裸で独りぼっち

マジの日記

映画『Summer of 85』ネタバレ感想

朝から映画を見に行った。

その前にすごくウェイトの小さい原稿も一本片付ける。

こればっかりやって後は好きなことだけして生きていきたい。

でも、それを保証してくれるものはどこにも、ひとかけらもないので俺は保険をかけたがる。

 

Summer of 85

ものっそい古典的なBLだった。予告からそんな感じはしていたけど。
BLというか、恋愛ものとしてもだいぶ古典的である。
だからこそ85年の話と言うてるやないかキミ。

はっきり言って顔が強いのは否定できない。フェリックス・ルフェーブルは確かに完全にリヴァー・フェニックスの雰囲気がある。バンジャマン・ボワザンはなんかジョジョっぽいというか、なるほどバイで多淫症で、チャームが恐ろしいくつよいんだろうなという説得力がある。

話運びとしては、回想と現在がシームレスにつながれていてあいまいなのが特徴的。アレックスが今現在書いている物語であり、今現在頭に思い描いている状況だからだろう。

たとえば前見たマティアス&マキシムなんかはノンケだと思っていた自分が「あいつがすきなんだ・・・・!」と気づく話だったが、今回はより純粋にまず激烈な夢みたいな恋があって、それが激烈が故に悲劇的な結末を迎えるというもので、多分同性愛でなくても同じような映画をつくれる。

それでも、同性愛だった意味はどこにあるかというと、やっぱりそこに異性愛よりも純粋なものがあるように思わせる効果が現在の立ち位置ではやや強いからだよな。アレクッスなんか、未熟でヤリチンとつきあって、浮気されてキャンキャン喚いたというだけなんだけど、「ヒステリックだな~」という感じにならないのはやはり、一個そもそもベタな恋愛じゃないからではとは思う。まあでも、そこは役者の力でもどうにかなるのか。

ともかく、この古さが良かった。
そういうのを素直に認められるようになったか。

マティアス&マキシムの感想は以下。

マティアス&マキシム

ずっと、色に注目してみていた。
言うまでもなくこの映画ではマティアス(マット)に青、マキシム(マックス)に赤、とカラー設定され、また映画の各場面でも赤と青が効果的に使用されている。
ほんとうにずっとマティアスは青、マキシムは赤の服を着ていて不自然なほどである。マティアスが青以外の服を着るのはスーツの時、マキシムがあ海外の服を着るのは2回目に母ともめた(パスタを食べた)時だけではないだろうか
(見落としの可能性も大いにある)。
とはいえ、その時もちゃっかり青い服の下にマキシムは赤いシャツを身に着けていたのだが。

マティアスのスーツは仕方ないとして、なぜあのときマキシムは赤い服を身に着けていたのだろう。わからん。

ふたりが映画の中でキスをして、翌日マティアスが泳ぐ海は当然深い青だ。そして、二人が決定的に交わりそうになるマキシムお別れ会の時の部屋の色は青、突然の土砂降りに合う家を映したショットで赤レンガの家が照らされる。

こうなると、いつ赤と青がまじりあった赤紫が出てくるのかと期待してしまうが、はっきりとは分からなかった。まじりあう前・まじりあうかまだ分からないよ期の話ということかもしれない。
ただ、後半にちらりと移されたマジックアワーの空は青と赤がグラデーションでまじりあっていたような気もする。

最後さっぱりと髪を切ったマティアスが青、マキシムが赤ということは二人はやっぱりまじりあいそうでまじりあわないことを選んだのかもしれないなと思った。
オーストラリアに行っちゃうしな。

あれ、でもポスター(キスのシーン)だとマティアスがめっちゃ赤だな……。

いずれも映画も「赤と青」が象徴的に使われている。

情熱の赤と冷静の青。

炎の赤と海の青である。

こういうあからさまな対比をしても臭くならないから、BL・百合に独自の価値があるのだと思う。

まあ、「冷静と情熱の間」なんて例もあるけど、あれはダサかったでしょう?

 

俺は男だが、イケメンが戯れているのは眼福である。

美人が戯れているのもそうなんだと思うが、意外に美人はイケメンより多様性があって、例えばアイドルとか、美がつぶぞろっていない。一般人代表もいれば顔担当も、歌担当もいる。

だから、純粋に造形物としての人間の顔を楽しむならこうした映画になるだろう。

その中でもBLは「美」に特化いたものが多いと思う。

百合だってそうなんだろうけど、あんまりそう称される映画を知らない。

シスターフッドに吸収されてしまうのかも。

ああ、でも『もゆる女の肖像』なんて例があったか。

燃ゆる女の肖像

結局恋愛に興味ないからあんまりエモくならず。
10日足らずとプラス3日だけ描いた話なのでたいして大きな話ではない。「見る/見られる」「思い/思われる」という関係が萌芽してすぐ摘み取られるので、その先に大輪の花の狂い咲きの幻影を見る人はガーっと熱くなるのかもしれない。
まあ、別にいいじゃないの絵画で売られるように結婚しても、あの時代に貧乏で誰にでも訪れるような病気でコロンと若くして死なないだけでも、と思ってしまう。
恋愛を支配されることとかジェンダー構造に組み込まれることのつらさ(裏腹なエモさ)がまじで分からない。生きてりゃいいっしょと思う。
想像力の欠如だろうか。

島にマリアンヌが乗り込んでからは意図的に男性が排除されている。ソフィにもマリアンヌにも過去には男の影があるにも関わらず。「不自然だなー」と思っていた。ここまで不自然なユートピアを生み出すのは日誠実に感じる…でも、まあ男しか出ない映画に俺が違和感を感じないことの裏返しとして意味があるのかなー…などと考える。
終盤、唐突に男が出現する。「うわ男だキモ」と思う。嫁はんが前に「男はうっすら「女」が好きで女はうっすら「男」が嫌い」という話をTwitterで見て、それはなかなかわかるねという話をしていた。なるほど、「「男」が嫌い」とはこういうことかなと思う。
だとすれば意図的に男を排除した意味が俺にさえ生まれたのだろう。

結局「燃える」というモティーフは何を意味しているのだろう。マリアンヌの前任者が描こうとしてついに描けず顔だけぽっかり空白となった絵画が暖炉で燃やされた理由は?
スカートの裾に火ついたらもっとみんな焦って消しに来いよ!

俺は、燃やすとは「荼毘にふす」ことにつながるのかなと思う。キリスト原理主義的な考えでは、仮想はご法度だ。死後の復活が妨げられてしまう。
マリアンヌは前任者の顔のない肖像を燃やすことで絵画に対する煮え切らない思いをまず、断ち切ろうとする。しかし、エロイーズがそれを許さない。中盤、エロイーズの服の裾に火が移る。マリアンヌはそれをぼうっとながめる。そして、別れた後に絵画に残す。
堕胎から目をそらしていたエロイーズよりも弱い人間であるマリアンヌ。オルフェウスのように顧みてしまえば、そのままではとどまれないことを悟っていた。だから振り返らない…振り返らない…振り返(白い光)。という島での別れになる。
マリアンヌの中でのエロイーズはあの祭りの日から、ずっと火の手を広げており、最終日についに灰になってしまった(として自ら断ち切った)。灰からの復活を実現できるのはやはりエロイーズだが、彼女は決してこちらを直接見ることはない。
かくして燃える女たちの12日間は葬り去られたのだ。

あんまりエモくはなってない。

でも、なんか共通する美意識みたいなものはあるよね。