裸で独りぼっち

マジの日記

三谷幸喜『ラヂオの時間』93点 『カメ止め』より好き

三谷幸喜の映画は言うほどやで、と映画に造詣の深い有名人であるところの

ライムスター宇多丸水道橋博士がいうので、なるほどそうなんだなと思って

三谷幸喜をただのエキセントリック眼鏡おぢさんと捉えることにしていたんだけど

実際のところラヂオの時間をみたら、面白かった。

やっぱりちゃんと作品をみないで伝聞で判断するのはよくないです。

でもこの世の作品全部をみれるわけではないので、結局のところ今後もそうしますが。

 

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ストーリー

都内随一のラジオ局、ラジオ弁天。その第一放送フロアはざわついていた。

生放送のラジオドラマ、放送まで一日を切っていながら、トラブルが続発しているのだ。

ドラマの作者、鈴木みやこ(鈴木京香)は脚本に自らの境遇を重ねている様子。

主演女優の千本のっこは後輩女優のバーター出演であることにへそを曲げ、役の名前を変えろだの職業を変えろだのと口出しをしてくる。

主演俳優の浜村錠は千本のわがままのみが通ることに不満を覚え、自分の職業もパイロットにしろだのと徐々に我を表しだし、曲付きの構成作家バッキーさんは脚本の役に入り込み過ぎて話を壊す。

そんな状況をまとめようとするプロデューサー牛島(西村雅彦)もまた、組織の中でその場しのぎの調整に甘んじることになり、ディレクター工藤(唐沢寿明)も不満を抱えつつもニヒリズムに陥っているのだった。

果たして、トラブル続きのラジオ生放送を成立させ、リスナーを感動させるものを作ることはできるのか――。

 三谷幸喜と私の最初の出会いといえば、朝日新聞木曜夕刊で掲載されているコラム『三谷幸喜のありふれた生活』であろうか。

和田誠挿画のそのエッセイは星新一愛読者の俺にとってちょっと興味を惹かれるものでありつつも、”三谷幸喜”個人に刺して興味がないため、読み進める気が起きない。

その程度の者であった。

その後、彼が著名な映画監督・脚本化であることは知り、『THE 有頂天ホテル』『マジックアワー』などの作品についてはCM等を通して名前は頭にインプットされていたのだが、結局映画がそれほど好きではなかった学生時代、見ることはなかった。

 

そして、映画をある程度見るようになった社会人時代も、『清須会議』は歴史ものに興味がなく、『ギャラクシー街道』は明らかに地雷のにおいがしたので結局見に行かなかった。

清須会議』『マジックアワー』『ステキな金縛り』などについてはちょうど聞き始めたライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルの過去回でゴリゴリに酷評されていたということもある。

 

しかし、この度Amazonプライムでなんか見ようかなと物色していたところ『ラヂオの時間』が見つかり、その評価の高さ(☆4.5)とおそらく『カメ止め』(2018)ブームに便乗してのAmazonのチョイスのお手並み拝見、という気持ちもあったもので視聴してみることにした。

その結果、存外面白かったのである。

 

何が面白かったのかというと、コメディと登場人物の背景がきっちりリンクしているところである。

主演女優のワガママで役名をメアリー・ジェーンにして舞台をNYにするなんて普通はいかれた話だが、女優がバーター契約の腹いせで嫌がらせしているとすればギリギリ納得がいくし、そこから逆算して舞台をNYにするのもありうる。

そしてそのわがままに号を煮やした相手役の俳優が自分にもわがままを言わせろというのもあり得ない話ではないし、その結果壊れた話を作家本人ではなく謎の脚本家に依頼することもありうる。

なぜそう(ありうると)感じられる課というと、ドミノ倒しのようにそれぞれの動機がつながって、成立しているからだ。

それは、伏線ではない。

むしろ、行き当たりばったりのライブ感に満ち満ちており、その場しのぎゆえにまた戻せないか相談したり、ほかの人に責任を押し付けて一番楽な選択肢に逃げたりといったこともある。

だからこそ、どんどん自体が混迷を深めることがリアリティをもって伝わるのだ。

この点、『カメ止め』の前半の違和感がすべて背景に理由のある伏線だったという構造とは大きく異なるが、だからこそシチュエーションコメディとしての出来としてはこちらに軍配が上がる。

『カメ止め』が成功した理由としてなんと言っても上映37分で映画の景色ががらりと変わるその構成の驚きがあると思うのだが、よく考えたらそれはコメディ性を薄れさせる弱点でもあるのだ。

ラヂオの時間』では実際の放送内容は丸々形となって見る(聴く)ことはできない。

断片的にトラック運転手(渡辺謙)が聴いている様子が挿入されるだけだ。

多分、実際に聞いたらこんなCMがたびたび放送されるような壊れた放送、炎上や祭りは起こるにしても人を感動させるものにはならないはずだ。

だけど、そこは断片的なものにすることで、ギリギリ嘘を成立させられている。

 

それに対し『カメラを止めるな!』では「One Cut Of The Dead」が丸々放送される。

その内容がギリギリ成立していたからこそ、みんなよくやったねと上田監督並びに作品を称賛しているのだろうが、やっぱり俺はそこが引っかかった。

「One Cut Of The Dead」、前半37分を見る限りは、ギリギリ失敗作だし、トラブルに対応したことが物語の魅力を押し上げている部分などないだろうと。

 

それに対し、『運命の女』(作中のラジオドラマ)は放送されていないので、トラック運転手が感動するような出来になったといわれてもギリギリ目をつぶれる。

正直変な部分はたびたびあって、「ADがマシンガンはシカゴというめちゃくちゃな理論で脚本をひっかきまわしたこと」とか「途中までどう考えてもへそを曲げていた千本のっこが最後にはラジオの出来に満足していたこと」とか三谷幸喜「やりやがった」と思わないでもない。

だが、そこがごまかそうとされているから、俺みたいに雑に見ると気にならないんだよな。

『カメ止め』は話を丸々放送してしまっているから、おかしな部分が目立ちやすい。『ラヂオの時間』で挙げたような「やりやがった」ポイントはほとんどないのだが、それをごまかせない構造になっているのでやっぱり少し気になってしまうのだ(小屋の前でわざとらしく斧を拾うシーンとか)。

 

あ、そうそう。最後のマクドナルドが宇宙から帰ってくるも、浜村錠がどうしても言葉を発したがらないから何度もアナウンサーが「そしてマクドナルドは走った」といわなければならないところって、『カメ止め』の屋上のシーンで、ゾンビの彼氏が秋山ゆずきに襲ってくるも、空撮のためのピラミッドが成立しないからなんども襲っては止めしなければならないとこの元ネタだよね。

上田監督、やりやがったな←。