裸で独りぼっち

マジの日記

『ミッシェル家とマシンの反乱』みた

昨日の文章を振り返って読むときもかった。

やっぱり(笑)なんてむやみに使うものではないのだ。

そして、きもい文章をパロディして、メタ的な視点からきもくないものだと感じさせつつきもさに笑わせる技術は俺にはないのだなと思い知らされた。

文章力にたけている、人よりあるつもりだったけれど細かい眼鏡で見たら粗や壁は簡単に目につくなあと思う。

毎日英語を翻訳していることがいつか俺の身を救うだろうか。

と、こんな風に悩みながらみんな日々を潰しているのだと思う。

 

昼ご飯にうどんを三玉も食べてしまい、案の定腹痛になった。

食べているときはうれしいばかりなのに、あとからダメージがやってくる。

のど元過ぎれば熱さ忘れるの逆バージョン。

こちらも早急にことわざにしていただきたいものである。

 

さくらももこのエッセイを久々に読み返すと、日常的な話題、性格の悪い目線と「~である」「~ものだ」という妙に文語調な語尾が相まって独特なおもしろさを醸し出していることに気づいた、のだ。

 

「ミッシェル家とマシンの反乱」「愛しているといっておくね」をみた。

ミッチェル家とマシンの反乱

クレヨンしんちゃんの映画のそんな面白くもつまらなくもないフツーの回を見た感じの感覚だった。
子供向けとしてはこれでいいのかなあとも思うし、でもコメディだからってちょっと設定ガバガバすぎだろ! という気もする。
もはや3Dアニメを一つの現実空間として捉えて、そこにさらに2Dアニメーションを足していくというのは、スパイダーバースからの流れも相まって確かにNEW ERAを感じさせる。SnapshotとかTiktokにアニメがどう対抗するか、というかその「噛んですぐ爆発」な娯楽性をどのように取り込むかに挑戦してるんだろな。
アニメーションの技術に関してそりゃ何にも言えることはないのよ。

だから俺が文句を言えるのは脚本だけになる。はっきりいってマシンが全然反乱できていない。というか、人工知能がお粗末すぎる。最後に、pal社の行く末、あのスティージョブズが個人情報をうってましたバージョンみたいな社長がどうなったかを描かない時点でそこをまじめに描く気ははなからなかったんだろうなと思うのだ。
それならさも重大なことのようにタイトルに冠さないでほしい。人間を判別する手段が目視だとか、スマホ本体を破壊したら人工知能自体が停止されるとか、ミッチェル家以外の75億人をあのスペース×何個とかで納められないだろとか、文句は枚挙にいとまがない。
結局、マシンの反乱という道具立てそれ自体がマクガフィンだったのだ。
そして、作品の中心である「家族」であるが、「変人ばかりの家族」と題している通りだから当然なんだけど、あんまり共感できない。基本的には娘とパパの歩み寄りのストーリーが中心なのだけど、普通に考えてパパが毒親すぎだろ、と思う。娘は自分で映画作りにはまって自分で生きたい大学見つけてカルアートで学び始めるのである。はっきりいって嫌味はくらいよくできすぎじゃないか。しかも、衝突が起こりそうになれば表面所にせよ歩み寄るコミュニケーション能力まで備えている。終盤、父が自分のために夢をあきらめたことを知ったミッシェルが父の陰口をたたいていたことについて「私最低だ…」というが、「ぜんぜんそんなことねえよ!」と心でつっこんだ。「心から分かり合う」ことが至上命題なら、結局作中でバカにされていた「愛の力…!」となんも変わりないだろ!大事なのは父親が早く子離れをして、自分は自分でほかに趣味の仲間を作ることである。
ただ、エンドロールを見る限り、監督の家族をモデルにしたっぽい。要するに自分史的な作品だったってコト……?
ミッチェルの作中作のように、劇場で大勢に見せる商品ではなく、創作意欲をぶつける対象としての作品作りなら確かにこれくらい破綻して、たまに自分勝手なギャグがあってもいいのかなと思った。
あと、中盤YouTubeの検索ミスという設定で出てきた日本の謎のMVみたいの何ー?

 愛してるって言っておくね

原題を直訳すると「何が起こっても愛してる」とかになりそうだけどそれだと寒いから「愛しているといっておくね」にしんかな。でも、ちょっとそれだと話の状況と若干齟齬が生じる気がするけどな。
手書き風の温かみのある線でリアリティのある音響使って、ここぞというときに音楽使われたらそりゃいいだろう。短編でそこまで粗が出ることはないので粗を見つけてやろうという気持ちが感想を書くときに若干見え隠れする俺は特にいうことがなくなる。

 嫁はんの設定を絵にした。