裸で独りぼっち

マジの日記

『ハングオーバー!』 2009年に戻りたい…… 80点

※ネタバレがあります

TUTAYAのコメディ・コーナーに行くといまだに1~5位の棚に並んでいるのはこの作品だったりする。

でも、もう9年も前の作品なのか……。

I wanna be back to the 2009!!

 ストーリー

 2日後に結婚式を控えたダグ。

ダグの婚約者トレーシーの弟アラン。

ダグの親友で既婚のフィル。

歯科医で彼女の尻に敷かれるスチュ。

4人はラスベガスを目指していた。それは、バチェラーパーティ(結婚最後の夜に男たちで行うバカ騒ぎ)のため。

「この4人にカンパイ!」屋上で酒を酌み交わし、目覚めるとそこは惨状となっていた。

リビングにはニワトリ、トイレにはトラ。部屋はズタボロで。車はなぜかパトカーに。

そして、ダグがいない。残された3人は、二日酔い(ハングオーバー)ですっかり失った記憶を取り返すべく、探索を開始する!

f:id:hadahit0:20180305225415j:plain

 所感――化けたB級

 まず、ダグはあんまり物語に絡まないんだなということに驚いた。

初めの車の描写だと、ダグが唯一の常識人ポジションで、そいつがいないと物語がほとんど前進しないのでは><と考えたのだ。

しかし、サブタイトルどおりこれは消えた花ムコの話だった

(関係ないけどなんで、ちょっと陽気な空気を醸したいとき日本人は本来漢字の部分をカタカナにするんだろうな)。

ダグ亡き後は当初クレイジーなナンパ教師と思われたフィルが、ややしっかりもの成分を得て物語を引っ張っていく(とはいえパトカーで歩道で乗り出すシーンは酒という言い訳もないのにクレイジーだったがw)。

ジャケットは正直B級感が過ぎるなあ……。さすがヒットと署名運動がなければDVDセルがなかっただけある。

あんまり魅力的な3人には見えないし、赤ん坊がかなりのメインキャラに見えてしまう。

実際のところは前半のギャグの中心なだけでそれほど大きな役割を担うわけではないのだが……(赤ちゃんシコシコのくだりは怒られそうで良かった)。

町山智浩の解説によると当初は予算がもっと少なくトッド・フィリップス監督が監督量を放棄したことで大幅にシーンを盛り込めたらしいので(なんとトラも赤ちゃんもマイ〇・タイソンもなかったらしいのだ)、制作規模という本来の意味でもやはりこれはB級(少なくとも当初は)だといえるだろう。

そんな出自を踏まえると、よく化けたなあと思えるし、数倍面白く感じられる。そして何よりエンドロールの写真たち……。各所でいわれているが、あそこの「馬鹿な俺たち! 男の友情さーいこう」というのは「典型的なブロマンスだなあ」と思いつつも愉しい✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌

あれだよね、学生時代の仲間と深酒してソープに向かうときみたいな感じというか。

それを女性はやおい的に楽しんだりもするんだろう。

そういう状況が関西のインディーズお笑い界隈ではよく見られることは多数指摘されているので、ブロマンス×お笑いというのは海外でも日本でもハマる題材―最高のお好み焼きの具なんだなあと思う。

 

良かった点①予想できない展開

ライムスター宇多丸が続編の評でいっていたけど「ソリッドシチュエーションコメディ」なんだよね、これ。

つまり、『saw』とか『cube』に代表されるような、時間的・空間的な制約が設けられた状況の中で謎を解くという目的に向かうストーリー。それをコメディで描いている。

そのワクワク感で物語の牽引力は約束されたも同然だったのだなあ。

その分登場人物はバカやってわき道にそれることも可能だ。

ゴールが見えないので、登場人物がそれを妨げでも観客はストレスに感じない。

例えば警察に捕まってスタンガンの講習を受けさせられるシーンとかも実際は本筋と関係ないんだけど、その時点ではまだ何もわかっていないから集中してみるしかなく、その結果キンタマにスタンガンぶつけられてもだえるフィルの姿が見られたわけだ。

 

良かった点②スチュのラブコメ

旅先で酔っぱらったスチュは子(ジャケットの赤ちゃん)持ちのジェイドと結婚式を挙げてしまう。その相手は、ストリッパーながら、ブロンドの良い女で昨日会ったばかりの自分を愛しているようだ。

束縛的な恋人(しかも浮気性)のメリッサと比較するとさらによく見える。

酔っぱらったおかげで超良い女捕まえちゃったよとスチュに自分を重ね合わせて目をつぶってかけたルーレットで持ち金が10倍になったみたいな幸福感を感じることができる。

その恋がちょっと成就の兆しを見せる別れのシーンは、馬鹿バッカやってるブロマンス野郎どもの世界の中で一服の清涼剤のように香るのだ。

下手に真面目なラブコメ作品なら描写として薄すぎだろうが、この作品では逆説的にその恋愛の味が強く感じられて、後味が良かったのだ。

 

それほどでも……な点①1個1個のギャグは出オチ

アメリカと日本のコメディの違いとして「ツッコミ」の不在があげられるが、この作品でもやはりそれは顕著に出ていた。

スチュ「おい! アラン、〇〇やったのか??」

アラン「ああ、〇〇した」

スチュ、顔を抑えて嘆く

 こういうシーンがやたら多かった気がする。〇〇やったのか? と聞いて〇〇したと答えられても、笑いは増幅しないと思うのだ。

かといってツッコンでしまったら、映画を単なるバラエティにスケールダウンさせてしまう下手な方が担ってしまうけれど。

でも、

スチュ「おい! アラン、〇〇やったのか??」

アラン「ああ、〇〇した」

スチュ、顔を抑えて嘆く

アラン「そう悲しむなよ、ちゃんとスキンはしたぜ」

よりへこむスチュ

 みたいな会話へのもうひとひねりが足りなかった気がするのである。

 

それほどでも……な点②ダグがもっと見たかった

この作品では、ダグは最初と最後にしか出てこない。

まあ、ダグを探すのが物語の目的なのだから当たり前だ。

しかし、やっぱり仲間内で一番マトモでありながらカワイソーな展開になってしまうダグというキャラクターはもっと掘り下げても良かったのではないだろうか。

孤独で悩んでいる様子とか脱出するために苦心する様子をそこがどこかという決定的な事実は隠しつつ描写するとか。

この物語、ソリッドシチュエーションな展開づくりで話の推進力はあるとはいえ、謎解きにそれほど重点が置かれているわけではないのである程度ダグが見つかるめどがついいたら話が急に単純になってしまうのである。そこでダグの側の視点も盛り込めばより多彩なコメディが描けたのではないだろうか。

そもそもダグがほかの3人の誰とも一番関係を築けていただろうし。

 

まとめ

キングスマン』とか、現代のコメディ要素含みのハイテンションな作品は多かれ少なかれちょっとは『ハングオーバー』が作ったハイテンションの道を歩んでいるのではないだろうか。

この作品の、差別ギャグ(黒いダグとかアジアンマフィア・チャンとか)や下ネタ(最期の写真やおっぱい)は現代のそういった作品にこそありふれたものに感じる。

つまり、この作品がパイオニアなのではないか。

もちろん確証はないが。

だとすれば、公開当時(2009)に見たら、もっと革新的な面白さに感じられたのではないか。

そう考えると、2009年に戻りたい……

『シェイプ・オブ・ウォーター』90点 水の形を描く方法

君は、水の形を知っているかい?光の形は?
風の形は?そして、世界の形は?
知らないなら、受け入れればいい。
因みに君は、愛の形を知っているかい?

シェイプ・オブ・ウォーター』公式サイトより

http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/

 ゴスペラーズ安岡優のコメントが結構滑っている。

サイトを見てもらえばわかると思うが、俺はCharaもどうかと思う。

 

 

まあでも,、これほど気障なセリフを吐きたくなる気持ちもわからないでもないのだ。

それくらいベタで王道な物語なんですよこれは。

監督の発言から「美女と野獣」と比べられる声が多いようだけど、ある意味それくらい甘いディズニーアニメみたいなお話なのだ。


www.foxmovies-jp.com

所感―なるほどこれは王道だ

何が甘いって、本当に「主人公と異形の者の愛に始まり、愛に終わる物語」だということだ。

むしろ、それ以外は描かれていない。

一応、米ソの宇宙進出争いが背景にあるのだが、そんなものお伽話の道具立てでしかないかなり戯画化されたものだ。

 

その背景にあるのは、アカデミー賞大本命となっていることもうなずけるストレートなメッセージ。昨今の台風の目であるポリティカル・コレクトネスについて。

主人公は唖者で、同居人はゲイ。友人は黒人で、想い人は異形のものなのである。

ここまでイデオロギー性があると説教臭さやヤダ味がありそうなものだが、不思議とそれが感じられない。

 

それらを鑑みると、この作品がアカデミー作品賞大本命なのは実はそれほど驚くべきことではないのかもしれない。

 

ストーリー

1962年、アメリカ。政府の極秘研究所に勤めるイライザは、
秘かに運び込まれた不思議な生きものを見てしまう。

アマゾンの奥地で神のように崇められていたという“彼”の奇妙だが、
どこか魅惑的な姿に心を奪われたイライザは、周囲の目を盗んで会いに行くようになる。

子供の頃のトラウマで声が出せないイライザだったが、
“彼”とのコミュニケーションに言葉は必要なかった。

音楽とダンスに手話、そして熱い眼差しで二人の心が通い始めた時、
イライザは“彼”が間もなく国家の威信をかけた実験の犠牲になると知る─。

シェイプ・オブ・ウォーター』公式サイトより

http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/

 

良かったところ①「大人の」童話

前述のとおりアカデミー好みなメッセージ性を正しすぎるのにも関わらずこの作品が偽善的なオハナシとして観客の目に映らないのは、あくまで主人公と異形のものの愛を描くことだけに徹底した大人なバランスがあるからだ。

人物配置には意図が感じられるとは言え、物語の中で登場人物がテーマめいたものを話させられていると感じる場面はまったくない。

 

この話で最もそれに近しいのは主人公が異形の者を救う手伝いを同居人ジャイルズに依頼する場面だろう。「声の出せない私と異形の者である彼。どこが違うのか。彼を見殺しにするということは、私を殺すということではないのか」手話で必死に伝えるサリー・ホーキンスの演技が光る場面だ。

 

しかし、これは声が出せないまま行き、やっと愛するものを見つけた彼女の叫びとしては至極真っ当なもので、物語上の都合だけで話されているやな感じがしない。

 

また、この話には笑える場面も多い。

 

悪役ストリックランドと妻のセックスシーン。股間の白ボケを君は見たか?

ハゲを気にするジャイルズが異形の者のヒーリングパワーを期待する場面も、別れのウエットさを見事に脱臭してくれている。

主人公のオナニーシーンが冒頭にあるのも良い。性欲もある一個の人間が同じ境遇にあるものを恋愛感情込みですくいたいと考えている。

それはエゴだが、それゆえに信用できるのである。

 

良かったところ②ストリックランドの魅力

悪役ストリッグランドを見て思い出したのは映画史上屈指の名悪役『レオン』のノーマン・スタンスフィールド(ゲイリー・オールドマン)だ。

演じるのはマイケル・シャノン。『マン・オブ・スティール』のゾッド将軍役。

安物の飴を薬のように常備し、トイレでは用を足す前にしか手を洗わない。

家庭では良き父ながら、職場ではイライザを襲おうとする。

その気持ち悪さが、悪役としてちょうど良い。

なんというか、ちょうど現実離れしているのだ。

だからこそ、この話の世界観にピタリと当てはまる。

アカデミー助演男優賞にノミネートされるのは、リチャード・ジェンキンスもよかったけど、マイケル・シャノンじゃないかなあと個人的には思った。

もちろん、『ドリーム』『ギフテッド』など昨今の話題作で必ずと言ってよいほど好演を残しているオクタヴィア・スペンサーも良かった。

また亭主がほんとに情けないんだ。

 

おとぎ話なところたち

結局この話はどこがおとぎ話なのか、ポイントを列挙してみよう。

 

・映画全体の絵が華やかでテーマパーク的

・衣装が背景とマッチしていてかわいい

・秘密情報機関がマンガ的

・水のなかのシーンが幻想的

・仕事が楽そう

・子猫がかわいい

 

こうして考えると、美術がそのおとぎ話っぷりに大きく寄与していたことがわかる。

むろん、アカデミー美術賞・衣装デザイン賞にもノミネートされている。

 

やや?なところ

主人公と異形の者がいつ恋に落ちたかと異形のものの異常な回復力についてはやや疑問が残った。

ちょっとだけ意思疎通できるとはいえ、異形のものの知能は5歳くらいの感じではなかったか? セックスはできていたけど。

とはいえ、同じ境遇ということでイライザは自分を重ね合わせたということかな。

また、異形のものが電気びりびり棒で痛めつけられたときは相当弱っていたのに拳銃で胸を撃たれてもすぐ回復したのはやや納得がいかない。あ、ポケモンでいう水タイプということかな? 確かに少しシャワーズに似ている。

おそらく濡れているときはパワーがより強いということだとは思うけれども。

 

教えてほしいところ

主人公と異形なものが映画館で抱き合う場面で流れていた映画。エジプトかどっかで奴隷が労働させられていたけどあれはどういう意図で流されていたんでしょうか? マイノリティの悲哀ということ?

 

まとめ―水の形を描いたような

この映画は高いところから低いところへ流れる水のようにストレートな愛の話だ。

話の筋だけ見れば非常に単純で、どこにでもありそう。

でも、今までなかった。

それは大人のおとぎ話で愛を描くというのが、つかみどころのない、バランス感覚が非常に必要な作業だったからだろう。

それをギレルモ・デル・トロは描いたのだ。

まさに、水の形を描くみたいに。

f:id:hadahit0:20180304000119j:plain

 

ナイトクローラー 85点 盗映人間L.A.に現る

※ネタバレがあります

キャッチコピー:他人(ヒト)の<破滅>の瞬間に、カメラをもって現れる――

 

エラくストレートなキャッチコピーです。

上手いこと言ってはいないし、情緒的ではないが、

この映画のすべてを端的に表せている。

「<破滅>の瞬間」という言葉は最後に主人公が放つパンチラインでもあるのですが、何よりこのコピーが正しいのはまるで「怪物物のホラー映画のよう」なところです。

例えば以下のホラー映画と似てません??

キャリーをいじめないで! 彼女が泣くと恐しいことが起こる……

『キャリー』1977

目を覚ませナンシー!眠ると奴がやってくる!

エルム街の悪夢1984

 そう、この映画は怪物<盗映人間>目線のアメリカンサイコストーリーなんです。

nightcrawler.gaga.ne.jp

所感

そもそも盗映人間という言葉は数日前に読破したコンビニ人間パスティーシュで思いつきました。

hadahit0.hatenablog.com

人間性というレンズ。それを持った主人公の目線が新しいなーと思ったんですが、コンビニ人間の一年前に公開されたこちらの作品でもそのレンズは使われていましたね。

まあ要するに、サイコパス目線ということなんですが……。

主人公ルイスはパパラッチという仕事に飲み込まれ、その職務のためであれば人間としての禁忌も難なく犯す「盗映人間」。

彼の繰り返す言葉として、「仕事ですから」というものがあります。

その姿は、コンビニ人間のクライマックスで自身が「コンビニ人間だ」とはっきり自覚し、店員でもない店の棚整理や店員指導を行う主人公の姿に、僕の目には重なったのでした。

 

※補足

「仕事として禁忌を犯す」というとナチのゲシュタポなど非人道的なものになぜそのような行為を行えたのかと尋ねると「仕事だったから」と答えたという話が思い浮かびますが、それとルイスの「仕事だったから」はまた別のものを僕は感じます。

ゲシュタポの仕事は人に命令されてのいわば洗脳に近いものですが、ルイスは社長であり、明らかに自分の意志で「生きがい」を感じている。つまり、こいつは天職を見つけてしまったのですから。

 

ストーリー

L.A.の街で仕事もなく金網を盗んで売る生活を送っていたルイス(ジェイク・ギレンホール)。ある日彼は偶然居合わせた事故の現場で、事故や事件のスクープを生業としている映像パパラッチ<ナイトクローラー>と出くわす。その仕事にひかれたルイスは盗んだ自転車と引き換えに得たビデオカメラと無線受信機で自身もまたナイトクローラーになることを目指すのだった。カージャックの被害者の悲惨な姿を映し、テレビ局に持ち込んだルイス。視聴率争いに野心を燃やす女ディレクターニーナ(レネ・ルッソ)にその映像は買い取られることとなった。成功体験に味を占めたルイスは、住所不定の男リック(リズ・アーメッド)をアシスタントとして雇い、更に過激なスクープを撮影しようと画策する。 

 

良かった点①悪は悪のまま

この作品ですが、ルイスが実は人間的な心の内を持っていたとか、善と悪のはざまで逡巡するとか、そういうウェットな展開はありません。

決定的にドライで気持ち悪い<盗映人間>のままです。

そのままどんどん成り上がっていく。

また、この話は終始ルイスの視点から描かれます。つまり、正直ずっと共感はできないままw

それにもかかわらず物語に引き付けられるのは、脚本の力であり、ルイスの怪物性の魅力でもあるのではないでしょうか。

2015年に新たな<怪物>を生み出したという点で、この話は意義があると思うのです。

 

良かった点②覗き見る快感

僕は大学で芸術学を修めました。とはいえ、割と真面目に授業を聴いていた気がするにも関わらずほとんど内容は覚えておらず、これじゃテスト前だけノートを借りていた連中と何ら変わりないのですが……。

とはいえ、その数少ない経験で覚えているのが「窃視の快楽」という話なんですよね。

曰く、絵画・映像等の原初的な快楽として、覗きの快楽というのが分かちがたく存在する。

それすなわちサスペンスなんですが、この映画なんてその快楽の波状攻撃ですよね。つまり、最も原初的な映像の快楽を味わえる映画という意味では、王道なのかもしれません。

 

謎な点①ルイスはなぜニーナを抱いた?

ルイスは物語の中盤でスクープと引き換えに自分よりも一回り年上のニーナを口説き、それが通用しないとなれば脅し、体を差し出させようとします。

最初は「なるほど、権力者に取り入ってもっと儲ける腹だな」と思っていたのですが脅しまでいくとニーナに取り入ることはできません。

ということは、ルイスは本当にニーナを抱きたかったのでしょうか。

正直そんな人間的な欲がルイスにあるとはどうしても思えないのです。

ということは、やはりルイスはニーナに取り入ろうとしていた?

物語の終盤でスクープを持ってきたルイスをニーナはほめそやします。

f:id:hadahit0:20180301222524p:plain

ありがとう。

なんていうかすばらしい。本当に素晴らしいわ

お礼を言うのは私よ

 これはつまり抱いたことでやはり心をルイスはつかんでいたということ?

何とも言えない気持ち悪さの残る描写でした。

 

良くない点①ちょっとルイスに都合がよすぎる

ルイスはストーリーの通りどんどん出世していくのですが、1人でカメラ機材も大したことないのにどうしてあんなに出世できるのか疑問でした。

最期の最悪の姦計も、あまりに偶然に頼りすぎている気がします。

ルイスが撃たれてもおかしくない場面でしたからね。

もう少しパパラッチとして出世することに説得力を持たせる描写ができたらなおよかったのではないかと思いました。

ルイスが怪物で物おじしないからというのはもちろん大きな理由ではあると思うのですが。

 

まとめ

それこそ公開当時から気になっていた映画でしたのでこうして約3年越しに見ることができて満足です。非人間(ひとにあらざるもの)として夜を泳ぎたいときにご覧ください。

 

f:id:hadahit0:20180301223152j:plain

 

 

グレイテスト・ショーマン 90点 ”最高のMV集は「映画」になりうるのか?”

※ネタバレがあります

 

この予告編を見てサントラを聞けば、大体この映画が好きかどうかは判断できます。

映画を見て、「予告編って全部の映画が面白く見えるよな~、ほかの映画もこうならんかね……」。そう感じた経験って誰しもあると思うんですね。

それでいうと、この映画は予告編のテンションをいかに切らさずに作るかという狙いが強い。

 

予告編がなぜ良く感じられるかというと、映像という媒体のおいしいところがフル活用されているからです。

物語の見せ場をつなぎ、前編にわたってテーマ曲がそれを彩る。

20秒、いや15秒ごとにキメ、キメ、キメの連続。

そう、予告編とは、壮大なお金をかけたMVに近い。

MVも予告編も、プロモーション映像という意味ではほとんど同じですし、きっと引っ越しの際には同じ段ボールに詰め込まれることでしょう。

 

この作品は、最高のMV≒予告編をいかに効率よくつなぎ合わせるか、そこに主眼を置いて制作されていると思うのです。

 

ストーリー

これは、19世紀半ばのアメリカでショービジネスの原点を築いた伝説の興行師(ショーマン)P.T.バーナムの物語。貧しいバーナムは使用人宅の娘に恋をし、彼女との間に2人の娘を作る。そして、彼女たちのアイディアにヒントを得て、ひげ女や小人症の少年、巨漢やのっぽ、有色人種など社会から奇矯な視線を向けられるもの――FREAKSを集めてショーを開くことにしたのだった。彼のショーはたちまち人気を集め、地域中の評判となる。バーナムはさらに上流階級にも受け入れるため、名高い劇作家フィリップに声をかけることに――。

 

良かった点①歌

冒頭のサントラを聴きましたか?

あれは違法なやつなんでしょうか? まったくけしからん! たまらん! 

『ララランド』の音楽チームということです。ディミアン・チャゼル監督は若き大天才ですが、音楽チームも同じかそれ以上に至高の才能っていうのがよくわかりますね。

 

正直この映画は、曲の魅力が半分以上を占めている!

 

それも意図的にそういうバランスにされていると思います。

逆に言うと、物語の魅力はあまりありません。つまらないとかじゃなくて、あえて物語的な盛り上がりはそれほどのテンションで発生しないように明らかに調整されているのです。

 

この作品、主人公バーナムが落ち込む場面が極端に少ないんですよね。

例えばバーナムは貧困の生まれで、かっぱらいまでしなければ食っていけないほどの生活をしていたわけです。で、そこから何とか職を得て夢に向かって走り出す。

そこまで10分もかかりません。

普通の話であれば使用人のバーナムとお嬢様である妻がくっつくまでに何個か障害を乗り越えるさまを描くわけですが、この映画はそこを大胆にショートカットしてしまう。

2人の交流は、歌に合わせて映像化された手紙の交換だけ。

それだけで家柄や距離の障害をどうやって乗り越えたのか冷静に考えると疑問です。

でも、気にならないんですよね。

なぜなら、歌の力があるから。

 

 この『A million Dreams』が骨組みだけの恋愛に、なにか気持ちのようなものを与えてしまうんですよ。

もちろん骨組みだけなのでよくよく考えたらなぜ結婚したのかだれも答えられないんですが。

ほかに、サーカス小屋は燃え、妻も娘も実家へ帰ってしまうという最悪の状況に陥った場面でも、やはりバーナムはほとんど落ち込んだそぶりを見せない。

せいぜいちょっと酒を飲んで寂しそうな面をするくらいです。

そして、すぐ歌が始まる。

 

こういう物語の底を描かないことのデメリットは、要するに起伏が亡くなってしまうということです。起伏とはカタルシスの根幹ですから、この映画には物語がないといえてしまう。

だから、批評家筋の評価はそれほど芳しくないんでしょう。

 

でも、『グレイテスト・ショーマン』には明らかにカタルシスがある。特にアカデミー音楽賞にもノミネートされている『This is me』なんて最高ですよね。

マイノリティー集団が私は私だと叫ぶ心をこの上ない映像と音楽と演技の三位一体で表している。

 だからこそ、この話はMV集との誹りを免れ得ないわけで、それでも観客を集めてしまうわけなんですね。

 

良かった点②効率のみを重視した脚本のうまさ

 

blog.monogatarukame.net

 このブログの評論には膝を打つことが多いのですが、でも「映画の技術が下手」という意見にはやや自分は疑問符を浮かべます。

旧来の考え方では下手、というかカタルシスがないけど、それは作り手に完全にコントロールされた結果の物語不在なので、やはりこの映画は「上手い」のではないでしょうか。

この映画の脚本を一言でいうとウィダーinゼリーです。味は薄いし香りもないけど、不味くはないしきちんと栄養が補給できる。10秒でチャージして、夢中になれる別のこと――この場合はMVゾーン――に向かうことができる。

特にうまいなと思ったのが家が焼けて落ち込んだバーナムのもとにフリークスが寄り集まって結束が高まるシーン。

この数シークエンス前でバーナムはどんどん野心にとらわれてフリークスを締め出す嫌な奴として描かれるんですよね。これを見ている僕らは、「なるほど、これが原因で仲間割れなど生じて痛い目に合うんだな」と思います。しかし、その予想は大外れ。

バーナムは上流階級に取り入るために始めた歌の興行に夢中になり、その歌い手(レティ)に惚れられ拒絶したことと、心ない差別主義者の放火によりすべてを失うんです。

なんだか話が明後日の方向に行ってしまったな……。

そう思ったところでフリークスがやってきて、ひげ女がこういいます。

「あんたは金もうけだけを考えていたかもしれないが、それでも居場所のない私たちに居場所を、仲間を作ってくれた! ほかに行くところなんかないんだよ!」

この一言で、バーナムのフリークスないがしろ問題解決されちゃうんですよね。そして、フリークスが結束したことで破産したことが解決する流れも確定する。さらに、フリークスに対する差別という重い問題も放火という重い結果で相殺してなかったことにできる。

正に三重殺!!

こういう描き方をしちゃうと結局どの問題も大したことなかったのでは?

なんだこの話と思われる確率が非常に高まるのですが、そこは歌でカバーできるのです。

完全に歌に依存している。逆に言えばそこまで歌を信じている。

そう考えると、つまりこの作品は「旨くないからこそ上手い」まさに職人芸の脚本で成り立っているといえるのではないでしょうか。

 

引っかかった点①差別問題スルー

 前述のとおり、この話は様々な問題をほとんどスルーするか、さらっと一言で解決して進んでいきます。

だから、貧困も、火事も、色恋も、軽い。

歌がなければぺらっぺらだ。

でも歌でほとんどカバーできているのですが、「フリークス見世物問題」についてはやっぱりごまかした感が個人的には感じられました。

 

この作品で描かれる差別の図式って、

フリークスを個性と捉えて生かすバーナム達

VS

フリークスを忌み嫌い敬遠する差別主義者たち

 これだけなんですよね。

 

でも、本当にサーカスで描かなければならない差別ってそれだけじゃありませんよね。

「フリークスを好奇の目で見下す大衆、そしてバーナムの心」それこそがサーカスにおける差別問題のややこしいところであるはずです。

まあ、小人プロレスがなくなった経緯などから見て「そういう気持ちも受け取れる強さがあるものがプロとして舞台に立っているのだ。哀れみもまた逆差別でしかない」という回答が出せるとは思うのですが、それすらあまり触れられない。

やっぱりそれは逃げだよなあ……、こういう娯楽大作はそういうものだとは承知しつつもズルいと思ってしまいました。

 

引っかかった点①フィリップ不要問題

 フィリップって確か元々上流階級の中で劇作家として名を成していたんじゃなかったでしたっけ?

フィリップが入ってから劇にストーリー要素が入ってよくなった感じがしないんだよな。

『The Other Side』のウイスキーを使ったやり取りはこの映画の中でも特にかっこいいミュージカルシーンだっただけにそこが引っかかります。

 

極めつけは、火事のシーン。

フィリップは愛する空中ブランコ乗りアンを救いに燃え盛る劇場に入りますが、なんとアンは命からがら逃げていました。フィリップを案じたバーナムは自分も劇場へ。天蓋が崩落し、絶体絶命化と思われましたが、その後から影が。それは、フィリップを抱えたバーナムでした。

 

ここはさすがに笑っちゃいました。

1.フィリップ間抜けすぎ

2.バーナム強すぎ

 

ここは普通にバーナムがアンを救えばよかったんじゃないでしょうか。

バーナムにここで見せ場を与える意味が僕にはあまり感じられませんでした。

 

フィリップは物語の最後でバーナムから帽子を託され、後継者として指名されます。

そんな重要人物には、もう少し見せ場を与えるべきではないでしょうか。

 

番外編:アルコール演出

この映画って酒を飲む=仲間になるの象徴なんですよね。

 

 1.バーナムがフィリップを勧誘するシーン

 

2.劇場の前でうなだれるバーナムに対し、いつも彼を批判していた批評家が言葉をかけるシーン

 

3.バーナムのもとにフリークスが集まって再度興行を行うことを提案するシーン

 

バーンズの仲間として属する際、必ずウイスキーやビールを人々は飲むのです。

 

逆に、レティのことをバーンズは受け入れられなかった。なぜなら妻と子供がいるから。だから、あのシーンではシャンパンをぎりぎりまで注ぎつつも、酌み交わすことはなかったのです。

 

まとめ

キャッチとして掲げた問(最高のMV集は「映画」になりうるのか?)の答えですが、僕は「なりうる」と思います。

というか、この映画でなってしまったのです。

一昨年ごろから続く映画のMV化の流れ。『ララランド』『ベイビー・ドライバー』など数々の作品がその潮流に乗りつつも、まだ物語の力が半分以上の勢力を保っていました。

しかし、この作品――『グレイテスト・ショーマン』ではついに物語よりも「歌」が優ってしまった。そして、それで観客は感動してしまった。

ここまで来ても映画は映画たりつくのか。

ある意味、映画とそれ以外の淡いに向かって全速力で飛び込み、寸前で停止するチキンレースの結末を目撃したような気分になってしまいました。

ヒュー・ジャックマン、なかなかの怖いもの知らずです。

 

f:id:hadahit0:20180226221918j:plain

『コンビニ人間』感想 非人間性というレンズで、人間性を映す

コンビニ人間は、第155回芥川賞受賞作です。

f:id:hadahit0:20180224235527j:plain

購入方法:Amazon

 

ストーリー:

内容(「BOOK」データベースより)
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。

 

芥川賞といえば純文学ジャンルにおける新人賞なわけで、その新奇性が重視されるというのは小説というメディアが、多様化&地盤沈下してかつてのそれとは大きく意味を変えてしまっている現在においても変わらない部分だと思います。

 

では、この作品の新奇性は、どこにあるのか。

 

それは、「非人間的な視点」だと思います。

 

コンビニ人間』というタイトルは、『妖怪人間』とか『人造人間』みたいなもので、人間とつくものの、人間性よりもむしろ人間性が強調された結果としてのタイトルだと僕は思います。

 

この作品は主人公の一人称に始まり、一人称に終わります。

感覚や生理反応はあれど、人間としての感情があるとは到底思えない彼女。

 

18年間コンビニバイトで、そのことに何の疑念も抱いておらず、

結婚や交際への願望もなく、

食事は過熱した野菜と米だけ。味が欲しいときには醤油をかける。

 

小説の歴史を総覧したことはないのですが、基本的には「人間」を描くものとして小説に接している僕たちは、宇宙人もしくは無機物のような彼女に戸惑います。

 

しかして、そんな彼女に戸惑う周囲の人間に共感しつつも疑問を抱かされるのです。

 

この話の中で主人公である恵子と対比されるのが、コンビニバイト先に入ってきた婚活目的の新入り白羽。

 

これまでのいわゆる文学の流れからすれば、社会というものに疑念を抱き苦しみを吐露するクズaka.白羽こそが視点人物だったでしょう。

 

しかし、この話の主人公はコンビニ人間なのです。

そのような「人間」的な悩みは「コンビニ」的な視点から見れば、あってもなくても同じだ。

 

全く共感を含まずに、主人公は白羽を取り扱い、すなわち彼の悩み=文学がかつて主題として描いてきたものは相対化のエアポケットに吸い込まれて雲散霧消してしまうのでした。

 

この小説の単行本の表紙は、現代美術作家金氏徹平氏の『溶け出す都市、空白の森』の一部に収録された作品。

 

モノリスのような無機質な棟から色とりどりの煙が噴き出したり、パイプが突き出してそこから紐が垂れ下がっていたり、懐中電灯を手にした人の手が突き出したりしています。

 

これは、言わずもがな主人公である恵子を意味しているのでしょう。

きわめて非人間的な何か。

そこから噴き出る何かに我々は何か人間的な意味を見出そうとしてしまうが、実際にはそれはただその物体の中の論理で噴き出ているだけで、意味などない。

あるにしても、我々の理解できるようなものではない。

 

この作品、このようなテーマを笑える形で描いているのが良いな、と思います。

笑って緊張と緩和です。

つまりこれで笑えるってことは、僕たちは普段緊張してるってことなんですよね。

だから笑えるし、だからちょっと心が心地よい。

 

1日で、一気に読んでしまった小説でした。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

 

尾木ママはなぜ「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」と言ったのか?

headlines.yahoo.co.jp

↑参考記事

 

国語が得意でした。

国語が得意な人間にありがちなことに、まったく勉強しなくても点数が取れました。

その理由は、これまたありがちなことに幼少期から活字中毒で、新聞・雑誌からエッセイ・テレビ欄に至るまで夢中で目を通していたからで、なによりも小説を読んできたから。

 

で、その経験をもとにエビデンスなく語ると、国語力というのは極めて「パターン認識」能力に近いでしょう。

 

国語が得意だった人は覚えがあるのではないでしょうか?

問題を読んだ時点である程度答えが読めた経験について。

例えば以下の例をご覧ください。

 

以下の文章を読んで、30字以内で問いに答えなさい。

 

故郷
 昨年の夏、私は十年りで故郷を見た。その時の事を、ことしの秋四十一枚の短篇にまとめ、「帰去来」という題を附けて、或る季刊冊子の編輯部へんしゅうぶに送った。その直後の事である。れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹陋屋ろうおくへ訪ねて来られた。そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心、予期していた事であったが、こんなに早く来るとは思わなかった。昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんやあによめおいめい、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決して病人ではなかった。もう五、六年はたしかだ、いや十年、などと私は慾の深い夢を見ていた。その時の事は、「帰去来」という小説に、出来るだけ正確に書いて置いたつもりであるが、とにかく、その時はいろいろの都合で、故郷の生家にける滞在時間は、ほんの三、四時間ほどのものであったのである。その小説の末尾のほうにも私は、――もっともっと故郷を見たかった。あれも、これも、見たいものがたくさん、たくさんあったのである。けれども私は、故郷を、チラと盗み見ただけであった。再び故郷の山河を見ることの出来るのはいつであろうか。母に、もしもの事があった時には、あるいは、もういちど故郷を、こんどは、ゆっくり見ることが出来るかも知れないが、それもまた、つらい話だ、というような意味の事を書いて置いたはずであるが、その原稿を送った直後に、その「もういちど故郷を見る機会」がやって来るとは思いもうけなかった。
「こんども私が、責任を持ちます。」北さんは緊張している。「奥さんとお子さんを連れていらっしゃい。」
 昨年の夏には、北さんは、私ひとりを連れて行って下さったのである。こんどは私だけでなく、妻も園子(一年四箇月の女児)もみんなを一緒に連れて行って下さるというのである。北さんと中畑さんの事は、あの「帰去来」という小説に、くわしく書いて置いたけれども、北さんは東京の洋服屋さん、中畑さんは故郷の呉服屋さん、共に古くから私の生家と親密にして来ている人たちであって、私が五度も六度も、いや、本当に、数え切れぬほど悪い事をして、生家との交通を断たれてしまってからでも、このお二人は、わば純粋の好意をもって長い間、いちどもいやな顔をせず、私の世話をしてくれた。昨年の夏にも、北さんと中畑さんとが相談して、お二人とも故郷の長兄に怒られるのは覚悟の上で、私の十年振りの帰郷を画策かくさくしてくれたのである。
「しかし、大丈夫ですか? 女房や子供などを連れていって、玄関払いを食らわされたら、目もあてられないからな。」私は、いつでも最悪の事態ばかり予想する。
「そんな事は無い。」とお二人とも真面目まじめに否定した。
「去年の夏は、どうだったのですか?」私の性格の中には、石橋をたたいて渡るケチな用心深さも、たぶんにるようだ。「あのあとで、お二人とも文治さん(長兄の名)に何か言われはしなかったですか? 北さん、どうですか?」
「それあ、兄さんの立場として、」北さんは思案深げに、「御親戚のかた達の手前もあるし、よく来たとは言えません。けれども、私が連れて行くんだったら、大丈夫だと思うのです。去年の夏の事も、あとで兄さんと東京でお逢いしたら、兄さんは私にただ一こと、北君は人が悪いなあ、とそれだけ言っただけです。怒ってなんかいやしません。」
「そうですか。中畑さんのほうは、どうでしたか? 何か兄さんに言われやしませんでしたか?」
「いいえ。」中畑さんは顔を上げ、「私には一ことも、なんにも、おっしゃいませんでした。いままでは私が、あなたに何か世話でもすると、あとで必ず、ちょっとした皮肉ひにくをおっしゃったものですが、去年の夏の事に限って、なんにも兄さんは、おっしゃいませんでした。」
「そうですか。」私は少し安心した。「あなた達にご迷惑がかからない事でしたら、私は連れていってもらいたいのです。母に、逢いたくないわけは無いんだし、また、去年の夏には、文治兄さんに逢うことが出来ませんでしたが、こんどこそ逢いたい。連れていって下さると、私は大いにありがたいのですが、女房のほうはどうですか。こんどはじめて亭主の肉親たちに逢うのですから、女は着物だのなんだの、めんどうな事もあるでしょうし、ちょっと大儀がるかも知れません。そこは北さんから一つ、女房に説いてやって下さい。私から言ったんじゃ、あいつは愚図々々いうにきまっていますから。」私は妻を部屋へ呼んだ。
 けれども結果は案外であった。北さんが、妻へ母の重態を告げて、ひとめ園子さんを、などと言っているうちに妻は、ぺたりと畳に両手をついて、
「よろしく、お願い致します。」と言った。
 北さんは私のほうに向き直って、
「いつになさいますか?」
 二十七日、という事にきまった。その日は、十月二十日だった。

 

問.「「そうですか。」私は少し安心した。」

この部分で、なぜ筆者は安心したのでしょうか? 

 

この問題を見て思うこと①

太宰治か~。わかりやすい題材でよかった。「なぜ」の質問か、ということは「~から」で回答か。

 

この問題を見て思うこと②

→とりあえずこの一文を探して直前の部分だけ読んでみるか。はは~ん、兄が怒ってないから安心したわけね。兄のこと気にし過ぎやねw 一応頭から読み返して流れをつかみつつ確認しょ。

 

この問題を見て思うこと③

→なるほど、親ともめてたわけか。で、親御さん重体やから帰るわけね。やっぱり太宰は人間失格いうだけあって家族の怒りを買ってたんやなあ。

 

回答

兄が、自分の前回の帰省の際、怒っていなかったとわかったから。

 

このように、国語の問題の解答というのはかなりシステマティックなのです。

「何が回答として求められているか」を読みとき、その前後の文脈からあたりをつけ、全体を読み込んで推測を確信に変える。

 

そこにあるのはパターン認識能力と論理性であって、人の心に共感する能力ではありません。

 

まあ何が言いたいかっていうと、とどのつまりいじめと国語力は関係ないってことです。

ただ、いじめを発覚させないようにする能力は、国語力とかかわるかもしれません。

国語力とはすなわち、先生が望むような答えのパターンを読み取る能力であるとも言えるからです。

それが、尾木ママに「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」と発言させた因子ではないでしょうか。

 

国語が得意な者に騙されるな、僕はむしろそういいたい。

ただ、それも偏見を助長することにつながる恐れがあるので、公の場で発言することは控えるでしょうが。。。

f:id:hadahit0:20180224195241j:plain

 

 

 

スリービルボード 8?点 変な話ー! ※ネタバレ

今年のアカデミー賞6部門にノミネートされた話題作。

でもそのどこかしら権威的な響きとはどちらかといえば真逆の印象を与える作品でした。

変な話、、、

www.foxmovies-jp.com

f:id:hadahit0:20180221224702j:plain

 8?点

 

あらすじ

田舎町の通り、迷い込んだものかよほどの田舎者しか通らないその農道(ポスター右下の道)に、3枚の看板が掲げられた。

 

「レイプされ、殺された」

「なぜ? ウィルビー署長」

「そして、まだ逮捕されない?」

 

赤い背景に黒文字でデカデカと掲げられたその文言を見た暴力警官ディクソンは、すぐさま看板を取り下げさせようとし、ウィルビー署長に連絡を入れる。

 

看板を掲げたのはミルドレッド・ヘイズ。彼女の娘は7ヶ月前にレイプされ、殺されたのだった。しかし、犯人はいまだに見つかっていない。その現状に業を煮やした彼女は看板を掲げることにしたのだった。ニュースに取り上げられるなど看板への反応も生じ、事態は少し進展したかのよう。

反対に警官たちは脅しすかして看板を取り下げさせようとする。

ウィルビーにも事情があった。

癌に体が侵され、余命いくばくもないのだ。

 

所感

この話、上記の通り、7割くらいはコメディなんです。それも、監督・脚本マーティン・マクドナーのイギリス的なセンスを生かしたオフビートで意地悪い会話劇が中心な。

 

「おい、あれ(「ウィルビー署長はどうした?」の看板のこと)名誉棄損にならないのか?」

「なりませんね。問いかけですから」

「畜生。お前はくそ野郎だな」

「ちょっとなんですか、それ」

「問いかけだ」

 こういった具合の。

露骨に人種差別をする人物も出てくるし、小人症の人物も出てきて露骨に差別を受けたりもする。

それは主人公だって例外ではないし、最低の差別主義者が善をなすこともある。

そういう人間の多重性がぽんぽこでて来ます。かといって「人間とは一様ではないんですよー」と説教する感じではなく、「人間なんてそんなもんなんだよ。良い人が悪いことをすることもあれば、悪い人がいいことをすることもある」といったスノッブな書き味が強いです。

ただ、その波状攻撃が続くと、ヒューマンドラマの味がゆっくりと沁みてくるのもまた事実。最後にはなんというか、YaYaYaな展開になるのですが、「なんとまあ、人間とはわからんもんで、好きだ嫌いだなんてそいつの一側面に対して思っているだけにすぎないんだな」と僕たちは思うことになります。

 

良い点①ジャンルレスで独自性の強い話運び

いろいろな感想・評論でいわれているでしょうが、この作品、何せ思ったような展開になりません。

なるほど、こいつは最低のくそ野郎というキャラクターなんだな、と思った人物が意外とかわいい人格を見せたり、人間的成長を遂げたり。

こいつを支持したいと思った人物が、とんだ頑固者に見えてきたり。

またそれが逆転したり。

とはいえ、泣かせようとする展開が急にバイオレンスになったり、という露骨なジャンルまたぎはありません。基本的にはオフビートなノリに満ちたタダの話、がずっと流れます。

 

良い点②筋が通っている

この話、監督・脚本のマーティン・マクドナーが有名な劇作家であることもあって脚本の完成度に定評があるのですが、それだけあって、よくある投げっぱなし展開や首をかしげる描写がありません。

たとえば、主人公ミルドレッドが歯医者の指にドリルで穴をあけるというエピソードがあります。よくある緩い脚本だとこのくだりは過ぎ去ったお話としてスルーされてしまうのですが、スリービルボードではちゃんと警察に連れいかれる。

ほかにも、看板に火が放たれる展開があるのですが、きちんと燃え上がった看板は主人公が決死の覚悟で消火スプレーをかけても使い物にならなくなる。

そういう点に筋が通っているというのは、意外と大切なことだと思うのです。物語の厚み・信頼性を左右するのは、そういった細部に宿る神なのです。

 

悪い点①熱中がしずらい

この話は、先が読めません。つまりは、変な話です。

それって面白いってことでもあるのですが、なんか宙ぶらりんな感覚が熱中を妨げるというのもまた事実なのです。

予測不可能な展開といっても

「オオ……! こういう話しね。ということはこうなるのかなー。お、違うのか。おお! なるほどこういう展開にしてきたのか!」

という展開ではなく

「なんじゃこれ、変な話。変だなー。変だ。なるほど、こういう意図か。え、つぎはどうすんの?」

という展開なのです。そのため僕みたいな評論家気取りは予想しづらい。

監督が天才すぎるのかもしれない。