人間将棋説
人間を何かに例えて理解した気になるゲームほど面白いものはない。
この場合の面白さとは、カイジの兵頭会長とかが言うところの「面白い・・・!」を100,000倍矮小にした感じのもの。
そんなのわかってんだ、と保険をかけておく。
「凡人は歩だ」と考えてほしい。決して一回で何マスも進めるわけではないし、基本的には切り札として期待されるわけではない。前にしか進めない。成長を遂げることでやっとどこへでも進める。それまでは1方が1方の前に出てその進路を阻害することは許されない(二歩)。
「超天才は飛車角だ」と考えてほしい。縦へ、斜めへ、いくらだって跳べる。一発で凡人1人ならすぐに殺すことが可能だ。高飛車な若い時期を超えて成長したらいよいよどこへだって進める。それは、天才がある道で天才だ、と認められたならば他の分野でも一家言持てるごとしである。
「天才は香車だ」と考えてほしい。一方にしか進めない。ただ、その道でならばすぐさま突出した才能が発揮できる。だけど、戻れない。成長を遂げたら(金に成ったら)それまでの才能は失われてしまう。万能ではないが、一転において他の追随を許さない、それが香車の天才たるあかしだ。
「秀才は金銀だ」と考えてほしい。最初から視野の広い凡人相当の力は備えている。視野が広い。だから、最終的に対局に絡んでくることもしばしばだ。ただ、相手にとられてもしかたがないデコイとして 用いられることも少なくない。世の中の最大の歯車であり、だからこそ交換されやすいのが秀才だ。
「奇才は桂馬だ」と考えてほしい。突拍子もない結果を出す。果たしてそれがいいものか悪いものかの判断もつかないが、二者択一を攻められる場面などでは特記すべき効果を発揮する。
じゃあ王はだれだ?
「王は赤ン坊だ」と考えてほしい。どこへだって行けるのだ。取られたら終わりである。なんか主張したい文章みたいになった。