『いとしのアイリーン』漫画版 感想 85点
昨日映画版『いとしのアイリーン』を見ていたく感動したので早速漫画喫茶ポパイにて原作(全6巻)を読破した。
その感想をここにメモしておきたい。
映画と漫画とと一番大きな違いは、テーマの絞られっぷりだ。
映画のほうがテーマが絞られており、漫画のほうがテーマが多様であり、悪く言えば散漫な印象だった。
これは、映画という2時間の娯楽と年間単位で更新される漫画という媒体の違いとしてア・プリオリなものであり、漫画実写化作品は基本的にその方針で制作される。
そのため、吉田恵輔監督の映画化方針は誠に正しいものであったといえる。
また、特に新井英樹の場合、確信犯的に(誤用のほうの)テーマを四方八方に散らばらせるという作劇方法をとっている。
そのため、そのファンの多さや素材の身近さに反し、2018まで実写化が遅れたという側面も大きいだろう。
今の連載マンガって、第1話で主人公が何を目指すかわかるものじゃないと読者が食いつかない。俺は死んでもそれは描きたくないから、「もうマンガを描く意味がないよな」ってここ2週間くらい本気で考えていて。
──確かに、新井先生の作品は1話時点ではストーリーの全貌が何もわからないものばかりです。
「一体何の話?」って思わされる物語を描くのも読むのも好きだから。読者に「ついてこい」って言うのは傲慢なのかもしれないけど……。
映画は、原作の1~2巻と5~6巻をメインに構成し、3~4巻はエピソードをかいつまむにとどまっている。
そこで描かれるのは、岩男とアイリーンが「キス→シコシコ」にいたるまでの距離の詰め方である。
また、フィリピンパブの関西弁の女、マリーンや岩男の勤務するパチンコ店の社長といった映画ではあくまで物語の一部でしかなかったキャラクターの考えや背景がより描かれている。
特に描かれるのが、偏見や差別についての話だ。
ヤクザの塩崎にタンゴを踊らされ、唇を奪われるアイリーン。塩崎が去ったあと泣きはらし「ヒンディ ナマン ニラ マウウナワアン ワン ナサ カロオバン コ。(みんなにはどうせわかるはずない!! こんな気持ち)」と大声を上げる。
しかし、マローンに「アカラ コ バ マッグカサバ タヨン ダラワン マッグフホットゥホットゥ ナン ペラ サ マガ ハポン(あんたもあたしらも日本人から金搾り取ってる仲間じゃなかったんですか)」と鼻で笑われる。
庇護者であり被害者であったはずのアイリーンにあった「私は商売女ではない」という思い。それがまろーんに見抜かれることで、お金と性の交換という岩男とアイリーンの始まりが居心地悪く提示される。
これは映画にもあったシーンだが、よりアイリーンと岩男の不器用な恋愛と岩男のモンモンが長々と描かれる分、より意味が分かりやすく伝わってくるのだ。
さて、そうとは言いつつ、おれは映画よりも10点以上点を低くつけた。
結局それは、テーマが散らばりすぎて感動に注力できなかったからだ。
また、岩男が塩崎(ヤクザ)を殺してしまうのは5巻の後半であり、映画に比べてウエイトがだいぶ小さい。
また、岩男と愛子の情事が漫画のほうではだいぶバリエーションを持って描かれる(これは愛子の事情もまた映画より詳細に描かれるため)。
人を殺してしまったという重さで追い詰められ狂い行く映画の岩男とヤクザを10メートル以上放り投げ、でかすぎるマラで愛子に「腰が止まらない~~」と言わせる岩男。
安田顕は体格が岩男と違いすぎて演じ切れるか不安に思ったというが、その現実味こそが、映画では切実に、プラスに作用したと思う。
映画終盤のアイリーンとツル子だけの生活について、長すぎるという不評をいくつかの感想サイトで目にしたが、その”長すぎる感じ”も時間を観客が自在にコントロールできない映画独自のものであり、作品の切実さを提示する上ではプラスに作用していると思う。
とはいえ、
最後に最後に与えられた映画にはない「救い」。
カッコつきの救いではあるが、「親子愛」と「夫婦愛」が暴走し、衝突した作品の帰結として非常に美しく、こちらはリアリティが現実から浮遊した漫画でしか描かれえないものだったと思う。
その意味で、ラストシーンをカットした吉田監督の判断はまた英断であった。