20200911_視座が上がると昔の俺が顔を出す
仕事を受けすぎてる気がしてウケんね。
と、己からほど遠い窪塚洋介みたいなセリフを書いてみる。
いや、窪塚は仕事を受けすぎる状態から最も遠い人間だ。
ただの変な口調の俺だ。
とりあえず資料の本を読み終えたので記事に手を付ける。
記憶が鮮明なうちに書いてしまった方がいい。
自分の脳みその短期記憶というメモを一番に信用すべきで、物理的なメモは実のところその補助装置にしかなりえない。
脳みそに直接文字は書きつけられないし、暗記パンもこの世に存在しないから僕らは手帳を手に取るだけだ。
じっと手を見る。
なかなか記事は進む。
なんかもう、正確性とかそういうことではない気がしてきた。
ライター駆け出しの時はとにかく“面白い表現”とか”独特のレトリック”とかは悪もしくは灰汁だと教わる。
とにかく正確であることが重要である。
間違ったことを書いた面白い記事を書いて許されるのは土屋賢二と東海林さだおだけだ(そんなことはないが、要するにヒトカドの人物でなけれならない)。
だから、面白さはある種排除、していたのだが。
はたときづく。
面白くないと価値がない。
難しい問題だ。
強くなければ生きていけないが優しくなければ生きる資格がないbyレイモンド・チャンドラーみたいなものかもしれない。
ありがちな盲を説くために極端なものを与えられるが、それはやはり極端で、どこかで功夫を積むことで視座が上がり、以前の自分が求めて手に入れられなかったものに手を伸ばす必要が生じる。
「守ってね」ぶりっこだった。
あのころの小林よしのりは面白かった。
今はしらんし、正確にはあの頃もシラン。
ミセスについてプレゼンだ。