兄弟漫才って異常じゃないか?
海原やすよ・ともよ、中川家、千原兄弟、ザ・たっち、ダイタク、吉田たち、Dr.ハインリッヒ、サカイスト。
いつも兄弟芸人を見るにつけ、どういう感覚なんやろか、と思う。
人間、家庭・学校・職場とキャラクターが違うのが当たり前だ。
それが平野啓一郎曰く分人主義。我々は様々な自分を使い分けながら、時に楽をしたり、時に強気になったりして暮らしている。
兄弟漫才師には、その自由がないわけだ。
息が詰まったりしないのだろうか。
ノスタルジーの象徴ともいうべき少年時代。
一番気まずかったのは家庭参観日だ。
学校で一番面白かったあいつが、参観日には手も上げず黙りこくっていた。
そんな思い出はないだろうか?
面白いことを考える人間は、想像力巧みであるがゆえに、確固たるセルフイメージを抱いていることが多い。
つまり、自意識過剰な人間が多い。
そんな人間は、自分が幾重にもキャラクターを使い分けていることをまじまじと感じさせられる=自分の処世術を外側から見させられることに、強い抵抗を感じるはずである。
なのになぜ、漫才師たちはコンビを兄弟で組むことができたのだろうか?
1つ考えられるのは、ほとんど一身一体のように感覚が近しいという可能性である。
自分と相手がまったく同じように渡世を渡るためキャラクターを使い分けているならば、それを起点に完璧に分かり合える。むしろいつでも一緒にいたいってなもんである。
もう1つ考えられるのが、いつもいつでも同じキャラクターの異常な人間が2人という可能性である。分人していなければ、恥ずかしい瞬間もないのだ。
中川家などは前者だろうか。
Dr.ハインリッヒは前者と後者のハイブリッドっぽい。
などといいつつ、大人になったら単に”自意識過剰”という熱病が治って、キャラの切り替えもなんのその、尻の毛まで見せられるわ、ということかもしれんな。
俺はまだ兄弟で漫才できるほど老練してはいない。