『タリーと私の秘密の時間』 94点 子育てヒューマンミステリ
URLが[tully.jp]。そこ(そのドメインほかの何かに)取られてなかったんかい!
「わたし、ひとに頼れないの」──仕事に家事に育児と、何ごとも完璧にこなしてきたマーロだが、3人目の子供が生まれて、ついに心が折れてしまう。そんな彼女のもとに、夜だけのベビーシッターがやって来る。彼女の名前はタリー、年上のマーロにタメグチで、ファッションやメイクもイマドキ女子だが、仕事ぶりはパーフェクト。荒れ放題だった家はたちまち片付き、何よりマーロが笑顔と元気を取り戻し、夫のドリューも大満足だ。さらにタリーは、マーロが一人で抱え続けてきた悩みの相談にのり、見事に解決してくれる。だが、タリーは何があっても夜明け前に姿を消し、自分の身の上は決して語らない。果たして彼女は、昼間は何をしているのか? マーロの前に現れた本当の目的とは──?
公式HPより引用
↑年上のマーロにタメグチっていうけど、英語にタメグチの概念あるのか?
その英語、タメ口だけど大丈夫?英語の敬語・丁寧語表現を使いこなそう! | DMM英会話ブログ
↑
あった(追記)。
全体の感想
『ヤング=アダルト』の監督・脚本家コンビ(ジェイソン・ライトマンとディアブロ・コーディ)の作品。
こちらも共通して扱っているのは、「大人になること」というテーマだ。
大人になると、大人にはなれないことに気づくが、私たちは大人にならなくてはならない。大人になりたいわけでもないのに。
大人になるというのが、状態でも、目的でもなく手段だと知るのがとうに大人になってしまってからだというのが、ちんこの皮をむいたり、結婚したり、バンジージャンプしたりして大人になる手段を失った僕ら現代人の不幸である。
というわけで、基本的には日常的な辛さ、子供を持つということの業の深さが物語では描かれる。
そこで、特筆したいのが
ゴミについての演出
である。
映画の序盤、成功者である兄クレイグの家を訪れたマーロは、部屋に入るなり最近の調子を問われてこう答える。
まるで、ゴミ箱に乗ってるような毎日よ
このシーン、兄も夫ドリューも義姉も、じっとしていられない息子と大きくなってきた娘、そしておなかの中の赤ちゃんを持つマローの苦労をわかっていない――わかってもらえないマローの様子が軽妙な会話劇にまぶすように描かれる。
後半、ベビーシッターのタリーに「次の人生のためにベビーシッターを辞める」と告げられたタリーはこういう。
20代は最高よ
けど――すぐに30代がゴミ収集車みたいにやってくる。
これは、予告でも使われている象徴的なセリフだ。
セリフだけではない。
赤ん坊の世話に追われるマーロの毎日で印象的に繰り返されるのがオムツを廃棄するシーンであり、夜の街に繰り出したマーロは胸が張って苦しくなり、おっぱいをクラブの便器に絞って捨てるのである。
赤ちゃんにあげるべきミルクであっても、一人の人間として生きる上では、体を濡らし、恥をかかせるbargage――ゴミ――でしかない。
残念ながらというべきか、iPhoneが発売されて10年以上がたっても、その問題は解決されず、子を成す夫婦(多くの場合妻)は負担を強いられている。
料理
そのゴミ問題に対するアンサーとして描かれているのが、料理だと思う。
料理ができるというのは、自分の人生がマネジメントできている証拠として、この作品では描かれる。
その代表が、作品中盤タリーが焼いてくれたことで子どもたちやジュノの学園の先生に配られるマフィンだ。
色とりどりのマフィンが焼けるくらいの余裕が、周りの人間に負い目を感じることなく、生きられるくらいの最低限の余地だとその描写で示されている。
また、マーロに家に訪れた際、タリーは必ずおなかを空かせている。
空腹が感じられること、それもまた、人生を生きられているかどうかのひとつの重要な指標となっているわけだ。
この物語がどのようなシーンで終わるか、ご覧になった方は覚えているだろうか。
タリーと決別し、松葉杖をつきながら野菜を刻むマロー。その傍らに夫ドリューがやってきて、2人は片耳ずつイヤホンをはめながら料理を進めていく。
俺は、このシーンが、料理というメタファーを使って、人生を切り開くひとつの手段を描いているのだと思う。
料理も、否応なくゴミが出る作業だ。野菜の皮・ヘタ、パッケージ、腐った食材の処理も必要になる。
しかし、どこまでをゴミ、どこまでを食材とするかは、多くの場合、私たちの手にゆだねられている。
皮を薄く切れば、多くの部分が食材として使えるし、刻んで揚げたりきんぴらにすれば、ゴミにはならない場合もある。パッケージも何かの器としたり、スーパーに回収してもらえばポイントになることもある。
もちろんどうしてもゴミはゴミの場合もあるし、ゴミを出さないようにした結果、手ひどい失敗をしてしまうこともある。
だけど、それはひとつの手段だ。
岡田斗司夫の『フロン』について
さて、この作品では夫ドリューは優しい人間ではあれども、マローの支えとは慣れていないことが分かった。
今までの「普通」は、子どもが生まれたら通用しない。そして、十月十日子どもを孕む間に、いや、結婚を意識しだすそのずっと前から、女はその準備を始めるが、男は変わらないまま、ずっと「普通」いしがみつくことになりがちなのだろう。
男も子どもを人生のプランに組みこむことが否応なく求められることになる。
そのモデルとなる考え方で、俺が参考にしたいのは岡田斗司夫著『フロン』の考え方だ。
80股事件以来ネット上で岡田斗司夫が好きだということは不名誉なことになっているが俺はいまだにこの本を否定する言葉を持たないので一つの指標にしたいと思っている。
岡田斗司夫が夫婦の在り方について2001年に述べたこの本。その考え方のキモとは、
「夫婦とは子どもを育てるための共同プロジェクトである」と考えることである。
妻が社長で、夫が副社長の株式会社子育て。そのなかで、任意の年齢(大学入学等)まで既定の要件に従って子どもを育て上げることが夫婦の役割なのである。
そのため、ミッションが達成されたら夫婦は離婚してもよいのだと岡田はいう。
ほかの人の性向はわからないので何とも言えないが、俺の場合、将来子を成すとして持つべきスタンスはこれしかないのではないかと思っている。
キャスト・スタッフ
監督:ジェイソン・ライトマン
脚本:ディアブロ・コディ
主演・プロデューサー:シャーリーズ・セロン
タリー:マッケンジー・デイヴィス
ジョナ:アッシャー・マイルズ・フォーリカ
…騒ぐ演技、泣く演技どちらもうまく、かわいかった。新しい学校のトイレで出てきた木のおっさんはなんだったんだ? あいつだけタリーくらい現実から遊離している。