世のコメディアンと白人女性のロマコメ『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』と共通している。また、『ボヘミアンラプソディ』でも「パキ」という蔑称は使われていた。

その、現代日本ではちょっと想像もつかないような家・宗教の堅牢さが、そこからの逃避を描く映画の舞台建てとしてとても魅力的なのだろう。

中盤、どんどんB.スプリングスティーンにかぶれた主人公が調子に乗ってどこでも歌い出すミュージカル的シーンは半ば主人公の心象風景なのだろうが、すごく共感性羞恥を覚えた。
カブれてんなー感がすごい。

劇場の暗闇で身もだえしていると、きちんと後半2分の一で冷や水をかけてくれたので安心した。シンセが未来だということを否定しなくていいし、街で構わず歌い踊るのは迷惑だ。

とはいえそのような実は「ずれてる行い」さえも音楽とともに、主人公の目線で語られるので、とにかく常に歓びにあふれている。映画には主人公を痛めつける喜びもあるが、やはり原初的な脳内ドーパミンがドッバーの気持ちよさを追体験する歓びにはなにものも代えがたい。
そりゃまなじりに涙も浮かぶというものである。

あえて気になった点を一つ上げるなら、主人公の彼女イライザの両親が娘と逆に保守・排斥的だという点が別に解決されず終わったことだ。実話をもとにしているんだからしょうがないんだけど、結局イライザとは今後分かれてしまうんだろうなーという予感も感じられて一抹の悲しさが快哉の中に混じる。

でも、それが青春の苦みでもある。

 予想通りいい映画だった。

ベタすぎ!という批判意見があるがそこでいやんなっちゃうほど俺はまだ映画を見ていない。

それにこれとまったく同じような映画だってないだろう。

やっぱり展開の大筋はあるものの魅力的でユニークなモチーフがあるはずだ。

 

 

20200807_サンダーロード

狂い咲きでなく。

以下、レビュー。

サンダーロード

いわゆるオフビートな映画。
わかりやすいものが好きなので個人的には苦手な分野。
しかし、なぜか嫌いにもなれない。

主人公ジェームスが事情があるにせよ、葬式で踊り出すような男で、ちょっと狂人にしかずっとみえないので親権を失いそうになってもそりゃそうだわなとしか思えない。
このように現実におけるファンタジーの部分をそれはそれとして、とおいとけないものにはキツイ映画だ。

しかし、ジェームスやクリスタル(娘)の演技力が高いのか、人の魅力は存分に出ていた。そこがまだ見ていられた理由かな。

ジェームスは失読症で、癇癪持ちで、話がへたくそで空気が読めない。
まじでできないやつが主人公だと、できないやつが頑張る系の映画が好きなはずの俺だがなぜかイラついてしまう。
でも、これがリアルなできないやつかもしれない。
娘はその対比としてかなりしっかり者に見えたが、学校ではクラス落ちを命じられるほどの問題児だという。
好意的にとらえれば人には映画で描かれる以上の顔があるという話だが。
どうか。

カセットテープ・ダイアリーズといい、ブルーススプリングスティーンをキーにした映画が多いのは何か理由があるの?

スノッブでかみ合わないやり取りを楽しむ趣味はあまりない俺だが、このようにモチーフだけでそれなりに楽しんだ。

 ほかのFilmarksの感想を見るとどんどん悲惨なことばかり起こる、悲しいみたいな意見が多いのだが、俺はそんなに悲惨だとは思わなかった。

そもそも、娘とどのくらいの頻度しか会えないのかわからないし、警察官の仕事だってあの一存で完全に首なのかわからないからだ。

さらにこれまで警官として数々の表彰を受けていたとはいえ、最近は署長と折り合いが悪く冷遇を受けていたのだから別にほかの仕事やってもよくない?と思う。

 

オチを言ってしまうと結局娘と暮らせるようになり、さらに娘もパパに手遊びを提案するほどなついているのだからそれでいいじゃんという感じがあるのだ。

母の遺産も受け取れたし、姉は裕福そうだった。

娘にバレエをやらせるには金がかかるだろうが、それを人生の目標にスーパーの警備員でもして第二の人生頑張りなさいよ、と思う。

 

主人公が障害を抱えていて娘を奪われそうになる、というストーリーから『アイ・アム・サム』を思い浮かべて劇場に足を運んだのだが、そもそも世界自体がちょっとコメディ仕様でスノッブだったのでもうこれずるい…泣いちゃう!みたいな感動はなかった。

でも、それがおしゃれなインディペンデント映画感にもつながっていると思う。

20200803_許された子どもたち

月曜。

結局フリーランスであっても仕事を振ってくるのは企業なので、そちらの暦に都合を合わせることになる。

今日は1本ウェブ会議があった。

以前は会議があるとなると送れるなんて考えられず、家でずっといるスケジュールを組んでいたりもしたのだが、現在はそこに手綱を握られることはなくなった。

俺はフリーランスなのだ。勝手な人間でなければならない。

勝手をやらないのもまた自分の利益となる場合のみである。

まあだいたい勝手をやらない方が自分の利益になるのだが。

過剰な配慮は敵である。

 

というわけで、映画を見に行った。

『許された子どもたち』。

許された子どもたち

 

なるほどこれは、「いじめ」映画ではなく「暴力性」映画なんだなーと、また、内藤監督は結構明確に反少年法的な主張を持っているのではないかなー、と思った。

前者について。
そもそも冒頭のシーンからして、いじめシーンではない(グリムに対する軽いいじめはあったがそこは主眼ではない)。田舎にありがちな創作案山子をとにかく衝動のままに主人公キラ一味が破壊するシーンである。

で、ついにそのことが起こる殺人も、いじめ殺人というよりはまさに殺人だ。川に飛び込ませるとか、マットでくるむとか、そういう醜い「遊び」の果てに事故的に死が訪れてしまうのがいじめ殺人というものだと思うのだが、今作ではキラがかなり明確に意思を持って(まさに)引き金をひき、そしてクラスメイトを殺してしまう。さらに証拠も隠ぺいするなどしっかり殺人といって過言でない。

本来いじめを描くなら冒頭のシーンは殺された子を学校でいじめるシーンであるべきだ。いじめの残酷性は子どもたちにとって逃れえない世界──学校で常にやられる側ーやる側という関係がある、そしてそこに行かなければならない(と子供たちは思っている)ことにあるのだから。

詐称と工作で罪を逃れたキラだが、引っ越しを余儀なくされ、生活は崩壊していく。そこでもクラスメイトの歪んだ正義感で素性を暴かれ、いじめられている少女桃子との出会いで謝罪に行くが、やはり罪と向き合えず、暴力に走る。

という流れ。正直引っ越してからの話はリアリティがない。なんだあのボクサー小学生は。「ぼぉくが、君を裁いてやるよ!」なんてクラスで大上段に発って殺人少年を追い詰めようとする優等生もどきもいないだろ!先生は全然クラスの手綱握れてないし。また、キラ一家の生活が貧しくなったといいつつも、カラオケやパンケーキ、腹筋マシーンに将棋といった娯楽を常に楽しめているのも気になった。父親にも逃げられ、仕事も失ったのだからもっと生活の端々に貧しさが表れてもいいはずだ。
借金してまで欲に溺れてしまう、そういう家なんだよという話なら、その描写はやっぱりほしかったよなあ。
…でも、引っ越し前の法廷描写にリアリティがあったかというと……。さすがに裁判所があそこまで被害者に冷たいことあるか?

このようなウソっぽい部分と対峙してずーっとあり続けるのがキラの暴力性だ。廃墟で自らの殺人道具である割りばしボウガンを作り、謝罪のために自ら被害者宅へ伺ったにもかかわらず犯行現場の花々を荒らす。またキラの母にはネット民の暴力が振るわれる(余談だが、ネット描写もかなり気になった。今時ニコニコ・にちゃん的なネット民描写はどう考えてもダサい)。暴力性を制御できないのだ。

つきつめると、更生とはなにかね? という話に収れんすると思う。人間は生まれながらに暴力性を持っていて、それには個人差が存在するものの全員が有している。それをこうやって暴力的な映画を見たりひとりごとで汚いコトバをつぶやいたりして発散できるものもいれば、行動に移さなければ気が済まないものもいる。もしも人を殺した人間が罪悪感に苛まれる時があっても、その暴力性は消えない。ただ、今は鳴りを潜めているだけである。そのコントロール方法を覚えさせるのが更生施設なのだろうが、果たしてその役割を十分に果たせているだろうか?
エンディング前、キラは饒舌にシュールな夢の話を語り、赤ちゃんに笑いかける。人間は、一様に殺人犯/いい人、と分けられるわけではない。だからこそ、更生は途方もなく見極めがたい。

だから、目には目を、人を殺したら死刑に処すべきだと思います、という正義モドキクラスメイトの主張自体にはやはり制作陣は説得力を感じているのではないかなと思った(勝手な憶測)。でもそれをまっすぐ主張するほど割り切れているわけでもないからあそこまでキャラクター的な配役に言わせたというか。。

ともかくずっと緊張感があって起き抜けに眠い頭が覚めたのは確かだった。
また主人公キラやその母を演じた役者人は本当に勇気があるなと思う。

 大筋には感銘を受けつつもディティールをかなり悪く言っている。

しかし、公式サイトの対談動画やディスカバリーシネマのライムスター宇多丸との対談などを見ると、内藤監督はそもそも障害児学級を担当する教師であり、また法廷の描写などについてもかなり取材をしたうえで、それでも中は見せてもらえないという中で資料を書いたということが分かった。

もちろんそれでも露悪が過ぎると思うし俺の読みも的外れではないと思っている。

ただ、自分の中の「公正世界仮説」が邪魔をしているかもしれないな、とも感じた。

俺は基本的に世の中は5:5でバランスが取れていると考えている。

いかなる失態を俺が犯したとしても、またいかなる被害を俺が被ったとしても半分は俺に責任があり、半分は世界もしくは他者に責任がある。

そのバランス理論からして、本作品の描写は明らかにバランスが加害者に偏っていると感じたのだ。

しかし、監督の弁によると最初は加害者家族・被害者家族を5:5で描く脚本だったらしい。

そこを結局何が書きたいんですか?とプロデューサーに尋ねられて加害者家族に焦点を当てることになったとのことだ。

たしかに、俺の言うような「バランス」重視の脚本では結局お題目のような作品、ただ形が整っているだけで一見の価値を感じさせない映画になり果てていたかもしれない。

とはいえ、その歪さを批判的に描いたって言いだろう。

だって、俺はただの観客なんだから。

『ハッピー・デス・デイ』83点 90年代生まれ向けゲーム的リアリズムホラー ※ネタバレ

Filmarks 感想

スカッとするホラーが見たくて。
とにかく裏をかく、という点に注力した作品。

ビッチの主人公で、ループ攻略もので、そのループそれぞれの展開も定石を踏んでいない。
先を予想させない、という点ではここ数年見た作品の中でもトップだった。
例えばツリーの2周目、友達の彼氏がダマで襲ってくるという展開、2回も3回も実は犯人と思わせてフリでした!で予想もつけず犯人が出てくる。

セーフと思いきや…攻略できてなかった!もしつこいくらいにある。カーターがいたずらしかけてくるとかもうキャラ逸脱している。

そう、意外性のために整合性やキャラクター性をよく考えたら無視してないかという部分も少なくない。でも、最低限のラインを押さえている。

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Story

主人公ツリーは鈍痛とともに目覚めた。「今日は誕生日~。絶対に電話になんて出ない~」。目覚ましの音声が鳴り響いている。現場はカーターというサエない同級生の部屋。いかなきゃ!部屋を飛び出し、家に帰る。お昼は反炭水化物で連帯したイケてる女子たちの会合があるのだ。同室のロリが誕生日ケーキをつくってくれたがそれに手もつけず、飛び出す!夜はパーティへ。と、道に不気味なオルゴールが。そして背後にはマスク姿の殺人鬼が。ツリーはあえなく首をぶっ刺される――と鈍痛とともに目覚めた。「今日は誕生日~。絶対に電話になんて出ない~」。

一日が繰り返している…!

ヒップホップ的感覚とちょうどいいお約束 

眠かったので感想も適当になっているなあ。

盛岡フォーラムで続編と一挙公開されていたので鑑賞したのだ。

※でも結局続編はみていない。

物語の最後でメタ的に言及されるように、この映画は『恋はデジャ・ブ』(1993)を下敷きにしている。

ホラーと『恋にデジャ・ブ』をマッシュアップしたらめちゃくちゃ面白い作品ができるんじゃないか?というヒップホップ的な感覚で作られている。まさに現代のエンタメ作家的センスで構築された作品といえるだろう。

 

とはいえ、様式美から完全に脱していないのがこの映画だと思う。冒頭、ここまで予想のつかない展開の映画は今年初めてだと書いた。しかしそれは「俺」だからこそ思うことで、完全に予想外というわけではない。殺人犯を倒して一日を生き残ればゲームクリアとなり翌日を迎えることができる。

 

この話の作りとしてのお約束感とヒップホップ的感覚が俺には心地よかった。

しかし、少し世代や感覚が違えばそれがお約束的・アンフェアに感じられてしまうこともあるだろう。俺より下の世代からするとむしろ予定調和的で「古い」作品かもしれない(そもそもループものにはミレニアム以前に生まれた世代の「夢」が詰まっている気がするのだ。『う(ネタバレ)ドリーマー』『粗(ネタバレ)V』『進(ネタバレ)人』…)

 

アメリカ的あるある

キャンパスのアメリカあるあるの部分が全然、ぜんっぜんわからんかった。

あのあたりアメリカ人なら大爆笑なのか?

・ずっと立ったまま寝ずにいるパワハラ的サークルなんてものがあるのか?

アメリカの女はあんなに炭水化物を敵視してるわけ?

・ツリーに挨拶してきた自宅前のノオミラパス⇒オークワフィナみたいな女は誰だったんだ?

・そもそもツリーは何学部?医学部の教授の授業を受けてたってことは、あんなビッチでアホなのに医学部なの?どういうキャラ?

 ついでにいうとやっぱり物語上気になるご都合ポイントは多い。

・二回目以降のカーターへの説明もいちいちしてたわけ?で、それをいちいちカーターは飲み込んでたわけ?

・ループ前の記憶が徐々に残るようになったのはどういうこと?どういうルール?

・ドリンクの本数が多分残りの命ということなんだろうけど途中から描かれなくなったよね?なんで?

・なんでツリー同室の女蹴り殺してんのに家で暮らせんねん

・あの殺人鬼はなぜツリーを狙ったんだ?特に因縁ないだろ?●(真犯人)●のマインドコントロール

…たく、バカな話だよ!

でも そこらへんが俺の世代の感覚では丸ッと飲み込める気もする。

前述の通り、ループものが物語の一つの類型としてしみついているし、そういう東浩紀いうところの『ゲーム的リアリズム』にどっぷりつかって生きている世代だから。