『キングオブコメディ』93点 ロッキーとノブナガとパプキン※ネタバレ
Filmarks感想
ジョーカーをみて、翌日に視聴。
なるほど下敷きにされているなあという物語だった。スコセッシはどうしてこうまで認められず破滅に惹かれる人間の気持ちがわかるのか。
最後は現実だと思う。
ただ、みただろうか。あのルバート・パプキンの浮かない顔を。あれだけ減らず口だった彼が一言も発せずニヤニヤと聴衆に笑いを振りまくしかないさまを。
きっと未来は凋落していくだけだ。自分でいうくらいの才能はあったし、金持ちのグルーピー女と知り合えるという運もあったパプキンは「持ってる」やつだった。しかし、ずっとずっとほしかったものが手中に入ったとたんそのゾーン的チャームも失われてしまう。
その失われゆく何かを消費されるのがコメディアンだ。因果な商売だ。ショーで披露していた通り飲んだくれの両親に育てられ、学校ではボコボコにいじめられていたパプキン。その現実を改変する“元手なし”の手段は「笑い」だけ。ああ、ドーランの下に涙の喜劇人。
とどのつまり、正しい/正しくないでいうとパプキンらは明らかに正しくなく、ジェリーや刑事の方が正しい。しかし、笑いの世界では正しさなど無意味である。松本人志や太田光もいうように「最弱こそ最強」「天地がひっくり返る」のがお笑い・お道化の世界。
やっぱりすきだなあ、と思った視聴体験だった。
Story
コメディアンを志すルバート・パプキン。彼は冠番組を有するジェリー・ラングフォードに才能を認めてもらいテレビ出演ができれば道が開けると信じていた。ジェリーにネタを聞いてくれと言っても断られるパプキンは「ある手段」を取ることにする。
ラストシーンの絶頂
ラストシーンの瞬間こそが、ロバート・パプキンの人生最良の瞬間なのである。
そう考えると、ロッキー1で「エイドリアーーン」と叫ぶロッキーにパプキンは通じる。
しかし、パプキンは英雄的ではないし続編はあり得ない。彼の石を継ぐ者はいない。
なぜ、ロッキーは英雄的で、パプキンは道化的なのだろうか。
それは、彼が行ったのは犯罪であり、この世界で言う「反則」だから。
ロッキーがグローブに握りこんだ石でアポロを滅多打ちにして勝つようなものだ。
そんな勝利、続かないさ。
そう俺たち観客は思う。だが、果たしてそうかな? とまたまた疑ってしまうくらいに現実は意地悪だ。
キングオブコメディとノブナガ
キングオブコメディといえば第3回キングオブコントのチャンピオンであり、メンバーの高橋が女子高生の制服泥棒で逮捕されたコンビだ。
思えば彼らがキングオブコメディをコンビ名に冠していたのは皮肉なことである。
表に出れるような人間ではない犯罪者自分がコメディの世界でキングになる、そんな皮肉を込めてパーケンはコンビ名をつけたのではないか、とゲスの勘繰りをしたくなってしまう。
というか、これは当時さんざん行われた勘繰りだろう。
強硬手段でTVの座を狙うといえばテレビ東京の『青春学園3年C組』のレギュラーアシスタントに就任していたノブナガ。彼らはオーディションの枠を勝ち得ていないのにTwitterで直接番組に連絡を取って座を勝ち取った。
しかし岩永が機能性難聴で、信太が番組への非協力的な態度で出演を見合わせ、現在に至る。
その崩壊の様は喜劇だろうか?悲劇だろうか?
彼らがストレートに成功を勝ち得ないことは、なんとなく見えていた。
彼らにもわかっていたのではないか?
それでも挑むというのは友情・努力・勝利をモットーとするジャンプ漫画ならよくある熱い展開だが、それは先に勝利があるからだ。
勝利のみえない情熱は狂気である。
ときに狂気的な笑いに芸人はとらわれる。反社会的なことをいう、差別的な発言をする、あえて場違いな行動をとる。
それは、彼らの(私たちもかもしれない)今置かれているラットレースこそ狂気なお笑いだからだ(ラットレースというフレーズを出すと「資本家になれ!」と連呼する自己啓発本の言い草っぽいがそういう話をしているのではない。金の話ではないんだよ、畜生め)。
――笑いでもしないとやっていられない。