裸で独りぼっち

マジの日記

『バーフバリ 英雄誕生』92点『バーフバリ 王の凱旋』85点 ぜったい前作を見た方がいい※ネタバレ

※今更なことをいいます。

 

インド映画のPOWERを強制的にトゥ・ザ・ピーポーしてしまう映画、バーフバリ。

後編『王の凱旋』がこの度公開され、以下のような話題を生んでいる。

 

togetter.com

 

正直、こういうネタ映画的な消費の仕方は苦手だ。

こういう無茶苦茶なコンテンツを面白がるウチらwという観客の特権意識が透けて見えるような気がするから。

という自意識の問題は置いておいて、傑作と言って差し支えのないほどこの作品にはには楽しませられた。

 

まずは前編の感想。

 

『バーフバリ 英雄誕生』92点

ここでいうインポッシブルとはこのコンビのこと↓

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インポッシブルの宣材写真(吉本公式HPより)

改めてみたらなんだこの宣材。
なんかバランスがおかしい。

巨大生物と2人でただただ戦う様を見せるなど他では見られないコントのスタイルから自分たちの役割を”ボケとツッコミ”ではなく、”スピードとパワー”と表現する。

その、存在自体のダイナミクスが高じて笑いを生んでしまう感じ、それはやっぱりバーフバリとインポッシブルで共通している部分ではないかと思う。

我ながら冴えた例えをしたものだ。

 

ストーリー

 

英雄誕生は妙齢の女性(おばちゃん)が赤ちゃんを抱えて河を渡り、流されるところから始まる。

水量の増した川におばちゃんは沈み、手だけを天に掲げる。

その赤ン坊の名こそアヘンドラ・バーフバリ。伝説の始まりである。

バーフバリはそこからすくすく育って5分くらいで大人になる。

天女に誘われたバーフバリは難攻不落の滝を上り、美しき女アヴァンティカを発見。

*1*2

アヴァンティカとなんやかんやあって相思相愛になったバーフバリ。

アヴァンティカは強大な王バーララディーヴァが支配するマヒシュマティ王国に祖国クンタラ王国を滅ぼされた者たちのレジスタンス、の一員であった。

敵のもとに攻め込もう――とした瞬間とらえられるアヴァンティカ(このあたりの弱体化はご都合主義だがそれゆえに神話的)。

そこを救ったバーフバリはマヒシュマティ王国へ攻め込むことを誓った。

 

マヒシュマティ王国で鎖につながれていたのは元々は王女であったデーヴァセーナ。

「お前たちを地獄の業火で焼き尽くし、生きたまま苦しめたい」

めちゃめちゃ口が悪い。

王国に奴隷として忍び込んだバーフバリは城にわざと火事を起こし、デーヴァセーナを救って城を飛び出した。*3

それを追うのはバーララデーヴァのひ弱な息子パドラと奴隷将校カッタッパ。

バーフバリは2人を迎え撃ち、パドラの首を雷鳴とともに切り飛ばす。

その顔を見て驚愕するカッタッパ。バーフバリの脚を頭に乗せる。

「誰だお前は!?」

尋ねるバーフバリ。カッタッパは過去を語り始める。

 

数十年前、マヒシュマティ王国は王ヴィクラマディーヴァと王妃の急逝という事態に襲われていた。次代の王を選ぶ権利を持つのはヴィクラマディーヴァの弟ヴィッジャラデーヴァの妻である国母シヴァガミ*4

彼女は先王の息子アマレンドラバーフバリ(以下バーフバリ(父))と、自身の息子バーララディーヴァの2人が成人したとき、いずれを時代の王か選択することを宣言した。

その言葉に邪悪なヴィッジャラディーヴァは驚き罵るがなぜか素直に従う。意外にかかあ天下である。

すくすくと育つバーフバリ(父)とバーララデーヴァ。

彼らが成人を迎えようとするとき、蛮族カーラケーヤが襲ってきた。

その兵の数は10万。実にマヒシュマティ王国の5倍以上である。

シヴァガミが兵を均等に分け、それらを指揮してカーラケーヤの大将の首を取った方を次代の王とすることを宣言する。

ビッジャラディーヴァの姦計により、武器や防具は与えられなかったバーフバリ(父)。しかし、機転を利かせて蛮族を制圧。すんでのところまでカーラケーヤの大将を追いつめる。しかし、漁夫の利を得たのはバーララディーヴァであった。

ところが、シヴァガミが次代の王と宣言したのはバーフバリ(父)。

古代洗車のような道具で民衆もろとも敵を攻め、多くの犠牲を出したバーララディーヴァよりも、民を守ったバーフバリ(父)の方が王にふさわしい器であると見抜いたのだ。

 

「――しかし、その数か月後彼は裏切者のせいで命を落とすことになります」

そう、カッタッパは言う。

「裏切者はだれだ?」

尋ねるバーフバリ。カッタッパは答える。私です、と。

 

www.youtube.com

感想

長い感想となった。それだけ長く、語りがいのある物語なのだ。

先述したが、俺はこの前編の方が話題の後編より好みである。

それは、構成上の妙が大きい。

先に語ってしまうことになるが、前編の内容は大きく分けて「バーフバリの登場&活躍とバーフバリ父の登場&活躍」である。つまり、風呂敷広げ放題なのだ。

バーフバリという物語は、神話故、細かい粗もある作品ではあるが、その風呂敷のあまりの広がりっぷりに観客も細かい疑問は忘れてバーフバリ!状態になってしまうところにそのパワーがある。

ほかにないパワーだ。

だから、その持ち味が生かされるのは風呂敷広げ放題の前編に決まっているのである。

 

もう一つ、理由があるとすれば、デーヴァセーナがあんまり出てこない。バーフバリ(父)の妻であり、バーフバリの母であるデーヴァセーナ。

正直こいつが怒りっぽすぎるせいでいろいろ問題が生じた気がしてならない。

悪として描かれないしそう断定もできない分、俺はコイツの方が「タチ悪~」と思ってしまう。

その点この話のヒロイン、アヴァンティカは信頼できる。バーフバリとのディズニー映画ばりのファンタジックなミュージカル求愛シーンは絵ヅラの美しさも併せて必見である。

 

『バーフバリ 王の凱旋』85点

 

バーラディーヴァの悪口をここでも言っている。

この映画は仙台の中規模映画館『フォーラム仙台』で見た。

朝から9:20の回だったが長蛇の列で、立ち見まで出る始末。

15分くらい(バーフバリが象を倒して母を看病しながら歌いだすところ)で不具合から音声が止まり、中断ののち再開することになった。そのお詫びにタダ券を人数分配る決断をしたフォーラムが気の毒であった。

フォーラムはGoogleの評判では「社会人としてあり得ない店員がいる」だの「音が漏れる」だの評判が悪いがそういう真っ当な対応をしてくれるところだ。店員の態度も良い。音は漏れるときもあるが俺は気にならない。

もっと評価が上がってよいと断言できる。

ともかく、そんなトラブルがありつつも、前評判通りの面白さではあったと思う。

しかし、前編を見てのものだったので、正直ちょっとテンション下がる時間はあった。

それが現れ出たTwitter感想である。

 

ストーリー

マヒシュマティ王国には、王妃が燃え盛る燭台を手に城の周囲を3周すれば、願いが成就するという言い伝えがあった。

それをシヴァガミが実践中のところから物語は始まる。

暴れ象が登場し、シヴァガミの行く手をふさぐ!

危うし! というところで現れるのが我らのバーフバリ(父)。

王になる彼の力でシヴァガミは無事回り切り、民はバーフバリを讃えた。

バーフバリ!

 

しかし、ヴィッジャラディーヴァは国の乗っ取りをあきらめてはいなかった。

バーララディーヴァは意外にも殊勝な態度をとるが、その真意は不明。

一方、実の息子である彼を王にできなかったシヴァガミはそれを負い目に感じていた。

大勢の象をプレゼントしようとして断られるシヴァガミ!

 

バーフバリ(父)は父代わりのカッタッパとともに嫁探しの旅に。そこで、若きクンタラ国の王女、デーヴァセーナと出会う。その美しさと凛々しさにに一目ぼれしたバーフバリ(父)は、愚かな従者とその叔父という設定で、デーヴァセーナらの懐に入り込む。*5

バーフバリ(父)はアホの不利をしてデーヴァセーナに近づく。そこへ襲い来る蛮族ピンダリ! バーフバリ(父)はそこで本領を発揮して国を救い、デーヴァセーナの心もゲットする。

このくだり、コメディリリーフ、クマーラが勇気を出す展開が熱い。

デーヴァセーナのヤダ味が最初に出るのがここである。バーララディーヴァはデーヴァセーナの美しさに心を奪われ、バーフバリ(父)から奪ってやろうと計画。母に頼んで金銀財宝を遅らせる。しかし、デーヴァセーナは断り、こう書いた手紙を送らせる。

「金銀財宝で女を手にしようとする王子の妻になるくらいなら死んだ方がましだ。私の使い古しの剣を送るからそれとでも結婚しておけ」

やりすぎやろ! 外交上のことを考えてもこんな返答は悪手過ぎる……。

本来ならばこの時点でクンタラ王国は滅ぼされても仕方なかったのだ。

そう考えると、後の悲劇も薄れるではないか。

ここは、もう少し賢王(女)っぷりを発揮して欲しかった。

 

国を守ったバーフバリ(父)はデーヴァセーナを連れて帰国。当然シヴァガミの怒りを買っているので王の地位は剥奪。そのままデーヴァセーナの起こしたトラブルのせいもあり、城を追放されるまでに落ちる。

しかし、バーフバリ(父)は、落ちぶれはしない。民の中でリーダシップを発揮し、どこにいても王は王の器であることを示す。

その様子を目にしたバーララディーヴァらは悪知恵を働かせ、バーフバリ(父)がクーデターを起こしたことに偽装。カッタッパをけしかけてバーフバリ(父)を殺させるのだった。自らの過ちに気づいたシヴァガミは幼いアマヘンドラ・バーフバリを抱いて逃げる。そう、妙齢のおばちゃんはシヴァガミだったのだ。

ここらへん、ちょっと登場人物の頭が悪い気はするものの、「実の息子バーララディーヴァに負い目を感じる母シヴァガミ」という絶妙な心理描写があるのでそこまで気にはならない。まあ、あれだけのことがあったらそうなってもおかしくないかなと納得はできるレベルである。

 

過去をすべて知ったバーフバリはレジスタンスを率い、クーデターを決行する。

↑ここまでの展開が激早。バーフバリの顔が、デーヴァセーナの血入ってないやろ級にバーフバリ(父)と瓜二つ(同じ人が演じている)なので、レジスタンスがすぐに率いられるのも納得できる乱暴なようでスピーディかつロジカルな展開である。

ヴァーララディーヴァを追い詰めるものの、逃げられるバーフバリ。

やみくもに向かおうとするも、カッタッパに「父のように知恵を使いなさい!」と説教される。

www.youtube.com

↑その結果がこのシーンである。

この映画をネタ映画として処理するのは悔しいと冒頭でコメントしたが、やはり、このくだりはバカすぎる(良い意味で)。

 

バーフバリはバーララディーヴァと決闘。死闘の末に破り、デーヴァセーナの悲願の火あぶりによって親子の復讐を果たす。

そして、王となったバーフバリ。人々は彼を讃え、川を流れる破壊されたバーララディーヴァの破壊された首(黄金像)は川下へと流れていくのだった。

 

感想

前編に比べてちょっと不満がある。

 

1に、悲劇(過去)パートがやや長い

…このせいで、バーフバリ(息子)の主役感が薄れている気がする。前編未見の方は一瞬「あれ?どっちが主人公?」と思ったのではないか。

それにやはり悲劇は重く物悲しいものだし、圧倒的な陽の気が売りのバーフバリでそこはあまりおいしくないのではないかと思った次第である。

 

2に、前編の主要人物(バーフバリの育ての母とかアヴァンティカ)の影が薄い

アヴァンティカは完全にモブと化していた。前編の正妻感は遠い昔である。後編から見た人には彼女の魅力は伝わらなかったのではないか。前編では後半弱体化したもののバーフバリを導くまさに女神だったのに。

育ての母は全然出てこなかった。世界配給に従って映像がカットされているらしいのでもしかしたらそこで描かれているのかもしれない。それを見ないとまだ何とも言えないが、少なくとも日本版ではバーフバリが産みの親をすぐ受け入れて育ての親を忘れたお恩知らずに見える。

 

とはいえ、今思い返すと最期にバーバラディーヴァの首が流れるところなど、川下と川上という上下関係が世界の力関係のメタファーとなっていることを示す丁寧なつくりとなっていた。

それもほかの解説を見聞きするまで気づかなかったのだ。

とはいえ、2作続けて見るべき一作であった。

 

www.youtube.com

 

 

 

 

*1:勝手に手にタトゥーを書いて求愛する。

*2:この部分についてラッパー・映画評論家・ラジオパーソナリティのライムスター宇多丸は”ストーカー的”と表現

*3:この時、焼けた岩で行く手をふさがれるが、なんと吹っ飛ばして逃げるw

*4:シヴァ神と関係あるのだろうか

*5:このときのデーヴァセーナは好戦的(すぎる)性格がまだ凛々しさと受け取れる。しかし、すぐアホをクンタラ国は受け入れすぎだろとも思う

岸田劉生のデロリ、椿貞雄のあったかみ

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寒いのだ。宮城県立美術館にほど近い途上。

11月27日は『岸田劉生と椿貞雄』展の初日であった。

ファンでもないのに、初日から出向いた。

暇というものは教養を生むのだ。ざまあみろ、エコノミックアニマル。

 

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凍てつく入口看板

岸田劉生はともかく、椿貞夫はピンとこなかった。

岸田劉生のピンとくるポイントも『麗子像』しかない。

素寒貧だ。頭の中がという意味で。世の中の大半がそうだと思うけど。

 

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俺たちの麗子像(ニヤケ)

この麗子、後々画家になったらしいんだけど、ともかく彼女が気持ち悪い表情がしているわけが分かったのが今回寒い中美術館に足を運んだ一番の成果であった。

この表情、雰囲気、岸田劉生の意図したものであったのだ。

 

劉生は親ばかでこんな呪いの人形みたいな怪奇幼女をかわいいと思い込んでしまっているのだ、そう思っていた。

だが、これは「デロリ」というらしい。

plginrt-project.com

 

「デロリ」とは何か? それは、濃厚で奇怪、卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持ったもの 

 中学二年生に知らせたら気に入ってタトゥにして踵に入れてしまいそうな概念だ。

でもリンク先で紹介されている作品は確かに気持ち悪くて一度見たら忘れられないようなものばかり。

岸田劉生の変態さは、その題材に娘を使ったことなんだな、とわかった。

娘でグロ画像こしらえて額縁に飾るようなもんである。

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寒山風麗子像

こちらは禅画の画材として有名な狂僧「寒山」風に描いた麗子。娘がこんな人食い鬼婆みたいになったらとても悲しい。こんなんをイマジネーションでもって絵にしてしまえる劉生は鬼である。

その変態が祟ったのか京都で芸者遊びと酒におぼれる生活を送り、劉生は38歳で死んでしまったらしい。

その劉生に深く師事したのが椿貞夫である。

 

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パキっとした貞雄

これがそのパキッとした自画像。

劉生が筆字なら貞雄はゴシック体である。

彼は劉生にかぶれてその絵画を追っかけ、当然娘を使ってデロリにも挑戦したわけだが、結局温かみ系の個性がにじみ出て、晩年に書いた孫の絵では完全に幸せにあふれたものとなってしまっていた。

そのお孫さんはバイオリニストとなり、3月に宮城県立美術館でコンサートをするらしい。

そういう歴史が連綿と続いていく様は、面白いねえ。

 

消えたAV女優

みなみ菜奈というAV女優がいる。

 

いや、かつていたといった方が正しい。

 

2016年ごろまで活動していた彼女は、その年の末に急に新作を取らなくなり、そのまま作品がすべてDMMのストアから失われてしまった。

 

消えたAV女優というやつだ。

 

当時ガンガンにAVを見ていた俺は

 

気になって、本日名前でググってみると、にちゃん(今はごちゃん)のスレが出てきた。

 

itest.bbspink.com

 

AV強要問題が背景にあるということか?

ヤクザの情婦になったのか?

 

当時は得体のしれぬ闇を感じた事件であり、俺のひとり上手に水を浴びせかけるような出来事だったわけだが、今にしてみるとそんなこともあるだろうなあという感じである。

 

俺は大人になったのだ。

 

0150 名無しさん@ピンキー 2016/07/03 16:24:37
貴重な演技派女優さんだったから残念だな・・・

 

0202 名無しさん@ピンキー 2016/08/20 09:43:55
もう作品は出ないんだ・・・。
淋しいな。

あの子、顔や話し方、しぐさにも特徴があったから、わかる人はすぐわかるんだと思うよね。
普通の世界でやっていけるんかなぁ?
アホって言われるけど心配なんだよね。

 

 

こういう優しい言葉が本当でありますように。

メタ的に見た素人AV女優

素人AV女優、という言葉の矛盾とファンタジーとリアルと希望について。

 

例えばマジックミラー号とか、ナンパものとか、TV番組パロディみたいなやつとか。

素人、という名目の電影少女(ビデオガール)がたくさん出てくるわけじゃないですか。

 

 

結構彼女らって一見リアルというか、「自然に演技してるなあ、もし勝新太郎がAV女優でもこういう演技をしただろうぜ」という自然な演技をしますよね。

これは、俺がど、ど、ど、童貞に近い存在だ(経験が浅い)からではないと思う。

 

でも、プロだ。

まあそれは、ほかの作品をウォッチしていたら同じ人が出てきたときとか、そこそこ有名なキカタン女優が出演しているのを発見しているのを見てしまったときとか、AV女優のTwitterを見たときとかに発覚するわけだ。

あと、ご丁寧に女優名をレビュー欄に書いてくれるAV菩薩もいるしな。

 

そんなわけで、青少年は夢を打ち砕かれる。

しかし、しかしである。

 

よくよく考えたらプロと素人の境目はあいまいだ。

どんなプロであれ、素人の時代は存在する。

 

スカウトか、自分から応募したのか、素人だった彼女らが一歩踏み出し、作品に出演することでプロとなるわけだ。

ということは少なくともそのデビューの一本において彼女らは半分素人ということになるだろう。

 

そういえば前松本人志が「AV女優は素人が一番プロという逆説的な側面がある」(=男性は素人の出演作品が見たいわけだから、より素人に近い一本目こそがユーザーのニーズにこたえている人=プロである)という説を『ワイドナショー』で唱えていた。

 

その説についてはでも、プロの技術を目の当たりにしたい場合もあるわけで、一概には言えない!と反発すら覚えていたけど、一つの側面としては確かに正しいかもしれない。

 

だが、その時松本人志がさしていた『1本目』とはいわゆるデビュー作であり、インタビューから始まる単体もの、ということになるだろう。

 

それではなく、素人ものがデビューの場合で今回俺は考えている。

そして、そのほうが明確に明らかに素人に近いと考えている。

詳しくは、以下の図をご覧いただきたい。

 

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要するに、単体デビュー女優と素人物デビュー女優との間にはおおきなルビコン川が流れているのだ。

もちろん単体デビュー女優はそれができるだけの実力や美貌を兼ね備えたより上等な人が多いんだろうがね。

閑話休題

 

すなわち、なにが言いたいかというと、AV女優をスカウトマンがスカウトして、実際にデビューするまでを納めたら、それがほんとの上質な作品だし、多くのAVウォッチャーの劣情を刺激するに違いないということだ。

でも、苦労してそんな作品をとってもどうせ「やらせだー」とか言われるんだろうな。

監督でもないのに、暗澹たる気持ちになってきたぜ。

人生は一度きり論

よく自己啓発系の詩集とかで「人生は一度きりだから死ぬときに後悔のないように生きなきゃ」みたいな文言がある。

そこをイジるのはもはや陳腐すぎて「浅瀬を除こうとして逆にオマエが覗かれているぞ!」といわれそうであるが、それでも言いたい。

それ、根拠ないだろ!!

 

前世がどうとか言い出すと、すわ幸福の科学かとかモルモン教かとかそういう疑惑をかけられそうだが、ぼかぁ無宗教だ。

 

むしろ、人生一度きりという人は人生一度きり教に入っているのではないかという疑いがあるのだ。

 

というか、人生一度きりとおもって悔いないように生きようという保険をかけているのではないかと疑っているのである。

 

人生は一度きりなのだから、保険をかけようとせずに精一杯生きたいように生きようといっているやつは、人生が二度あるという可能性にかけて今回の一生を台無しにするリスクを避けている。

つまり、保険をかけている。

 

それが一番の安パイ野郎だ。

 

天国に旅立たれました論

「〇〇さんは天国に旅立たれました」というフレーズが嫌いだ。

 

1に、それはお前の主観じゃねーか、と。

そういうことをいうのはたいていその人のファンな訳で、例えば忌野清志郎とかフジファブリック志村とか、デビットボウイとかでそういう物言いがみられた。

でも、きっと他の人にとっては悪いやつでもあるはずじゃん。

泣かされた女も男もいるだろうよ。

そんな万華鏡的多面性を持った人間を一人のファンが好きだったという理由だけで天国に行けると断言するその無根拠な自身と半径5メートルの了見が嫌いだ。

いや、「(私もしくは世間にとっては)天国に旅立たれました(と言いたいくらいカリスマであり愛すべき人物だった)」ていうのが真意なんだろうけど、じゃあそういって欲しい。

正確に表現したまえ。

こんなに天国に拘るとお前は熱心なカソリック教徒もしくはDIOかよと言われそうだがもちろんどちらでもない。

なんというか、有名人が有名であると言うだけで免罪されている素振りが嫌いなのだ。

 

 

 

遠野で聞いた語り部の話メモ  

本日遠野に旅に来ている。

遠野といえば遠野物語。いわずとしれた民俗学者柳田邦夫の遠野に伝わる民話を集めた説話集だ。

その地で、語り部の民話を聞く、という機会があった。

覚えておける自身はないが、忘れてしまうには忍びない。

というわけでここにメモしておく。

 

[語り部の話1]

ある家の娘が突然いなくなってしまった。

家人は探し回ったが、どこにも姿は見当たらない。

神隠しにあったんだ」家人はそう話し合い、娘のことをあきらめた。

それから33年経過した。娘がいなくなった日は、親戚一同で集まり、娘について語り合うことになっていた。

そんな家に、1人の客人が訪れる。

それは、白髪交じりの老婆だった。長年の苦労をにじませるような疲れた表情と老人特有の雰囲気。

「……どなたでしょうか?」

扉を開いた親戚がそう尋ねると、その老婆は自分が33年前に神隠しにあった娘だと答えた。最初はいぶかしんだが、どうも本当らしい。

「家族に会いませんか。兄弟も、母もまだおりますよ」

しかし、老婆は首を横に振った。今更家族に合わせる顔はない、と。

どんどはれ。

 

[語り部の話2]

これは、家制度という枠組みの中で、夫婦が営まれていた時代の話だ。

曰く、生まれたその時から男性は「福の神」である。

それに対し、女性は、「鬼」である。2本の角が生えている。だから、結婚の際には「角隠し」を身に着けて、髪を結い、その鬼たる面を隠蔽しなければならない。

女性は嫁ぐと、「嫁」になる。嫁は、女と家を合わせた字だ。

女は子供を産むことで、その家の人間となる。

それまでは、女は玄関から家に入ってはならない。こっそりと、災いを呼び込まないように、だれからも見つからないように裏口――勝手口から入らなければならない。

勝手口はかまどの備え付けられた台所とつながっている。女はそこで火を操り、家を守らなければならない。

 

年を取った女は婆となる。婆は波と女を合わせた字だ。波とは人生の荒波である。自分が家を取り仕切っているといばっている男だって、人生の波には決してあらがえない。それを乗り越えた英雄が婆である。

婆は子を育て、それは孫に受け継がれる。そうして家は続いていく。

これは、戦争に日本が負け、男女が平たく(平等に)なる前の話である。

どんどはれ。

 

[語り部の話3]

これは、

山男と山女の話だ。

 

ケース1:ある日、ササを担いで山を歩いていた兵六は、後ろから、ササが大きくたなびくほどにすさまじい風が吹いてくるのを感じた。

ふりむくと、女がいた。女はイネを背負い、すさまじいスピードでかけてきた。兵六はその様子に思わず目を奪われた。女はそんな様子をあざ笑うように兵六を追い越していった。

 

ケース2:その日、与吉は狩りに出ていた。雉や鹿、それに山鳩などを狩って今夜の飯の種にするのだ。森の中には、木々、虫、小動物、などのいつもの風景に加えて、見しいらぬ異物――女がいた。

きれいな女だった。とても、与吉の住んでいる田舎にいるような女だとは思えなかった。物の怪の類に違いない、そう考えた与吉はその頭めがけて火縄銃の弾丸を放った。

すると、女は倒れた。そして、微動だにしなくなった。

なんだ、普通の女だったのか。与吉はその髪を記念に切り取り、家に持ち帰った。

そうしてその髪を懐に隠し持ち、たらふく獣の肉を食って眠った。

夢の中、与吉は家にいたその中に、六尺ばかりおある大男が押し入ってきた。そして、与吉の懐に手を突っ込み、女の髪を奪った。

はあ。はあ。目を覚ました与吉。夢だったかと懐に手を伸ばすと、果たして女の髪はなくなっていた。それから与吉は狩りをぷっつりとやめてしまったという。

どんどはれ。

 

[語り部の話4]

五徳という道具がある。囲炉裏にくべる薬缶や鍋を支えておくための台のようなものだ。その五徳、支えるための足は3本である。

それなの五徳。それにはわけがある。

昔、五徳は四徳という名前だった。そして、足は4本だった。名前と一致している。

それにたいし、昔、犬は3本足だった。現在の後ろ足が1本足りない状態だ。

そのため、後ろの1本足を引きずって歩いている状態だ。これではバランスが悪い。

哀れに思ったお釈迦様は、四徳にこう言った。

「おい四徳、足が4本でも3本でも動かないおまえには関係あるまい。1本を犬にやってはくれんか」

四徳は了承した。そうして、犬は4本足に、四徳は3本足になった。

その功績を見たお釈迦様は四徳は1本足を失ったことで1つ徳を積んだ。と言った。

つまりは四プラス一で五徳。それが五徳のはじまりである。

どんどはれ。

 

おまけの話。

[語り部の話1のおまけの話]

「どんどはれ。」とは「わらくずをはらえ」という意味。

「どんとわらくずを払え」→「どんとはらえ」→「どんとはれ」と変化した語りの終わりを告げる言葉。

昔は囲炉裏を囲んで藁(わら)仕事をしながら物語を語り合っていた。

その時の終わりを告げる言葉が「どんと(作業によって体に散った)わらくずをはらえ」だったというわけである。

 

[語り部の話3のおまけの話]

この、山女・山男というのは、現在では外国人もしくは犯罪者のことだといわれている。

外国人説については、彼らの体格が一様に日本人離れしたものとして報告されていること、赤や金などの髪で歌えられる例が多いことなどがある。天狗など、外国人がもとだといわれる怪異のたぐいは多い。

犯罪者説については、日本のムラ社会の気風と当時のずさんな犯罪者の取り扱いが関係している。例えば身内から嫁いだ先から逃げ出してきた娘や盗み・殺しを犯した子どもは受け入れられない。さりとて、牢獄に閉じ込め続けることもできない。

その結果、彼・彼女らは県外の山に追放されることになる。そうして、夜道で犯罪をはたく。そんな彼らを避けるため、山男・山女の脅威が伝承されたのではないか。

語り部はそう語る。