裸で独りぼっち

マジの日記

グレイテスト・ショーマン 90点 ”最高のMV集は「映画」になりうるのか?”

※ネタバレがあります

 

この予告編を見てサントラを聞けば、大体この映画が好きかどうかは判断できます。

映画を見て、「予告編って全部の映画が面白く見えるよな~、ほかの映画もこうならんかね……」。そう感じた経験って誰しもあると思うんですね。

それでいうと、この映画は予告編のテンションをいかに切らさずに作るかという狙いが強い。

 

予告編がなぜ良く感じられるかというと、映像という媒体のおいしいところがフル活用されているからです。

物語の見せ場をつなぎ、前編にわたってテーマ曲がそれを彩る。

20秒、いや15秒ごとにキメ、キメ、キメの連続。

そう、予告編とは、壮大なお金をかけたMVに近い。

MVも予告編も、プロモーション映像という意味ではほとんど同じですし、きっと引っ越しの際には同じ段ボールに詰め込まれることでしょう。

 

この作品は、最高のMV≒予告編をいかに効率よくつなぎ合わせるか、そこに主眼を置いて制作されていると思うのです。

 

ストーリー

これは、19世紀半ばのアメリカでショービジネスの原点を築いた伝説の興行師(ショーマン)P.T.バーナムの物語。貧しいバーナムは使用人宅の娘に恋をし、彼女との間に2人の娘を作る。そして、彼女たちのアイディアにヒントを得て、ひげ女や小人症の少年、巨漢やのっぽ、有色人種など社会から奇矯な視線を向けられるもの――FREAKSを集めてショーを開くことにしたのだった。彼のショーはたちまち人気を集め、地域中の評判となる。バーナムはさらに上流階級にも受け入れるため、名高い劇作家フィリップに声をかけることに――。

 

良かった点①歌

冒頭のサントラを聴きましたか?

あれは違法なやつなんでしょうか? まったくけしからん! たまらん! 

『ララランド』の音楽チームということです。ディミアン・チャゼル監督は若き大天才ですが、音楽チームも同じかそれ以上に至高の才能っていうのがよくわかりますね。

 

正直この映画は、曲の魅力が半分以上を占めている!

 

それも意図的にそういうバランスにされていると思います。

逆に言うと、物語の魅力はあまりありません。つまらないとかじゃなくて、あえて物語的な盛り上がりはそれほどのテンションで発生しないように明らかに調整されているのです。

 

この作品、主人公バーナムが落ち込む場面が極端に少ないんですよね。

例えばバーナムは貧困の生まれで、かっぱらいまでしなければ食っていけないほどの生活をしていたわけです。で、そこから何とか職を得て夢に向かって走り出す。

そこまで10分もかかりません。

普通の話であれば使用人のバーナムとお嬢様である妻がくっつくまでに何個か障害を乗り越えるさまを描くわけですが、この映画はそこを大胆にショートカットしてしまう。

2人の交流は、歌に合わせて映像化された手紙の交換だけ。

それだけで家柄や距離の障害をどうやって乗り越えたのか冷静に考えると疑問です。

でも、気にならないんですよね。

なぜなら、歌の力があるから。

 

 この『A million Dreams』が骨組みだけの恋愛に、なにか気持ちのようなものを与えてしまうんですよ。

もちろん骨組みだけなのでよくよく考えたらなぜ結婚したのかだれも答えられないんですが。

ほかに、サーカス小屋は燃え、妻も娘も実家へ帰ってしまうという最悪の状況に陥った場面でも、やはりバーナムはほとんど落ち込んだそぶりを見せない。

せいぜいちょっと酒を飲んで寂しそうな面をするくらいです。

そして、すぐ歌が始まる。

 

こういう物語の底を描かないことのデメリットは、要するに起伏が亡くなってしまうということです。起伏とはカタルシスの根幹ですから、この映画には物語がないといえてしまう。

だから、批評家筋の評価はそれほど芳しくないんでしょう。

 

でも、『グレイテスト・ショーマン』には明らかにカタルシスがある。特にアカデミー音楽賞にもノミネートされている『This is me』なんて最高ですよね。

マイノリティー集団が私は私だと叫ぶ心をこの上ない映像と音楽と演技の三位一体で表している。

 だからこそ、この話はMV集との誹りを免れ得ないわけで、それでも観客を集めてしまうわけなんですね。

 

良かった点②効率のみを重視した脚本のうまさ

 

blog.monogatarukame.net

 このブログの評論には膝を打つことが多いのですが、でも「映画の技術が下手」という意見にはやや自分は疑問符を浮かべます。

旧来の考え方では下手、というかカタルシスがないけど、それは作り手に完全にコントロールされた結果の物語不在なので、やはりこの映画は「上手い」のではないでしょうか。

この映画の脚本を一言でいうとウィダーinゼリーです。味は薄いし香りもないけど、不味くはないしきちんと栄養が補給できる。10秒でチャージして、夢中になれる別のこと――この場合はMVゾーン――に向かうことができる。

特にうまいなと思ったのが家が焼けて落ち込んだバーナムのもとにフリークスが寄り集まって結束が高まるシーン。

この数シークエンス前でバーナムはどんどん野心にとらわれてフリークスを締め出す嫌な奴として描かれるんですよね。これを見ている僕らは、「なるほど、これが原因で仲間割れなど生じて痛い目に合うんだな」と思います。しかし、その予想は大外れ。

バーナムは上流階級に取り入るために始めた歌の興行に夢中になり、その歌い手(レティ)に惚れられ拒絶したことと、心ない差別主義者の放火によりすべてを失うんです。

なんだか話が明後日の方向に行ってしまったな……。

そう思ったところでフリークスがやってきて、ひげ女がこういいます。

「あんたは金もうけだけを考えていたかもしれないが、それでも居場所のない私たちに居場所を、仲間を作ってくれた! ほかに行くところなんかないんだよ!」

この一言で、バーナムのフリークスないがしろ問題解決されちゃうんですよね。そして、フリークスが結束したことで破産したことが解決する流れも確定する。さらに、フリークスに対する差別という重い問題も放火という重い結果で相殺してなかったことにできる。

正に三重殺!!

こういう描き方をしちゃうと結局どの問題も大したことなかったのでは?

なんだこの話と思われる確率が非常に高まるのですが、そこは歌でカバーできるのです。

完全に歌に依存している。逆に言えばそこまで歌を信じている。

そう考えると、つまりこの作品は「旨くないからこそ上手い」まさに職人芸の脚本で成り立っているといえるのではないでしょうか。

 

引っかかった点①差別問題スルー

 前述のとおり、この話は様々な問題をほとんどスルーするか、さらっと一言で解決して進んでいきます。

だから、貧困も、火事も、色恋も、軽い。

歌がなければぺらっぺらだ。

でも歌でほとんどカバーできているのですが、「フリークス見世物問題」についてはやっぱりごまかした感が個人的には感じられました。

 

この作品で描かれる差別の図式って、

フリークスを個性と捉えて生かすバーナム達

VS

フリークスを忌み嫌い敬遠する差別主義者たち

 これだけなんですよね。

 

でも、本当にサーカスで描かなければならない差別ってそれだけじゃありませんよね。

「フリークスを好奇の目で見下す大衆、そしてバーナムの心」それこそがサーカスにおける差別問題のややこしいところであるはずです。

まあ、小人プロレスがなくなった経緯などから見て「そういう気持ちも受け取れる強さがあるものがプロとして舞台に立っているのだ。哀れみもまた逆差別でしかない」という回答が出せるとは思うのですが、それすらあまり触れられない。

やっぱりそれは逃げだよなあ……、こういう娯楽大作はそういうものだとは承知しつつもズルいと思ってしまいました。

 

引っかかった点①フィリップ不要問題

 フィリップって確か元々上流階級の中で劇作家として名を成していたんじゃなかったでしたっけ?

フィリップが入ってから劇にストーリー要素が入ってよくなった感じがしないんだよな。

『The Other Side』のウイスキーを使ったやり取りはこの映画の中でも特にかっこいいミュージカルシーンだっただけにそこが引っかかります。

 

極めつけは、火事のシーン。

フィリップは愛する空中ブランコ乗りアンを救いに燃え盛る劇場に入りますが、なんとアンは命からがら逃げていました。フィリップを案じたバーナムは自分も劇場へ。天蓋が崩落し、絶体絶命化と思われましたが、その後から影が。それは、フィリップを抱えたバーナムでした。

 

ここはさすがに笑っちゃいました。

1.フィリップ間抜けすぎ

2.バーナム強すぎ

 

ここは普通にバーナムがアンを救えばよかったんじゃないでしょうか。

バーナムにここで見せ場を与える意味が僕にはあまり感じられませんでした。

 

フィリップは物語の最後でバーナムから帽子を託され、後継者として指名されます。

そんな重要人物には、もう少し見せ場を与えるべきではないでしょうか。

 

番外編:アルコール演出

この映画って酒を飲む=仲間になるの象徴なんですよね。

 

 1.バーナムがフィリップを勧誘するシーン

 

2.劇場の前でうなだれるバーナムに対し、いつも彼を批判していた批評家が言葉をかけるシーン

 

3.バーナムのもとにフリークスが集まって再度興行を行うことを提案するシーン

 

バーンズの仲間として属する際、必ずウイスキーやビールを人々は飲むのです。

 

逆に、レティのことをバーンズは受け入れられなかった。なぜなら妻と子供がいるから。だから、あのシーンではシャンパンをぎりぎりまで注ぎつつも、酌み交わすことはなかったのです。

 

まとめ

キャッチとして掲げた問(最高のMV集は「映画」になりうるのか?)の答えですが、僕は「なりうる」と思います。

というか、この映画でなってしまったのです。

一昨年ごろから続く映画のMV化の流れ。『ララランド』『ベイビー・ドライバー』など数々の作品がその潮流に乗りつつも、まだ物語の力が半分以上の勢力を保っていました。

しかし、この作品――『グレイテスト・ショーマン』ではついに物語よりも「歌」が優ってしまった。そして、それで観客は感動してしまった。

ここまで来ても映画は映画たりつくのか。

ある意味、映画とそれ以外の淡いに向かって全速力で飛び込み、寸前で停止するチキンレースの結末を目撃したような気分になってしまいました。

ヒュー・ジャックマン、なかなかの怖いもの知らずです。

 

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