裸で独りぼっち

マジの日記

われのほか、思いはわからず、ゆえにありなし判別できず

嫁はんと都合三度喧嘩をし、車を見に行き、ファイルを買って、夜はカレーを食べた。

一度目の理由は、俺がSixtones高地優吾の悪口を得意げに言ったこと、二度目は、嫁藩の腹が減って、三度目は俺が嫁はんの友達が中華BLをきっかけに中国語を学び始めたと聞いて「どうせアナルとかしか覚えねえだろww」と軽口をたたいたからである。

振り返ってもくだらない理由で、世界は平和だなという感じでもあるが、意外と根深いのが、ここに横たわるのは俺のコミュニケーションスタイルと嫁はんの許容値の違いの問題だからだ。

俺は、はっきりいって、その場にいない人のことはめちゃくちゃに言っていいと思っている。

なぜなら、聞こえていない発言はないのと同じだからである。

悪のガス抜きは相手が不在の状況で行えば見た目上には優しい世界が訪れると思うのだ。

加えて、人や親や友人に対する愛情がない。

面白く魅力的だなーとかよくよく考えたらありがてえなーと思うときはあるが、例えば「ニコイチ」という言葉が象徴するように自分の一部のように感じることは一度もない。

はっきりいって、俺が世界のメインプレイヤーであり周りはみんな俺の背景だと思っている。

そしてその認識は、俺が俺の視点以外は持ちえない以上、「嘘」と証明されることはたぶんないのだ。

社会生活を営むうえで俺以外の70億人ひとりひとりに人格があり人生があると考えた方がいいのは知っているが、またなんとなく正しそうな気はするんだけど、証拠はない。

われ思う、ゆえにわれあり。

われのほか、思いはわからず、ゆえにありなし判別できず。

 

だから、俺は嫁はんの友人や好きなものを(あからさまな差別発言はきついくらいの感覚はありつつ)悪く言ったっていいだろうと思っているのだが、嫁はんにとってみればそうではないのだ。

要するに、愛情がないんだなあ俺は。

嫁はんは割かしオタク気質であり、要するに愛の戦士である。

ヴィランたる俺は、嫁はんを通じて少しずつ他者を認識してきているが、でも愛は嫌いなままだ。

というくだらない喧嘩の話である。