裸で独りぼっち

愉快な毎日の記録

正に寝言

俺は今までガールズバンドねごとにまた区興味がなかったのだがアルコアンドピースの乃木坂の中田加奈がやっている『沈黙の金曜日』というラジオにゲストとしてやってきたことからどうにも興味がわいてきた。そこで彼女らの曲をYOUTUBEで聞きまくる——なんてことはなく、そう思ったということをただただ文章にしたためる。

 

これが俺のインスタグラム。

これが俺の俳句。

 

ともかく何がよかったかというと曲に疾走感があるからや。あと最近のEDM風潮に全乗っかりしてる感じね。それでいてスピッツのカバーでは変にいじってないのでお、この人らはばあんなって思う。

 

あーつまらん。

Apetoma

切実にもっと考えるのを辞めたい。

 

俺がかねてからキルギスの礼拝堂のようにだれにも見えない場所に打ち立てている考えとして、「人間サル—機械論」というものがある。

 

人間を、サルと機械に分ける考えだ。

 

来るべきときに向けて脳を垂れ流す手習

本を読みすぎると紋切り型の表現しかできなくなる。

だから今日の空模様は雲龍が泣いているようだし、

テレビの真っ黒な画面に映る俺は俺をにらんでいるようだし、

福引で当たった幸福の木は飼育主のズボラによりしおれることを予期して

諦めと倦怠を全身で表現しているようだ。

 

どれも、これも、大袈裟だ。

 

そういえば俺は大袈裟という言葉を頭に思い浮かべるときどうしても((だいきれつ))って読み仮名で思い出してしまうんだな。

そういうこと、君らにはないんだな?

 

……ってこれじゃ、ホールデンコーフィールドじゃなくて山下清だ。

 

こう考えるのは山下清に失礼かもしれないし、なんなら知的障碍者に対するポリティカリー・コレクトネス的にもアウトかもしれないけど。

 

政治は嫌いだ。

 

文章を垂れ流す楽しみは小便を垂れ流す喜びに酷似している。

 

文章を垂れ流す欲望は小便を垂れ流す欲望に酷似している。

 

だから、射精した直後はちょっとむずがゆくて、つんとするような感覚を催させるんだぜ。

2017年29号ジャンプ感想

『巻頭グラビア 中井りか

この人あんまり美少女じゃなくない?

なんや儂の好みとちやうだけかもしれんけど。

 

とりあえず濃すぎるキャラは置いといて今日はさらっとオーガニック♡

 

という謎のキャッチコピー。

なんなん。この人のイメージカラーなん?

 

まあグラビアのキャッチコピーだいたいわけわからんけど……。

 

『BUNGO』

こちらのカラーページキャッチコピーは

 

成長は独りにしてならず

 

にもかかわらず、BUNGOが動機との紅白戦でただ一人のBチームとして対決する展開。

 天才のつるべ打ちマンガなのに、まだあんまり破綻を感じないのはどうしてだろう?

 

東京グールRe

東京グールは読みにくくてもはや読んでないからいうことがないな。

 

・専門的中二用語が多い(『黒山羊』『CCG』など)

・キャラがやたら多い

・表現が抽象的・詩的

 

上の3つが悪い。いや、いい部分でもあるとは言え読みにくい。

毎回初めに専門用語一覧を作ってくれ。

Twitter画展もええけども。

 

キングダム

キングダムは史実に基づいてるし毎回そつがないからいうことがないな。

 

うまるちゃん

なんか今回は面白かった。

たぶん俺は物語にシンプルで明確な目的がないと楽しめないんだろうな。

今回は「うまるがタイヘイのパスワードを突き止める」という目的が設定されていたからすごく読みやすかった。

結局うまるのパスワードでした、ていうのが手っ取り早く良い話+キャラ萌え展開にするにはよいと思うんだけど、結局答えは「DOMATAIHEI」。

つまりこの漫画は妹萌えマンガのようで、兄自体は特に通常を逸脱した家族愛、ましてやれない感情めいたものなんて抱いてやしない。

これはうまるちゃんをはじめからずっと読んできた人には当たり前のことかもしれないんだけど、だからこそ、ずっと見てられる清潔感がこの漫画にはあるのではないか。

とどのつまり、「妹」とタイトルについてはいるが、この漫画は妹マンガではなく、キャラマンガなんだね。

 

ゴールデンカムイ

冒頭のハナイグチ(キノコ)の印象しか残らん。ここ最近のホモ、というか薔薇なネタにはとてつもない「趣味」を感じるな。

 

源君物語

おっぱいがでてた。それだけ。

 

うらたろう

ばらばらになった恋人の人体を集めるという。よく考えると『どろろ』の亜種みたいな話だな。

 

ヤンジャンには思想がない

ヤンジャンの漫画って全部「娯楽」っていう感じがすごい。

いや、漫画は全部娯楽なんだけど、特に作者の我が感じられないというか、「自己表現」というより「読者を楽しませたい」という作品が「週刊少年ジャンプ」以上に多い気がする。

別に良いけど、一個くらい強烈な思想を感じさせる漫画を実験枠で入れてみても良いと思うな。

 

 

ヤングジャンプ 2017年 6/29 号 [雑誌]

ヤングジャンプ 2017年 6/29 号 [雑誌]

 

 

いつか言いたい『Char 視線』―はだかになるだけがおまえのとりえさ

はだかになるだけがおまえのとりえさ

 Charというミュージシャンがいる。

ギターの名手として有名で、自身で歌唱、作詞、作曲などもこなすマルチプレーヤーだ。

有名ナンバーとしては『smorky』や『気絶するほど悩ましい』があげられるだろうか。

 

 

 

ともかく、そのうち『Smorky』と同じく『Char』の名を冠したセルフタイトルアルバムのうちの一曲、『視線』を俺は世間に広く紹介したいのだ。

 

 

タイトな演奏力が光るアルバムの中で比較的ゆるいムードを醸すこの曲の唄いだしの歌詞はこうである。

 

 おまえはいつだって ねむってるときだって

オレの視線を 気にしてるんだろう

 

 なんて自意識過剰な奴だ。

だが、この次こそがパンチラインである。

 

裸になるだけが 女じゃないのに

 

ここから軽快なフレーズがかき鳴らされる。オーイエー。

これが、2017年に発売されたと考えてほしい。

フェミニストが怒り狂って抗議の電話をいれるのではないか。

 

だが、ご機嫌なCharは手加減などしない。

 

細腕にナイフじゃ 虫も殺せやしない

ましてこのオレには ハモノは役立たず

 強い・・・!

いろんな意味で強い。

強烈な男性性である。

こんなセリフを堂々と言えるのは範馬裕次郎か冴羽獠くらいではないか。

 

そして、最後の歌詞でボルテージは最高に達する。

 

裸になるだけが お前のとりえさ

 

……結局それだけがとりえなんかい!

思わずそう突っ込んでしまうが、それほど嫌な気持ちはしない。

自慢じゃないが、俺は相当男女平等を原則として考えているタイプのリベラル人間である。

それにもかかわらず、これほど男尊女卑的な歌詞を全く不快におもわないどころかちょっと憧れさえする。

 

いったいこれはどうしてだろう?

 

その答えは、この曲から想起される圧倒的な洒落たイメージにあるかもしれない。

この曲のMAD動画を作るなら、俺は迷わずルパン三世の名場面をリミックスするね。

ルパンと不二子の洒落た(オシャレなではなく洒落たというところがミソだ)関係に思いをついはせてしまう。

 

……この曲とは違い、圧倒的にルパン<不二子のバランスではあるが。

 

とにかくその洒落た関係をベースにこの歌詞を味わうと、この曲にある視線というのが男→女への見下し、というよりは、圧倒的な慈しみを感じさせるのだ。

 

裸になるだけが おまえのとりえさ

 は「月がきれいですね」とは全く逆ベクトルながら全く同じ距離感で「I love you」を表現しているのである。

 

いつか言いたいセリフである。

 

 

Char

日本に帰化したパキスタン人のフリースタイルあるある

モヘンジョ・ダロが頻繁に出てくる

 

 

パキスタンを知るための60章 エリア・スタディーズ

パキスタンを知るための60章 エリア・スタディーズ

 

 

『モダンタイムス』における野蛮とその乗り越え

『モダン・タイムス』はチャーリーチャップリンにより1936年に制作されたコメディ映画である。あらすじは以下の通り。

 大工場の労働者チャーリーはベルトコンベアーで流れてくるナットを占めるだけの単調な仕事の中で精神に変調をきたし、職を失い、警察に連行される。刑務所を出て出会った孤児の少女と出会ったチャーリーはいつしか愛し合うようになり、二人の家を建てるためにまた働く。レストランで働くある日、浮浪罪により少女が逮捕されそうになり、逃げた二人は新しい世界を求めて手を取り歩き始める。

 この映画が機械文明による人間性のはく奪を批判するものであることは冒頭の一文

人間の機械化に反対して個人の幸福を求める物語

や、羊のモンタージュ による労働者=羊の群れの示唆からも明らかである。


この機械文明を神話/啓蒙の分類に当てはめると啓蒙に当てはまるだろう。アドルノが野蛮と化した啓蒙として名指ししたのはナチズム、スターリニズム、アメリカの文化産業であるが、この文化産業と双子のような関係として『啓蒙の弁証法』では機械文明は名指しされている。

娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である。娯楽とは、機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ。

その大きな共通点として、すべての人を一律に扱う点、こちらからの働きかけを許さず一方的に影響を与えるのみである点が挙げられるだろう。文化産業としてはラジオと映画がその代表的な例として挙げられている。現代ではテレビもそうであろうし、ネットも双方向の働きかけが可能とはいえ『啓蒙の弁証法』の

一人一人の購買者は、いわば自発的に、あらかじめ表示された自分の「レベル」に合せて行動し、彼のタイプ向きに造られた大量生産のカテゴリーにしたがって選ばなければならない。

ホルクハイマ―、アドルノ著 徳永恂訳『啓蒙の弁証法 哲学的断想』岩波文庫、2007年

という一文と、評論家・思想家の東浩紀による

ネットを触っているかぎり、他者の規定した世界でしかものを考えられない。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』幻冬舎、2014年

という一文を照らし合わせると、テレビ・ラジオ以上に娯楽産業=機械文明的な特徴を備えているとさえ言えもする。


さて、モダンタイムスにおける機械文明の象徴は監視用テレビモニター、流れ作業、全自動食事機、歯車などが挙げられるだろう。いずれも一方的かつ一律にチャーリーら人間を扱う。このような固有性を認められない職場においてチャーリーは上手く立ち振る舞うことができず、仕事は往々にしてうまくいかない。

 

だが、チャーリーにも特技がある。それはローラースケートと歌である。
チャーリーはデパートの夜勤の場に少女を招き入れ、おもちゃ売り場のローラースケートをうまく乗りこなす。
また後半で少女の口利きでレストランで給仕と歌手をすることになったチャーリー。給仕ではドタバタのミスを繰り広げ、いざ歌う段になり、歌詞を書いていた袖のカフスが飛んでしまう。しかし、チャーリーは即興で適当な言葉を作り、歌を成功に導き支配人に「素晴らしい」とまで言われる。
歌も玩具も、文化産業に位置づけられるものであろう。そして映画も文化産業に位置付けられている。つまり、チャーリー自体が機械文明を批判しつつも文化が産業に堕していることには気が付かない野蛮な啓蒙、映画の象徴であると非難されるという構図も考えられるわけだ。


 しかしその構図は『モダンタイムス』には当てはまらない。

なぜなら、いずれの場合もチャーリーの振る舞いは画一的な再生産を行っていないからだ。ローラースケートは目隠しをして、深夜のデパート内で乗りこなす。歌は歌詞を適当にでっち上げ、即興の身振りとともに披露する。そして初のトーキー導入を意味のつかめない歌にて行う。その点で、『モダンタイムス』は「あらかじめ決められた隠語の徴しを帯びて」 いない。すなわち、古い図式に縛られてはいないのだ。


啓蒙の弁証法』では目新しい効果こそ古い図式に縛られているともいわれているが、適当にでっち上げられた自然は、やはりあらかじめの図式に縛られているともいえないのではないだろうか。


これはコメディという物語自体こういった即興的な要素やお約束の崩しがあると思うので、そう考えると笑いにこそ啓蒙を野蛮にさせない鍵があるのではないかという考えが浮かぶが、文字数の都合上一度ここで筆をおきたい。

 

 

モダン・タイムス [DVD]

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