鶴瓶とアンリ・ルソー
あちー。
昨日は鶴瓶の映画を見た。
気づいてしまった。
芸術とは根本的に非合理だ。
アニメーターの待遇の悪さや漫画家の命を削るような不眠作業がたびたび話題になるが、あえていえば芸術家であろうとする以上、それは所与の前提なのかもしれないと思う。
鶴瓶が50代になってから本格的に落語を初めて同時に創作もして、2時間のフリートークの準備をして、合間にファンサービスをする意味も、あとから付与されているだけで、実はない。
なんか変なことをして結果として評価されることはあっても、評価されるために変なことをするわけではない。
鶏卵ではなく、ここには純粋な、当たり前の、順番がある。
俺はこの絵にかなり惹かれるが、正直言って当時評価されるかどうかは運である。
志磨遼平は「ゴッホじゃやだ」とうたったが、ゴッホはゴッホになったし、おそらく志磨はよりゴッホの方が歴史に残る。
まあ、歴史なんて洪水一発で押し流される何かに過ぎないが。
コロナ一発で現在歴史が押し流されている最中かもしれない。
ただ生きていればいい。