向田邦子の『眠る盃』を読んだ。
そういっても腹は減るわな。
このブログはもはや習慣なので続けていて、もしかしたらどこかで俺のめんたるを 捧げるためのモーニングノート的なものになっているかもしれず、いまさら辞めるのも恐ろしいので、続けている。
辞めるのが恐ろしいことくらいしか続けられない。
いや、楽しいことだって続けられるんだけど。
向田邦子の『眠る盃』を読んだ。
エッセイは、文体と視点である。えい、と気合を入れて読むようなものではなく、何よりもまず作者を好きであることが肝要。作者に求められるのは、なによりも記憶力、観察力、そこから続いて文章力、ユーモア、胆力。ツルチック、新宿のライオンなど向田邦子もまず記憶力が素晴らしく良い。本当の記憶でなくても良いが、確かにこれがあったろうと思わせるだけの説得力が描写に現れなければいかんのだ。といいつつ、本書のタイトルでもある『眠る盃』は記憶違いの話なわけで、記憶以上に確かにこれがあったと思わせるテレビ屋ならではの演出力も光る。
漫才でも音楽でも文章でも、「あ、これはモノが違うな」というレベルは確かにある。運ばかりのこの世だが、ある程度のレベルの差は歴然として目に見えてしまうのがつらいところだ。
少数のものすごいやつしか生き残れないならば、あとは全部趣味だとか自己満足だと思ってやるしかない。
なあ。
「人との縁が大事だ、結局人と人の間にしかお金も価値も発生しない」とお風呂で嫁藩に行ったら「ホリエモンみたいなことをいうな」といわれた。
屈辱的である。
でも、なんで俺がこれを屈辱的に思うかというとかつてのメディアの扱いを鵜呑みにし、なんとなく胡散臭い雰囲気とか、自我のつよさなどに反感を持っているからに過ぎない。
あと、ホリエモンみたいなやつに心酔していると仲良しに思われたら恥ずかしいというだけである。
人の目を気にして恥ずかしいやつだ。
でも、人の目を気にしなくなったら、優しさや気遣いもきっと目減りしてしまうから。
これでいいのだ、俺。