裸で独りぼっち

マジの日記

ナイトクローラー 85点 盗映人間L.A.に現る

※ネタバレがあります

キャッチコピー:他人(ヒト)の<破滅>の瞬間に、カメラをもって現れる――

 

エラくストレートなキャッチコピーです。

上手いこと言ってはいないし、情緒的ではないが、

この映画のすべてを端的に表せている。

「<破滅>の瞬間」という言葉は最後に主人公が放つパンチラインでもあるのですが、何よりこのコピーが正しいのはまるで「怪物物のホラー映画のよう」なところです。

例えば以下のホラー映画と似てません??

キャリーをいじめないで! 彼女が泣くと恐しいことが起こる……

『キャリー』1977

目を覚ませナンシー!眠ると奴がやってくる!

エルム街の悪夢1984

 そう、この映画は怪物<盗映人間>目線のアメリカンサイコストーリーなんです。

nightcrawler.gaga.ne.jp

所感

そもそも盗映人間という言葉は数日前に読破したコンビニ人間パスティーシュで思いつきました。

hadahit0.hatenablog.com

人間性というレンズ。それを持った主人公の目線が新しいなーと思ったんですが、コンビニ人間の一年前に公開されたこちらの作品でもそのレンズは使われていましたね。

まあ要するに、サイコパス目線ということなんですが……。

主人公ルイスはパパラッチという仕事に飲み込まれ、その職務のためであれば人間としての禁忌も難なく犯す「盗映人間」。

彼の繰り返す言葉として、「仕事ですから」というものがあります。

その姿は、コンビニ人間のクライマックスで自身が「コンビニ人間だ」とはっきり自覚し、店員でもない店の棚整理や店員指導を行う主人公の姿に、僕の目には重なったのでした。

 

※補足

「仕事として禁忌を犯す」というとナチのゲシュタポなど非人道的なものになぜそのような行為を行えたのかと尋ねると「仕事だったから」と答えたという話が思い浮かびますが、それとルイスの「仕事だったから」はまた別のものを僕は感じます。

ゲシュタポの仕事は人に命令されてのいわば洗脳に近いものですが、ルイスは社長であり、明らかに自分の意志で「生きがい」を感じている。つまり、こいつは天職を見つけてしまったのですから。

 

ストーリー

L.A.の街で仕事もなく金網を盗んで売る生活を送っていたルイス(ジェイク・ギレンホール)。ある日彼は偶然居合わせた事故の現場で、事故や事件のスクープを生業としている映像パパラッチ<ナイトクローラー>と出くわす。その仕事にひかれたルイスは盗んだ自転車と引き換えに得たビデオカメラと無線受信機で自身もまたナイトクローラーになることを目指すのだった。カージャックの被害者の悲惨な姿を映し、テレビ局に持ち込んだルイス。視聴率争いに野心を燃やす女ディレクターニーナ(レネ・ルッソ)にその映像は買い取られることとなった。成功体験に味を占めたルイスは、住所不定の男リック(リズ・アーメッド)をアシスタントとして雇い、更に過激なスクープを撮影しようと画策する。 

 

良かった点①悪は悪のまま

この作品ですが、ルイスが実は人間的な心の内を持っていたとか、善と悪のはざまで逡巡するとか、そういうウェットな展開はありません。

決定的にドライで気持ち悪い<盗映人間>のままです。

そのままどんどん成り上がっていく。

また、この話は終始ルイスの視点から描かれます。つまり、正直ずっと共感はできないままw

それにもかかわらず物語に引き付けられるのは、脚本の力であり、ルイスの怪物性の魅力でもあるのではないでしょうか。

2015年に新たな<怪物>を生み出したという点で、この話は意義があると思うのです。

 

良かった点②覗き見る快感

僕は大学で芸術学を修めました。とはいえ、割と真面目に授業を聴いていた気がするにも関わらずほとんど内容は覚えておらず、これじゃテスト前だけノートを借りていた連中と何ら変わりないのですが……。

とはいえ、その数少ない経験で覚えているのが「窃視の快楽」という話なんですよね。

曰く、絵画・映像等の原初的な快楽として、覗きの快楽というのが分かちがたく存在する。

それすなわちサスペンスなんですが、この映画なんてその快楽の波状攻撃ですよね。つまり、最も原初的な映像の快楽を味わえる映画という意味では、王道なのかもしれません。

 

謎な点①ルイスはなぜニーナを抱いた?

ルイスは物語の中盤でスクープと引き換えに自分よりも一回り年上のニーナを口説き、それが通用しないとなれば脅し、体を差し出させようとします。

最初は「なるほど、権力者に取り入ってもっと儲ける腹だな」と思っていたのですが脅しまでいくとニーナに取り入ることはできません。

ということは、ルイスは本当にニーナを抱きたかったのでしょうか。

正直そんな人間的な欲がルイスにあるとはどうしても思えないのです。

ということは、やはりルイスはニーナに取り入ろうとしていた?

物語の終盤でスクープを持ってきたルイスをニーナはほめそやします。

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ありがとう。

なんていうかすばらしい。本当に素晴らしいわ

お礼を言うのは私よ

 これはつまり抱いたことでやはり心をルイスはつかんでいたということ?

何とも言えない気持ち悪さの残る描写でした。

 

良くない点①ちょっとルイスに都合がよすぎる

ルイスはストーリーの通りどんどん出世していくのですが、1人でカメラ機材も大したことないのにどうしてあんなに出世できるのか疑問でした。

最期の最悪の姦計も、あまりに偶然に頼りすぎている気がします。

ルイスが撃たれてもおかしくない場面でしたからね。

もう少しパパラッチとして出世することに説得力を持たせる描写ができたらなおよかったのではないかと思いました。

ルイスが怪物で物おじしないからというのはもちろん大きな理由ではあると思うのですが。

 

まとめ

それこそ公開当時から気になっていた映画でしたのでこうして約3年越しに見ることができて満足です。非人間(ひとにあらざるもの)として夜を泳ぎたいときにご覧ください。

 

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グレイテスト・ショーマン 90点 ”最高のMV集は「映画」になりうるのか?”

※ネタバレがあります

 

この予告編を見てサントラを聞けば、大体この映画が好きかどうかは判断できます。

映画を見て、「予告編って全部の映画が面白く見えるよな~、ほかの映画もこうならんかね……」。そう感じた経験って誰しもあると思うんですね。

それでいうと、この映画は予告編のテンションをいかに切らさずに作るかという狙いが強い。

 

予告編がなぜ良く感じられるかというと、映像という媒体のおいしいところがフル活用されているからです。

物語の見せ場をつなぎ、前編にわたってテーマ曲がそれを彩る。

20秒、いや15秒ごとにキメ、キメ、キメの連続。

そう、予告編とは、壮大なお金をかけたMVに近い。

MVも予告編も、プロモーション映像という意味ではほとんど同じですし、きっと引っ越しの際には同じ段ボールに詰め込まれることでしょう。

 

この作品は、最高のMV≒予告編をいかに効率よくつなぎ合わせるか、そこに主眼を置いて制作されていると思うのです。

 

ストーリー

これは、19世紀半ばのアメリカでショービジネスの原点を築いた伝説の興行師(ショーマン)P.T.バーナムの物語。貧しいバーナムは使用人宅の娘に恋をし、彼女との間に2人の娘を作る。そして、彼女たちのアイディアにヒントを得て、ひげ女や小人症の少年、巨漢やのっぽ、有色人種など社会から奇矯な視線を向けられるもの――FREAKSを集めてショーを開くことにしたのだった。彼のショーはたちまち人気を集め、地域中の評判となる。バーナムはさらに上流階級にも受け入れるため、名高い劇作家フィリップに声をかけることに――。

 

良かった点①歌

冒頭のサントラを聴きましたか?

あれは違法なやつなんでしょうか? まったくけしからん! たまらん! 

『ララランド』の音楽チームということです。ディミアン・チャゼル監督は若き大天才ですが、音楽チームも同じかそれ以上に至高の才能っていうのがよくわかりますね。

 

正直この映画は、曲の魅力が半分以上を占めている!

 

それも意図的にそういうバランスにされていると思います。

逆に言うと、物語の魅力はあまりありません。つまらないとかじゃなくて、あえて物語的な盛り上がりはそれほどのテンションで発生しないように明らかに調整されているのです。

 

この作品、主人公バーナムが落ち込む場面が極端に少ないんですよね。

例えばバーナムは貧困の生まれで、かっぱらいまでしなければ食っていけないほどの生活をしていたわけです。で、そこから何とか職を得て夢に向かって走り出す。

そこまで10分もかかりません。

普通の話であれば使用人のバーナムとお嬢様である妻がくっつくまでに何個か障害を乗り越えるさまを描くわけですが、この映画はそこを大胆にショートカットしてしまう。

2人の交流は、歌に合わせて映像化された手紙の交換だけ。

それだけで家柄や距離の障害をどうやって乗り越えたのか冷静に考えると疑問です。

でも、気にならないんですよね。

なぜなら、歌の力があるから。

 

 この『A million Dreams』が骨組みだけの恋愛に、なにか気持ちのようなものを与えてしまうんですよ。

もちろん骨組みだけなのでよくよく考えたらなぜ結婚したのかだれも答えられないんですが。

ほかに、サーカス小屋は燃え、妻も娘も実家へ帰ってしまうという最悪の状況に陥った場面でも、やはりバーナムはほとんど落ち込んだそぶりを見せない。

せいぜいちょっと酒を飲んで寂しそうな面をするくらいです。

そして、すぐ歌が始まる。

 

こういう物語の底を描かないことのデメリットは、要するに起伏が亡くなってしまうということです。起伏とはカタルシスの根幹ですから、この映画には物語がないといえてしまう。

だから、批評家筋の評価はそれほど芳しくないんでしょう。

 

でも、『グレイテスト・ショーマン』には明らかにカタルシスがある。特にアカデミー音楽賞にもノミネートされている『This is me』なんて最高ですよね。

マイノリティー集団が私は私だと叫ぶ心をこの上ない映像と音楽と演技の三位一体で表している。

 だからこそ、この話はMV集との誹りを免れ得ないわけで、それでも観客を集めてしまうわけなんですね。

 

良かった点②効率のみを重視した脚本のうまさ

 

blog.monogatarukame.net

 このブログの評論には膝を打つことが多いのですが、でも「映画の技術が下手」という意見にはやや自分は疑問符を浮かべます。

旧来の考え方では下手、というかカタルシスがないけど、それは作り手に完全にコントロールされた結果の物語不在なので、やはりこの映画は「上手い」のではないでしょうか。

この映画の脚本を一言でいうとウィダーinゼリーです。味は薄いし香りもないけど、不味くはないしきちんと栄養が補給できる。10秒でチャージして、夢中になれる別のこと――この場合はMVゾーン――に向かうことができる。

特にうまいなと思ったのが家が焼けて落ち込んだバーナムのもとにフリークスが寄り集まって結束が高まるシーン。

この数シークエンス前でバーナムはどんどん野心にとらわれてフリークスを締め出す嫌な奴として描かれるんですよね。これを見ている僕らは、「なるほど、これが原因で仲間割れなど生じて痛い目に合うんだな」と思います。しかし、その予想は大外れ。

バーナムは上流階級に取り入るために始めた歌の興行に夢中になり、その歌い手(レティ)に惚れられ拒絶したことと、心ない差別主義者の放火によりすべてを失うんです。

なんだか話が明後日の方向に行ってしまったな……。

そう思ったところでフリークスがやってきて、ひげ女がこういいます。

「あんたは金もうけだけを考えていたかもしれないが、それでも居場所のない私たちに居場所を、仲間を作ってくれた! ほかに行くところなんかないんだよ!」

この一言で、バーナムのフリークスないがしろ問題解決されちゃうんですよね。そして、フリークスが結束したことで破産したことが解決する流れも確定する。さらに、フリークスに対する差別という重い問題も放火という重い結果で相殺してなかったことにできる。

正に三重殺!!

こういう描き方をしちゃうと結局どの問題も大したことなかったのでは?

なんだこの話と思われる確率が非常に高まるのですが、そこは歌でカバーできるのです。

完全に歌に依存している。逆に言えばそこまで歌を信じている。

そう考えると、つまりこの作品は「旨くないからこそ上手い」まさに職人芸の脚本で成り立っているといえるのではないでしょうか。

 

引っかかった点①差別問題スルー

 前述のとおり、この話は様々な問題をほとんどスルーするか、さらっと一言で解決して進んでいきます。

だから、貧困も、火事も、色恋も、軽い。

歌がなければぺらっぺらだ。

でも歌でほとんどカバーできているのですが、「フリークス見世物問題」についてはやっぱりごまかした感が個人的には感じられました。

 

この作品で描かれる差別の図式って、

フリークスを個性と捉えて生かすバーナム達

VS

フリークスを忌み嫌い敬遠する差別主義者たち

 これだけなんですよね。

 

でも、本当にサーカスで描かなければならない差別ってそれだけじゃありませんよね。

「フリークスを好奇の目で見下す大衆、そしてバーナムの心」それこそがサーカスにおける差別問題のややこしいところであるはずです。

まあ、小人プロレスがなくなった経緯などから見て「そういう気持ちも受け取れる強さがあるものがプロとして舞台に立っているのだ。哀れみもまた逆差別でしかない」という回答が出せるとは思うのですが、それすらあまり触れられない。

やっぱりそれは逃げだよなあ……、こういう娯楽大作はそういうものだとは承知しつつもズルいと思ってしまいました。

 

引っかかった点①フィリップ不要問題

 フィリップって確か元々上流階級の中で劇作家として名を成していたんじゃなかったでしたっけ?

フィリップが入ってから劇にストーリー要素が入ってよくなった感じがしないんだよな。

『The Other Side』のウイスキーを使ったやり取りはこの映画の中でも特にかっこいいミュージカルシーンだっただけにそこが引っかかります。

 

極めつけは、火事のシーン。

フィリップは愛する空中ブランコ乗りアンを救いに燃え盛る劇場に入りますが、なんとアンは命からがら逃げていました。フィリップを案じたバーナムは自分も劇場へ。天蓋が崩落し、絶体絶命化と思われましたが、その後から影が。それは、フィリップを抱えたバーナムでした。

 

ここはさすがに笑っちゃいました。

1.フィリップ間抜けすぎ

2.バーナム強すぎ

 

ここは普通にバーナムがアンを救えばよかったんじゃないでしょうか。

バーナムにここで見せ場を与える意味が僕にはあまり感じられませんでした。

 

フィリップは物語の最後でバーナムから帽子を託され、後継者として指名されます。

そんな重要人物には、もう少し見せ場を与えるべきではないでしょうか。

 

番外編:アルコール演出

この映画って酒を飲む=仲間になるの象徴なんですよね。

 

 1.バーナムがフィリップを勧誘するシーン

 

2.劇場の前でうなだれるバーナムに対し、いつも彼を批判していた批評家が言葉をかけるシーン

 

3.バーナムのもとにフリークスが集まって再度興行を行うことを提案するシーン

 

バーンズの仲間として属する際、必ずウイスキーやビールを人々は飲むのです。

 

逆に、レティのことをバーンズは受け入れられなかった。なぜなら妻と子供がいるから。だから、あのシーンではシャンパンをぎりぎりまで注ぎつつも、酌み交わすことはなかったのです。

 

まとめ

キャッチとして掲げた問(最高のMV集は「映画」になりうるのか?)の答えですが、僕は「なりうる」と思います。

というか、この映画でなってしまったのです。

一昨年ごろから続く映画のMV化の流れ。『ララランド』『ベイビー・ドライバー』など数々の作品がその潮流に乗りつつも、まだ物語の力が半分以上の勢力を保っていました。

しかし、この作品――『グレイテスト・ショーマン』ではついに物語よりも「歌」が優ってしまった。そして、それで観客は感動してしまった。

ここまで来ても映画は映画たりつくのか。

ある意味、映画とそれ以外の淡いに向かって全速力で飛び込み、寸前で停止するチキンレースの結末を目撃したような気分になってしまいました。

ヒュー・ジャックマン、なかなかの怖いもの知らずです。

 

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『コンビニ人間』感想 非人間性というレンズで、人間性を映す

コンビニ人間は、第155回芥川賞受賞作です。

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購入方法:Amazon

 

ストーリー:

内容(「BOOK」データベースより)
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。

 

芥川賞といえば純文学ジャンルにおける新人賞なわけで、その新奇性が重視されるというのは小説というメディアが、多様化&地盤沈下してかつてのそれとは大きく意味を変えてしまっている現在においても変わらない部分だと思います。

 

では、この作品の新奇性は、どこにあるのか。

 

それは、「非人間的な視点」だと思います。

 

コンビニ人間』というタイトルは、『妖怪人間』とか『人造人間』みたいなもので、人間とつくものの、人間性よりもむしろ人間性が強調された結果としてのタイトルだと僕は思います。

 

この作品は主人公の一人称に始まり、一人称に終わります。

感覚や生理反応はあれど、人間としての感情があるとは到底思えない彼女。

 

18年間コンビニバイトで、そのことに何の疑念も抱いておらず、

結婚や交際への願望もなく、

食事は過熱した野菜と米だけ。味が欲しいときには醤油をかける。

 

小説の歴史を総覧したことはないのですが、基本的には「人間」を描くものとして小説に接している僕たちは、宇宙人もしくは無機物のような彼女に戸惑います。

 

しかして、そんな彼女に戸惑う周囲の人間に共感しつつも疑問を抱かされるのです。

 

この話の中で主人公である恵子と対比されるのが、コンビニバイト先に入ってきた婚活目的の新入り白羽。

 

これまでのいわゆる文学の流れからすれば、社会というものに疑念を抱き苦しみを吐露するクズaka.白羽こそが視点人物だったでしょう。

 

しかし、この話の主人公はコンビニ人間なのです。

そのような「人間」的な悩みは「コンビニ」的な視点から見れば、あってもなくても同じだ。

 

全く共感を含まずに、主人公は白羽を取り扱い、すなわち彼の悩み=文学がかつて主題として描いてきたものは相対化のエアポケットに吸い込まれて雲散霧消してしまうのでした。

 

この小説の単行本の表紙は、現代美術作家金氏徹平氏の『溶け出す都市、空白の森』の一部に収録された作品。

 

モノリスのような無機質な棟から色とりどりの煙が噴き出したり、パイプが突き出してそこから紐が垂れ下がっていたり、懐中電灯を手にした人の手が突き出したりしています。

 

これは、言わずもがな主人公である恵子を意味しているのでしょう。

きわめて非人間的な何か。

そこから噴き出る何かに我々は何か人間的な意味を見出そうとしてしまうが、実際にはそれはただその物体の中の論理で噴き出ているだけで、意味などない。

あるにしても、我々の理解できるようなものではない。

 

この作品、このようなテーマを笑える形で描いているのが良いな、と思います。

笑って緊張と緩和です。

つまりこれで笑えるってことは、僕たちは普段緊張してるってことなんですよね。

だから笑えるし、だからちょっと心が心地よい。

 

1日で、一気に読んでしまった小説でした。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

 

尾木ママはなぜ「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」と言ったのか?

headlines.yahoo.co.jp

↑参考記事

 

国語が得意でした。

国語が得意な人間にありがちなことに、まったく勉強しなくても点数が取れました。

その理由は、これまたありがちなことに幼少期から活字中毒で、新聞・雑誌からエッセイ・テレビ欄に至るまで夢中で目を通していたからで、なによりも小説を読んできたから。

 

で、その経験をもとにエビデンスなく語ると、国語力というのは極めて「パターン認識」能力に近いでしょう。

 

国語が得意だった人は覚えがあるのではないでしょうか?

問題を読んだ時点である程度答えが読めた経験について。

例えば以下の例をご覧ください。

 

以下の文章を読んで、30字以内で問いに答えなさい。

 

故郷
 昨年の夏、私は十年りで故郷を見た。その時の事を、ことしの秋四十一枚の短篇にまとめ、「帰去来」という題を附けて、或る季刊冊子の編輯部へんしゅうぶに送った。その直後の事である。れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹陋屋ろうおくへ訪ねて来られた。そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心、予期していた事であったが、こんなに早く来るとは思わなかった。昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんやあによめおいめい、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決して病人ではなかった。もう五、六年はたしかだ、いや十年、などと私は慾の深い夢を見ていた。その時の事は、「帰去来」という小説に、出来るだけ正確に書いて置いたつもりであるが、とにかく、その時はいろいろの都合で、故郷の生家にける滞在時間は、ほんの三、四時間ほどのものであったのである。その小説の末尾のほうにも私は、――もっともっと故郷を見たかった。あれも、これも、見たいものがたくさん、たくさんあったのである。けれども私は、故郷を、チラと盗み見ただけであった。再び故郷の山河を見ることの出来るのはいつであろうか。母に、もしもの事があった時には、あるいは、もういちど故郷を、こんどは、ゆっくり見ることが出来るかも知れないが、それもまた、つらい話だ、というような意味の事を書いて置いたはずであるが、その原稿を送った直後に、その「もういちど故郷を見る機会」がやって来るとは思いもうけなかった。
「こんども私が、責任を持ちます。」北さんは緊張している。「奥さんとお子さんを連れていらっしゃい。」
 昨年の夏には、北さんは、私ひとりを連れて行って下さったのである。こんどは私だけでなく、妻も園子(一年四箇月の女児)もみんなを一緒に連れて行って下さるというのである。北さんと中畑さんの事は、あの「帰去来」という小説に、くわしく書いて置いたけれども、北さんは東京の洋服屋さん、中畑さんは故郷の呉服屋さん、共に古くから私の生家と親密にして来ている人たちであって、私が五度も六度も、いや、本当に、数え切れぬほど悪い事をして、生家との交通を断たれてしまってからでも、このお二人は、わば純粋の好意をもって長い間、いちどもいやな顔をせず、私の世話をしてくれた。昨年の夏にも、北さんと中畑さんとが相談して、お二人とも故郷の長兄に怒られるのは覚悟の上で、私の十年振りの帰郷を画策かくさくしてくれたのである。
「しかし、大丈夫ですか? 女房や子供などを連れていって、玄関払いを食らわされたら、目もあてられないからな。」私は、いつでも最悪の事態ばかり予想する。
「そんな事は無い。」とお二人とも真面目まじめに否定した。
「去年の夏は、どうだったのですか?」私の性格の中には、石橋をたたいて渡るケチな用心深さも、たぶんにるようだ。「あのあとで、お二人とも文治さん(長兄の名)に何か言われはしなかったですか? 北さん、どうですか?」
「それあ、兄さんの立場として、」北さんは思案深げに、「御親戚のかた達の手前もあるし、よく来たとは言えません。けれども、私が連れて行くんだったら、大丈夫だと思うのです。去年の夏の事も、あとで兄さんと東京でお逢いしたら、兄さんは私にただ一こと、北君は人が悪いなあ、とそれだけ言っただけです。怒ってなんかいやしません。」
「そうですか。中畑さんのほうは、どうでしたか? 何か兄さんに言われやしませんでしたか?」
「いいえ。」中畑さんは顔を上げ、「私には一ことも、なんにも、おっしゃいませんでした。いままでは私が、あなたに何か世話でもすると、あとで必ず、ちょっとした皮肉ひにくをおっしゃったものですが、去年の夏の事に限って、なんにも兄さんは、おっしゃいませんでした。」
「そうですか。」私は少し安心した。「あなた達にご迷惑がかからない事でしたら、私は連れていってもらいたいのです。母に、逢いたくないわけは無いんだし、また、去年の夏には、文治兄さんに逢うことが出来ませんでしたが、こんどこそ逢いたい。連れていって下さると、私は大いにありがたいのですが、女房のほうはどうですか。こんどはじめて亭主の肉親たちに逢うのですから、女は着物だのなんだの、めんどうな事もあるでしょうし、ちょっと大儀がるかも知れません。そこは北さんから一つ、女房に説いてやって下さい。私から言ったんじゃ、あいつは愚図々々いうにきまっていますから。」私は妻を部屋へ呼んだ。
 けれども結果は案外であった。北さんが、妻へ母の重態を告げて、ひとめ園子さんを、などと言っているうちに妻は、ぺたりと畳に両手をついて、
「よろしく、お願い致します。」と言った。
 北さんは私のほうに向き直って、
「いつになさいますか?」
 二十七日、という事にきまった。その日は、十月二十日だった。

 

問.「「そうですか。」私は少し安心した。」

この部分で、なぜ筆者は安心したのでしょうか? 

 

この問題を見て思うこと①

太宰治か~。わかりやすい題材でよかった。「なぜ」の質問か、ということは「~から」で回答か。

 

この問題を見て思うこと②

→とりあえずこの一文を探して直前の部分だけ読んでみるか。はは~ん、兄が怒ってないから安心したわけね。兄のこと気にし過ぎやねw 一応頭から読み返して流れをつかみつつ確認しょ。

 

この問題を見て思うこと③

→なるほど、親ともめてたわけか。で、親御さん重体やから帰るわけね。やっぱり太宰は人間失格いうだけあって家族の怒りを買ってたんやなあ。

 

回答

兄が、自分の前回の帰省の際、怒っていなかったとわかったから。

 

このように、国語の問題の解答というのはかなりシステマティックなのです。

「何が回答として求められているか」を読みとき、その前後の文脈からあたりをつけ、全体を読み込んで推測を確信に変える。

 

そこにあるのはパターン認識能力と論理性であって、人の心に共感する能力ではありません。

 

まあ何が言いたいかっていうと、とどのつまりいじめと国語力は関係ないってことです。

ただ、いじめを発覚させないようにする能力は、国語力とかかわるかもしれません。

国語力とはすなわち、先生が望むような答えのパターンを読み取る能力であるとも言えるからです。

それが、尾木ママに「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」と発言させた因子ではないでしょうか。

 

国語が得意な者に騙されるな、僕はむしろそういいたい。

ただ、それも偏見を助長することにつながる恐れがあるので、公の場で発言することは控えるでしょうが。。。

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スリービルボード 8?点 変な話ー! ※ネタバレ

今年のアカデミー賞6部門にノミネートされた話題作。

でもそのどこかしら権威的な響きとはどちらかといえば真逆の印象を与える作品でした。

変な話、、、

www.foxmovies-jp.com

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 8?点

 

あらすじ

田舎町の通り、迷い込んだものかよほどの田舎者しか通らないその農道(ポスター右下の道)に、3枚の看板が掲げられた。

 

「レイプされ、殺された」

「なぜ? ウィルビー署長」

「そして、まだ逮捕されない?」

 

赤い背景に黒文字でデカデカと掲げられたその文言を見た暴力警官ディクソンは、すぐさま看板を取り下げさせようとし、ウィルビー署長に連絡を入れる。

 

看板を掲げたのはミルドレッド・ヘイズ。彼女の娘は7ヶ月前にレイプされ、殺されたのだった。しかし、犯人はいまだに見つかっていない。その現状に業を煮やした彼女は看板を掲げることにしたのだった。ニュースに取り上げられるなど看板への反応も生じ、事態は少し進展したかのよう。

反対に警官たちは脅しすかして看板を取り下げさせようとする。

ウィルビーにも事情があった。

癌に体が侵され、余命いくばくもないのだ。

 

所感

この話、上記の通り、7割くらいはコメディなんです。それも、監督・脚本マーティン・マクドナーのイギリス的なセンスを生かしたオフビートで意地悪い会話劇が中心な。

 

「おい、あれ(「ウィルビー署長はどうした?」の看板のこと)名誉棄損にならないのか?」

「なりませんね。問いかけですから」

「畜生。お前はくそ野郎だな」

「ちょっとなんですか、それ」

「問いかけだ」

 こういった具合の。

露骨に人種差別をする人物も出てくるし、小人症の人物も出てきて露骨に差別を受けたりもする。

それは主人公だって例外ではないし、最低の差別主義者が善をなすこともある。

そういう人間の多重性がぽんぽこでて来ます。かといって「人間とは一様ではないんですよー」と説教する感じではなく、「人間なんてそんなもんなんだよ。良い人が悪いことをすることもあれば、悪い人がいいことをすることもある」といったスノッブな書き味が強いです。

ただ、その波状攻撃が続くと、ヒューマンドラマの味がゆっくりと沁みてくるのもまた事実。最後にはなんというか、YaYaYaな展開になるのですが、「なんとまあ、人間とはわからんもんで、好きだ嫌いだなんてそいつの一側面に対して思っているだけにすぎないんだな」と僕たちは思うことになります。

 

良い点①ジャンルレスで独自性の強い話運び

いろいろな感想・評論でいわれているでしょうが、この作品、何せ思ったような展開になりません。

なるほど、こいつは最低のくそ野郎というキャラクターなんだな、と思った人物が意外とかわいい人格を見せたり、人間的成長を遂げたり。

こいつを支持したいと思った人物が、とんだ頑固者に見えてきたり。

またそれが逆転したり。

とはいえ、泣かせようとする展開が急にバイオレンスになったり、という露骨なジャンルまたぎはありません。基本的にはオフビートなノリに満ちたタダの話、がずっと流れます。

 

良い点②筋が通っている

この話、監督・脚本のマーティン・マクドナーが有名な劇作家であることもあって脚本の完成度に定評があるのですが、それだけあって、よくある投げっぱなし展開や首をかしげる描写がありません。

たとえば、主人公ミルドレッドが歯医者の指にドリルで穴をあけるというエピソードがあります。よくある緩い脚本だとこのくだりは過ぎ去ったお話としてスルーされてしまうのですが、スリービルボードではちゃんと警察に連れいかれる。

ほかにも、看板に火が放たれる展開があるのですが、きちんと燃え上がった看板は主人公が決死の覚悟で消火スプレーをかけても使い物にならなくなる。

そういう点に筋が通っているというのは、意外と大切なことだと思うのです。物語の厚み・信頼性を左右するのは、そういった細部に宿る神なのです。

 

悪い点①熱中がしずらい

この話は、先が読めません。つまりは、変な話です。

それって面白いってことでもあるのですが、なんか宙ぶらりんな感覚が熱中を妨げるというのもまた事実なのです。

予測不可能な展開といっても

「オオ……! こういう話しね。ということはこうなるのかなー。お、違うのか。おお! なるほどこういう展開にしてきたのか!」

という展開ではなく

「なんじゃこれ、変な話。変だなー。変だ。なるほど、こういう意図か。え、つぎはどうすんの?」

という展開なのです。そのため僕みたいな評論家気取りは予想しづらい。

監督が天才すぎるのかもしれない。

 

 

『勝手に震えてろ』80点 小説と映画を比較しての感想 ※ネタバレ

映画『勝手に震えてろ』を見た。

 

で、その後小説を読んだ。

 

その2つの共通点、相違点について語りたい。

 

ストーリー

エトウヨシカ、10月生まれ、B型、雪国育ち、ひとりっ子、彼氏なし(24年間)、絶滅した動物が好き。

中学時代の同級生「イチ」を中学からずっと脳内で思っている。

話しかけたことは3回。

そんな彼女は会社の同僚「ニ」に告白される。人生初の告白。

 

「私には、2人の彼氏がいる」

 

ヨシカは「ニ」とデートを重ねつつ、「イチ」にも接近を試みることにする。

 

共通点

 

furuetero-movie.com

 

『勝手に震えてろ』という小説について、そもそもは以下のネタ画像のイメージしかなかった。

 

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@yuukiの凍結されたTwitterより

ブックオフである。表紙には以下にも一般職然とした痩せて細目の女性が座っており、その周りを絶滅した生物が取り囲んでいる。

左はドードー、右はアンモナイト

スプリングカラーの表紙で、内容は読めない。

 

作品を文字と映像で2度通過した今思うのは、『震える牛』がタイトルでもこの小説行けるなということだ。

 

震える牛:臆病、牛のように一見穏やか、しかし「赤いもの」を見ると牛のように荒ぶる

 

共通点1:主人公イチカ

とにもかくにもこの作品は主人公イチカの自意識に焦点が当たっている。

イチカは自意識が高い。

例えばそれはのべつ間もない小説の語り口だとか、自分位告白してきたニのことをキープ対象としてそのことに何ら罪悪感を抱いていないこととかにあらわれている。

 

それは映画も小説も同じだ。

こういう自意識の語りは綿矢りさ、のみならず純文学作家の真骨頂だ。

それ小説の方が濃い。

というのが定説だが、映画を見たところ全く同じ濃さだった。

それを実現した監督(元芸人らしい)の手法に、街の人々にのべつ間もなく話しまくるという仕掛けがある。

 

映画は、松岡茉優演じるイチカがサブカルめいた、というか社会人生活大丈夫?といった風体のカフェ店員に話しかけまくるシーンから始まる。

「私ね、あなたみたいになりたかったんだ、あ、ねえ、髪触って言い?」

早口。

これを見て、ああ、これは夢の中のシーンなのかなと俺は思ったのだが、その後も「話しかけ」シーンは続く。

なんだこりゃ、自意識が高いっていうか単にエキセントリックな人間じゃないか、と思う。

だが、それはすでに、監督の策略のうちということなのだった。

その内訳については後述する。

 

共通点2:恋愛周りのストーリー

イチを脳内で追いつつ二を振り回すヨシカ。

しかし、イチには届かない。というより、自分の中では手中に収めているつもりなのに、実際の距離は遠い、その固く冷たい現実に耐えられないのだ。

初期は気持ち悪い気持ち悪いアプローチをしてきたニのことをヨシカは袖にしまくり、処女だと知られたことにブチ切れ、振って妊娠を装い、家に引きこもる。

そこに現れるニ。存外に頼もしいセリフ。一個の人間としてヨシカに近しくありつつも、アプローチしたという一点でのみ先を行くニ。

ヨシカは彼の名を呼ぶ。

 

というまあ大まかなあらすじ。

ここは一緒だ。原作なんだからそりゃそうだ。

れないというのは女性の自意識に男性以上に深く結びついているというのがよくわかる。

童貞はさらされるが、処女はこもることになる。

さらされた童貞の方が一見恥のようだが、こもった自意識のドツボの方が深く抜けがたいのは、ヨシカ的人物ならわかっているはずだ、

 

相違点

この映画と小説の相違点を語ることは、そのまま監督への賛辞となる。

自意識をガチャガチャ語る分野というのは、前述のとおり小説のホームグラウンドだ。

アウェイでそれをやろうとすると、日本人バッターがメジャーに出るくらいの覚悟と地肩が必要になるのである。

 

相違点1:空想と遊ぶイチカ

映画は、イチカがのべつ間もなく店員に話しかけるシーンから始まると書いた。

あれは全部空想だったのだ。

イチカはバスでも、陸橋沿いでも、道でも、若者にも、おばさんにも、おっさんにも話しかける。という空想をする。

――これは、痛いあるあるだ。

朝井リョウが『何者』で描いた「友達が活躍した時に悪評がどこかにないかケチの付け所がどこかにないか探す」というのが俺の痛いあるある不動の1位で、この「たにんに話しかける妄想」が俺の痛いあるある2位である。

これが、原作にないというのは綿矢りさもやられたな、と思ったのではないか。

最近結婚して幸せになって作品の質が落ちたらしい綿矢りさよ。

これを見たら嫉妬の情に火がつきやる気が沸き起こるのではないか。

監督・脚本の大九明子は今年で50歳。ポールヴァーホーベン(80)の『ELLE』(2017)を見たときも思ったが、もう50とか80でも才能あったら若者が見ても違和感のない作品が作れる時代なのだな。

若いがアドバンテージではなくなっている。

あるいは俺が老いている。

 

相違点2:来留美の存在感

映画ではホリプログランプリ受賞者石橋杏奈演じる月島来留美の存在感が大きい。映画を見ただけの人は原作では来留美がほとんどセリフもなくて、営業部の出木杉くんとつきあってもないと知ったら目を丸くするだろう。

どうして映画で来留美の出番を増やしたのか。

それは、やはり映画という内面をすべて言葉にしがたいメディアの特性上、という部分が大きいだろう。

映画ではヨシカは来留美に内心を話すのだ。

その結果、ヨシカが小説よりもポップな人物になり”あがりくさって”いるといわれば否定しきれないが、その分来留美を信頼しているという描写ができるし、その結果「裏切り」(一方的な)の衝撃も大きくなる。

やはり、これも良改変である。

 

ちなみに、原作ではオカリナもその彼氏もいない。

あのシーンは芸人を目指していた監督特有のユーモアであり映画への華の添え方であろう。

 

デトロイト  世界で一番悔しい映画 93点 ※ネタバレ感想

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これは昨年9月の事件。

なんか、『デトロイト』を見た後だと、本当に暗澹な気持ちになる。

畜生!! ファックバビロン!!

 

 

ストーリー

1967年。アメリカ第五の都市、デトロイト

アメリカ全土にはいまだ、黒人差別の風潮は色濃く残り、黒人たちは自由な居住区の名のもとに、差別の目にさらされながら生きていた。

その怒りはついに都市で爆発し、黒人たちは店から物を盗み、街を破壊した。暴動である。

それへのカウンターなのか、それとも更なる締め付けか。白人が98%を占める警官は黒人たちを執拗に疑い、追い詰め、中には正当防衛と称して射殺するものさえいた。

そんな中、若者でにぎわるアルジェ・モーテルから銃声が。

狙われたと思った警官たちはモーテルに大挙して押し寄せ、黒人青年やそこに居合わせた白人少女たちに尋問という名の拷問を始める。

 

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感想

大方の人が知っていると思うが、大みそかにこういう出来事が物議をかもした。

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年末恒例の番組『ダウンタウンガキの使いやあらへんで 笑ってはいけないアメリカンポリス24時』で浜ちゃんが「ビバリーヒルズ・コップ」に登場するエディ・マーフィーのコスプレをして登場。それが、人種差別的で不快だと、日本在住の黒人作家が指摘。たちまち論争が巻き起こった。

一方は、日本という国で。固有の文脈をもってお笑いでやっていることに、差別の意図を読み取るのはおかしい。差別はそれを見る人の心の中にいるのではないかといい、

また一方は、世界基準に照らしてアウトなことを平然と放映するこの国がおかしい。日本人はあまりに差別の歴史に無知すぎると批判した。

僕はというと、圧倒的に前者の意見だった。

なぜかって、お笑いが好きだし、過剰な表現規制は逆差別の入口だと思ったからだ。

それは今でも頭では正しいと思う。

でも、今は同時に、”あの悔しさ”が蘇る苦しみは、そんな理屈では解決できないのだ、とも思う。

あの悔しさとはつまり、その、「差別される悔しさ」だ。

つまり、「人間としての尊厳を剥奪され、それに抵抗できず、したところで無残な死しか待っていないという、絶望の心持ち」だ。

 

モーテルで、

白人警官のリーダークラウスは高圧的にふるまう。

それは、黒人を2人も正当防衛でなく殺してしまったという危機感の裏返しかもしれないし、

開き直りによって表出した余所行きでないむき出しの差別心なのかもしれない。

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クラウス役のウィル・ポールター。児童文学『トムソーヤの冒険』に出てくるいじめっ子のような、いかにもムカつく面である。しかし、もちろん実際の彼は反差別主義者だ。撮影中、彼は演技ながら罪悪感に苦しんだという。

 

彼は高圧的にふるまい、事故を正当化して暴力をふるい、とうとう保身のために完全なる殺意を持って無抵抗の少年を殺害する。

そしてその罪は、、、、。

 

本当にやり切れない気持ちになる。

 

そういう思いがフラッシュバックするとすれば、やはり差別の歴史を思わせる素振りは理解と覚悟をもってやらなければならないのだろう。

 

クラウス・デメンズ・フリンの3人は、黒人を殺害しながら、弁護士の擁護の元、法廷に立つことができる。そして、あまりにどうしようもない形で事実はうやむやにされ、罪は隠蔽される。

 

だが、そこで畜生! コブラが出てきてこいつらを皆殺しにしてくれればいいのに!

とならないのがこの映画の奥深さだと僕は思う。

 

白人たちもビビっていた。それは事実で、暴力はその引き金を引くだけなのだ。

道徳の教科書なんか嫌いだしジョジョ6部は好きだけど、やっぱり暴力の連鎖が生むのは同じような地獄の裏返しだ。