ジェットタオルという儀式
トイレで手を乾かすための公的な手段は3パターンに分けられる。
1つはハンカチ。基本的にはこれで拭くよう小学校で教わった。しかし、我々はたいして持たない。
こちらの調査によると、持ってるのは30代以下で50%を切っている。
2つはちり紙やハンドタオル。備え付けのハンドタオルは不特定多数の人間が触っていると思うと、たいへん気持ち悪い。そんなトイレ最近はめったにないけど。
そして、3つがジェットタオルである。
Wikipediaによると、三菱電機の中津川製作所が作っているらしい。
というか商品名らしい。
宅急便がクロネコヤマトの商標なのと同じ理由だ。
ということは、ジブリが『魔女のジェットタオル』という話を作ったらちゃんとこのタイプのジェットタオルを出さないといけないんだな。
ちなみに正式名称は「ハンドドライヤー」。
とにかくだ、このハンドドライヤーってもはや儀式の道具に成り下がっていないか、というのが俺の問題意識である。
↓
ブーンといわす
↓
ちょっと振る
↓
手を出す
このプロセスで本当に手が乾くだろうか?
多くの場合、そうではない。
大体の人間はこの儀式を申し訳程度にこなしてからハンカチを使うなり、ズボンの側面のところにばれないように擦り付けるなどして、手の水分を取り除くのだ。
なんでこんな儀式に付き合ってきたんだろう?
―ほかの人に手を乾かしていないと思われるのが恥ずかしいから?
→ちゃう。一人のときもジェットタオルは使うのだ。
―風が手に当たるのが気持ちいいから?
→ちょっとある。
―気休め程度であれ、手を乾かしたいから?
→ちょっとある。
結構簡単に理由が2つも出てしまった。
まあ、それもある。あるにせよ、トイレなんて毎日毎日やってるんだから、こんな理由をいちいち意識してはいない。
無意識の、癖でやっている部分が大半であろう。
なんというか、シュールな時間であることは間違いないと思う。
世の老若男女がみなちょっとの快感と気休めと癖で、白いブンブン箱に揃えた掌を突っ込んでいるのだ。
かなり儀式的ではないだろうかこれは。
きっと宇宙人がやってきて、地球のトイレを視察したら、これには高度な宗教的意思が込められていると感じるに違いない。
そのときに備えて、手の平を上に向ける独特のスタイルでジェットタオルを利用しよう。
俺はほかの信者とはちょっと違うぜと、宇宙の奴らに知らしめるために。
Panasonic (パナソニック) ハンドドライヤー.コンパクト型 FJ-T09F3-W
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『アルテ』―昔のヨーロッパを舞台にした話、かっこいい娼婦でがち
16世紀初頭、フィレンツェ。貴族の娘アルテは、画家になりたいという夢を持っていた。しかし、当時は男尊女卑が根強い社会。女は持参金を持ってよい貴族の元に嫁ぐのが理想とされていた。しかし夢を諦めきれないアルテはさまざまな工房に弟子入り志願。女ということで断られ続けるが、ひょんなきっかけから偏屈な画家レオの下で試練を与えられることになり、見事突破。一人前の画家となるために弟子として修業を積むことになる―。
御覧のとおり、設定としてはそれほど珍しいものではない。
その上、話も結構ベタである。
どこがベタかというと、まず主人公アルテのキャラクター。
貴族の娘でありながら、おてんばで、そそっかしい。しかし、明るい性格でひたむきに前向きに仕事に取組み、決してあきらめない。また、すべての人に分け隔てなく接するまっすぐな性格で嘘は苦手である。
そりゃーこの舞台設定なら主人公はこのキャラになるわな、という感じだ。
続いて、娼婦ヴェロニカ。
昔のヨーロッパが舞台の漫画、かっこいい娼婦でがち。
この漫画も御多分に漏れず、高級娼婦ヴェロニカが出てくる。そうそう、高級娼婦の名前はヴェロニカだよな。
ヴェロニカはアルテを気に入り、要所要所で助言をする良いお姉さんとして厳しい現実で彼女を導く。
最後に、仕事への熱い思いを秘めた偏屈男との恋愛。
あらすじで誰もが悟ったと思うがアルテはレオに恋をする。とはいえ、その思いは早々にヴェロニカの導きを経て封印されるのが目新しい点といえるかもしれない。
いずれ再燃するのはわかりきっているし、それは大きな山場として作者も温めているに違いない。
今のところ2巻までしか読んでいないが、きっと4巻の終わりぐらいでそんなシーンがあるはずだ。
ここまでベタだベタだと言ってきた。
しかし、それは必ずしも悪口ではない。
絵が美麗だし丁寧にキャラの考えを描き、関係性を作りだしている。
別にそれだけでいいのだ。
家に帰って今日の現実から丹念に作られた気持ちの良い夢に飛び込むのだ(ベッドでなく)。
だからそのほうがいいのだ。
16世紀初頭といえばダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロたちが活躍したいわゆるルネサンス期であるが、それらのスターは登場させるのか、それともあくまでファンタジー世界のイタリアとしてアルテの物語を描くのか。
まだ読んでない3巻以降で気になるポイントである。
悲しきボディワイフ
今日は録画したワイドナショーを見た。
ゲストはデヴィ・スカルノ夫人。
「あ~た、当時の社交界では恋愛はゲームだったのよ」
その話ぶりを聴いてさすがデヴィ婦人セフレここにあり、と思った。
3月に終わってしまったニューヨークのオールナイトニッポンゼロに「加藤ミリヤか!」*1というコーナーがあった。
加藤ミリヤか!
『デート、私の家ばっかりだね・・』の様な、
セフレあるある、セフレが言いそうな事を送ってください!
言いそうなことは「 」(かぎかっこ)で書いてもらえると助かります!
セフレとヤリマンは違うので注意してください!
メールの件名は「加藤ミリヤ」でお願いします!
「ニューヨークのANN0#23」
http://www.allnightnippon.com/program/zero/2016/09/ann022.html
はがき職人日照りのニューヨークANN0の中では、そこそこ盛り上がったコーナーであり、俺も嫌いではなかったのだが、ある種の違和感もぬぐえずにいた。
その理由がワイドナショーの視聴により、わかった。
俺は、どちらかといえばセフレに陽気なイメージを、それこそ今回デヴィ夫人が言った社交界のフリーセックスのように、ラブイズゲームないイメージを抱いていたのだ。
だから、ニューヨークの物言いには乗れなかった。
俺がこんなにセフレにポジティブな理由をより深堀すると、たぶん「フレンド」という言葉に多大なる良いイメージがあるからだと感づいた。
セフレ=セックスしつつも友情をもって付き合うハッピーな男女関係と思っていたのだ。
しかし、ニューヨークいうところのセフレは「愛情を抱きつつも男側からは受け入れてもらえず、ただ体を交わすだけの悲しい関係」なのだ。
こんなのセフレじゃないやい!
と言いたいが、セフレがいたことがないので何とも言えない。
でも、やっぱり今の理論でいうと、もっと適切な呼び方がある気がする。
例えばボディーワイフとか、ボディステディとか。
この言葉を、ニューヨークのANN0がやってる間に送りたかった。
まあ、しょうがないからランパンプスにでも送るかな。。
『ジンメン』―現時点感想
今日は、ちょっと前にバナー広告でバンバン宣伝されていたあざとい漫画『ジンメン』を読んだ。
しばらくWeb漫画を読まずにいたら、『サンデーうぇぶり』というWeb漫画サイトができたということで。
ウェブ漫画サイトを乱立してそこから人気が出た奴だけを猛プッシュ→単行本化で儲けるというのが最近の漫画界の手法なんだな。
いや、前からあった手法か知らんけど。
この漫画に原稿料とかって出てるんだろうか?
マンガ読むのもちょっとさぼったら時代に置いてかれんな……。
現在41話ということで2時間で最新話まで追いついた。
ざっくり読んだ印象は「テラフォーマーズ×ハカイジュウやなこれ」である。
どっちかといえばハカイジュウ味が強い。
もっと言うとハカイジュウも数多あるパニックサバイバルSFの類型の1つだ。
あからさまにテラフォーマーズの虫を動物にしただけのところもある。
そういうあざとさがあるけれども、それらの要素のパッチワークがうまいので、あからさまにパクリだけの話とも言えないのが、作者の巧みなところであり、漫画界の地下闘技場みたいなところから頭一つ抜け出せた理由なのかなと思う。
「この作品を読者はどうとらえるか」とちゃんと考えている作者だと思う。
周りの人間はパニックに陥る中で一人別の視点からものを見ることのできる主人公、主人公の原動力は幼馴染の美人を守ること、あからさまに主人公太刀を裏切るやつらが出現しそいつらはすぐジンメンに悲惨な目にあわされる。
これらはめちゃくちゃベタ。これらだけなら、読んでもしょうがない。
しかし、動物好きの主人公がパニックの中でも和解の道を探る、というのはドラマを生む、とても素敵な設定だと思った。
主人公と旧知の敵が最後に心を取り戻し、蜜月のときを思い出しながら死んでいく、というのはやはりたいへん熱い展開だ。
バトル漫画では、ありがちなことかもしれないが、こういう人外パニック系では珍しいアプローチだと思う。
また、主人公が和解の道を探る、とは言いつつもそのためにほかの人間の足を引っ張る場面は巧妙に避けられているのもストレスレスでよかった。
ゾンビ物で半感染者を生かすか殺すか迷って、主人公側は守ることを強固に主張して、結局ゾンビパニックが起こる、という残念展開にはもううんざりである。
緊急時に危機感がなく周囲に迷惑をかける人間が主人公ではとてもじゃないが感情移入できない。
その点、『ジンメン』では主人公が敵側(ジンメン側)につく場面は、どうあがいても結果は同じ場面ばかりで、言葉でうだうだ主人公が持論を語るところも比較的少ない(あるにはあるが)。
基本的にはびっくり箱漫画(衝撃的なシーンのどきどきで人を惹き付ける漫画)で、「これが生涯ベストの漫画です」という人は考え難いが、日々のストレス発散としてびっくり箱開きつつ物語成分も取り入れたいという場合にもってこいな、理想的無料Web漫画でした。
『美女と野獣(実写)』感想―原作の完全再現、よくも悪くも。
エマワトソン主演の『美女と野獣』をご覧になってきた。
俺は原作のアニメを見ていない。その立場で何を物申すかと言われればぐうの音も出ない。
だが、見なくても「これアニメそのままだな」とわかる出来だった。
それには良い意味も悪い意味もある。
良い意味:3D技術2.0
『モアナと伝説の海』を見たときにも感じたことだが、3Dってなんかここ最近進化してないか?
いや、ここ最近というよりは映画が撮られた時点で、ということなんだろうけど。
VRという技術革新が一般化したことで既存の技術全体も底上げされた気がする。
とにかく映像が綺麗だった。
ルミエール、コグスワース、ポット夫人、野獣。誰もが嘘くささなく、”そこにある”感を持ってベルやモブたちと画面の中で同居していた。
特に「Be Our Guest」のシーンは最高に美しく、まるでディズニーのパレードを一本見た後、純粋な美しさとしてはそれ以上の目の肥やしを与えてくれる。
悪い意味:メッセージ性が古い&子どもっぽい
さんざん突っ込まれていることだが、「見た目は関係ない。愛は心に宿る」というメッセージを建前としていながら、「美女」とタイトルに入ってしまっている時点で本末転倒だ。
話をまとめると、村一番の美女が頭の悪い村一番のモテ男を袖にして、城を持っている上に権威のある野獣(しかも正体はイケメン)と結婚するという身も蓋もない話になってしまう。
ベルが野獣にさらわれてから作中で流れる時間もせいぜい3日に見えるため、ベルが野獣に惹かれた理由が「エグゼクティブで趣味もあるから」にしか見えない。それが真実の愛なのか……。
そもそも、真実の愛を誓いあう相手を見つける、という魔女の条件自体が「パートナーを作らないと人は信頼に足る人格を持った人間と認められない」という価値観に基づいており、あまりに古臭く感じる。
そのあたり、どうにかうまく改変できなかったのか。
もちろん、今回の実写化は、名作とされる作品をそのまま実写に再現するという及第点は満たしているが、「ズートピア」というポリティカルコレクトネス的にも間違っておらず、さりとて窮屈すぎるわけでもないという絶妙なバランスの物語を生み出した後のディズニーがやることとしては、志が低く感じてしまう。
あなたたちは新しいメッセージを発信しつつ、面白い作劇を行うことができる天才集団として認められているのだから、そのハードルは越えようとしてもらわなければ。
子どもっぽい=おとぎ話っぽい話の作りも話にのめりこむことを阻害した。
「いや、これおとぎ話ですから(笑)」と言われればそれまでだが、あえてアニメを実写として再現したのだ。アニメでは気にならなかった部分が、より現実感を増した分、気になってしまうことは考慮してほしい。また、そこまでこの作品が子ども向けとして世間からとらえられているとも思えない。どちらかというとデートムービーとして扱われているのではないか。その証拠に、劇場はカップルばっかりだったぞ!
以下、突っ込みどころ(疑問点)。
・なんで馬を見つけたベルはすぐ城にたどりつけたの?城にたどり着ける条件はなに?
・ベルを城に閉じ込めるくだりはなんだったの?平気でホイホイ出歩けるし、父の代わりに牢屋に入ったことで示したベルの自己犠牲の精神が途端に意味なく感じる。。
・バラの花びらの散るペースから考えると、王子が野獣に変えられたのは1週間くらい前な気がするんだが。。だとしたらなんでそんな変化してからの生活に慣れ切ってんの?ダメだった今までの女って誰?そいつはどうなったの?
・オオカミはなんで急にいなくなったの?なんでベルが城に来るときはいなかったの?
・世界を飛び回れる本みたいな便利アイテムがあったらもっとできることはあっただろ。そもそもそれでベルを街に飛んでいかせれば良かったのでは?
・悪人が都合よく事故で死ぬご都合展開(主人公たちは手を汚さない)。
・ル・フウはガストンの圧力があったとはいえ、モーリスを精神病院送りにする嘘をついたのに何であんな簡単に許されていいやつメンバーに入ってるの?
まあ、おとぎ話に無粋なことを言っているよ。。。
でも、そこを「まあ子ども向けだからな」で片付けられるラインを到底突き放した位置にディズニーはいると思うんだよ。
結局何が正解だったのか
映画の冒頭で「この話は昔のアニメの実写化であり、現代の価値観にそぐわない部分があります。また、童話なので整合性の合わない部分もあります。」と書いてくれていたら良かった。そしたらほんとにぐうの音もでない。
とはいえ、これは、すごく、クレーマーっぽいです。。。
手塚治虫全集の後付けじゃないんだから。
まあ『美女と野獣』という時点で、上記の注意文は読んだものとみなします。ということだったんでしょーね。。。
美女と野獣 オリジナル・サウンドトラック デラックス・エディション(日本語版)
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- 発売日: 2017/04/19
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パチンコ屋の横の定食屋
今日はパチンコ屋の横の定食屋で夕食を摂った。
パチンコ屋の横の定食屋は、金を失ったハイzン兵のようなおっさんが集うため、安くて量があるのではないかと踏んだからだ。
からあげ&豚のショウガ焼き定食を頼む。
予想通りご飯は大盛り無料であった。遠慮なく大盛りにする。
飯を食いながらMVを見た。
まずはこれ。
よおバズっとる。
それだけの高評価の理由は、エモ/HRの文脈でほんわか童謡みたいな歌詞を載せたという一発の面白さだけじゃなくて、それが意外とマッチしているというイチゴ大福的奇跡の融合のおかげだと思うな。
特に、
みんなでたのしくうんぱっぱーのぶんぶん
おなかぽんぽんぽんのやっほー
ここの耳障りが心地よすぎる。
スぺツナズやsnackでもこういう心地よい言語センスがあるし、そこが岡崎体育の強みだと思う。
やっぱりこの人は言葉の人だ。
アイディアとしてはそんなに実は目新しくもないのだが、言い回しや表現に納得させられるすわりの良さがある。
その次はこのMVを見た。
結構、かなりストレートな歌詞で表現だなあと思う。
特に中盤の「生まれ変わったのであります~」の下り、昔の洋次郎ならもうちょっと比喩的な表現を用いていたのではないか。
とはいえ、ストレートに表現するのが時代の空気ではある。
それはニューヨークの皮肉漫才とかヤバTとか、若くてセンスありまっせ的な表現者からすごく感じている。
なんか、比喩ダサい時代になっている。
ストレートに素材の魅力で勝負するのがポイントになってきている。
まあ、宗教、生、みたいなのはアルトコロニー以降のRadの十八番テーマだったわけで、こうやってストレートに表現されてもさしたる違和感はない。
パチンコ屋の定食はごはんが多いわりにおかずが少なかった。
週刊ヤングジャンプ 2017年24号(特大号)
今週は特大号だ。
だから19円高い。
でもその特大要素がラブライブ声優のグラビアと「君は淫らな僕の女王」のソフト化パクリみたいな読みきりだというのはいただけないぞ。
まあ新連載もあるけど。
helveticaヘルベチカ(新連載)
静和大学1年生、黛旭は「異界の魔女子」と呼ばれるアニメを愛好するオタク男子。ある日、黒猫を連れた謎の美少女に押し入られ、スタンガンを当てられるという数奇な経験をする。その日の夜、バイト先のアニメショップで女性が忘れ物をしたため届けようと後を追ったところ、ナンパされているところに遭遇。そこから救おうとしたために因縁をつけられる。ナンパ男に首を絞められ「ここが異界ならこんなやつ僕の特殊能力でぶっ飛ばしてやるのに…!」と考えた次の瞬間、旭の手から炎が噴出し、ナンパ男の撃退に成功する。そして旭は警察を騙る集団に連れ去られるのだった――。
なんちゅうか、あらすじの時点でもう完全にジャンプでよくある話じゃないだろうか?
異界に憧れる「平凡な」主人公、突如現る美少女とDQN、ちょっとした勇気、覚醒する異能、、、。
一応あらすじに含めない部分で攻めた展開だったり絵的なインパクトはあるのだが、そこで得点を稼ごうというのもまさに昨今青年漫画でありがちな風潮だな、と感じる。
絵も同じく。新人らしくパースが狂っている部分が多くてデジタルっぽい。コマ割りは妙に細かくてごちゃごちゃしている。というか下手だと思う。
とはいえ、まだ一話である。
「謎の美少女」と「異界の設定」、そこに「helvetica」(※)というタイトルがどう絡んでくるかが、今後の面白さを左右することになるだろう。
※…1957年にスイス人タイプフェイスデザイナーのマックス・ミーディンガー(英語版) とエドゥアルト・ホフマン(Eduard Hoffmann)が発表したサンセリフのローマ字書体。(wikipedia)語源は「スイスの」。スイスの話なん!?
作中作で旭がはまっている「異界の魔女子」(イカジョシ)のストーリーに沿った展開となっていくのだろうというのはほぼ確定であるが、正直「異界の魔女子」ってタイトルはダサくてとてもはやるようなものとは思い難い。
ここら辺に作者(たち)が自覚的かどうかで、今後の期待度は占われるなあ。
うらたろう
悟り坊主キャラとしてうらたろうを生まれ変わらせたのかと思ったが、
(当たり前だが)結構1部と地続きなキャラであった。
それゆえ抱えている憂いと悟りキャラで乖離が生じて、愛しにくいなあ。
うらたろうの中に1部の千代の要素を無理やり押し込めるのはやはりバランスを崩す要因となる。
そのバランスをとるためにもがりを出しているんだろうが。
しらたまくん
最近、この漫画はほのぼのどころかすごく狂気的な何かを描いているなと感じた。
普通にまず絵が怖い。
童顔なのに無理やりひげをつけさせられてお父さんという役割を演じらさせられているキャラの悲鳴が聞こえてくるかのようである。
これは、トイストーリーでビフが魔改造したおもちゃを見たときに見た目のインパクトとは関係なく感じた、命あるものを描くアニメで命があると感じられていて、それでも命がないんだなあと感じさせられた時の奇妙な恐怖と似ている。
ああ、このほのぼのしたしらたまくんワールドでこのお父さんは生きているように描かれていて、明らかに生きていないなあと思う。
念のため、これは下手だとかそういう批判ではないと断っておく。
アニミズムの綻びが垣間見えるさまが怖いのだ。
今回は、しらたまくんが両親とともに進路相談を兼ねた三者面談に出向き、友人鈴川葵の母と遭遇する、という話である。
三者面談で親同士があいさつし、それが子どもには恥ずかしい、というのはあるあるシチュエーションではある。
鈴川母は娘以上のマイペースキャラで話がどうもかみ合わない。
それも理解できる。
だが、そのかみ合わなさに対するしらたま父の反応が
・あ……いやこれは別に
・えぇそうですね
・あ…ヒゲの…
と受けに回っているため、ここでもなんとも奇妙に人格が感じられないのだ。
この怖さはなんなのだろう。
だからオタクじゃないってば(読み切り)
優等生オタク隠し女子をテンプレ通り描いただけのまんがだった。
描き方は全く予想を逸脱しないスタンダードなもの。
まあでも、それはみんなの期待通りということなので、あしたのヤングジャンプで少し人気が出るのはわかる。
でも、ここまでオリジナリティがないと、読み切りどまりでしょう。