『ラッキー』70点 死によって完成した哲学
※ネタバレがあります
含蓄を求める日に
”含蓄”を欲する夜。人は賭けに出る。
例えば『レディ・プレイヤー・ワン』みたいなSF大作をみれば、おおよそ眠気とは無縁の2時間強を過ごせるだろうし、『ペンタゴンペーパーズ』だってドラマ性という意味でははずれなしが約束されている。どっちもスピルバーグだし。
いや、別に『ダウンサイズ』でも良い。ネット上の評判はすこぶる悪いが、それでもアイディアの奇抜さである程度の興味の持続の期待感は持てる。
それに対して『ラッキー』。
ストーリー
神など信じずに生きてきた90歳のラッキーは、今日もひとりで住むアパートで目を覚まし、コーヒーを飲みタバコをふかす。いつものバーでブラッディ・マリアを飲み、馴染み客たちと過ごす。そんな毎日の中でふと、人生の終わりが近づいていることを思い知らされた彼は、「死」について考え始める。子供の頃怖かった暗闇、去っていった100歳の亀、“エサ”として売られるコオロギ ― 小さな町の、風変わりな人々との会話の中で、ラッキーは「それ」を悟っていく。
ストーリーに起伏はないことが予想される。とはいえ、『ウディ・アレン』的な会話劇が物語の間中ずっと観客をくすぐってくれるのかもしれない。それは、俺にわかりやすい興奮やドラマとは一味違う”含蓄”を味合わせてくれるだろう。
そう思って、劇場に向かった。
所感―眠い
予告編を見ただろうか? 実際の作品のテンポ感はその0.8倍だ。
ラッキーは老人だから当然しゃべる速度は落ちている。
また、ラッキーの日常に何かが起こるわけでもない。
『パターソン』(2017)以上の繰り返し。
朝、なじみのカフェに行って、昼、タバコか牛乳を買って、
夕方、クイズ番組を見て、夜、バーでブラッディ・マリアを飲み、眠る。
そのほかの行動は一度、商店の店員に誘われてパーティに行くだけ。
――ああ、眠い。
いや、そういう映画だと最初からわかっていたし、それが良いという方が多数いることもわかるが、それでもあまりに遅いと思った。
予告のテンポ感でいいのだ。そこから落としたらさすがにつらい。
要するに、この作品が支持されているのって「国民の持つ底辺老人あるあるに共感できるから」と「ハリー・ディーン・スタントンの遺作だから」なんじゃないの? と思った。
俺はあいにくアメリカ人じゃないし、老人じゃないし、ハリー・ディーン・スタントンに思い入れもない。そんな人間には見る資格がなかったのかもしれない。
だから、もしこれが邦画で主人公が「孤独な元大日本帝国軍人。退職後は極右になり、現在死を前にして孤独」だったらもっと心に来たのかもしれないなと思った。
時代に取り残された男
カウボーイハットをかぶる、1人の孤独な老人。妻や子どもはいない。
どこでもタバコを吸おうとする。
趣味はクロスワードパズルとクイズ番組。だが、あまり複雑な構成の番組は好まない。
わからないワードがあれば、電話をかけて尋ねる。
バーでは、いつも同じものしか頼まない。
それが、ラッキーだ。
カウボーイハットを五厘狩りに、バーを飲み屋にすれば、日本でもこういう爺さんは五万、十万といるだろう。
そんな男が「ラッキー」。そういう、皮肉交じりの導入から、それが実は真実であることを証明する過程、それがこの物語のテーマだったのだと思う。
そのため、この物語ではラッキーのわびしさ・独居老人感が重要になる。
それが、日本人の俺には伝わりづらかった。
もしも、ラッキーが「幸福太郎」という名前で、自宅は猫の額ほどのアパートで、朝は具なしのお茶漬けだったらどうだろうか。
かなり、わびしさが伝わる。
この作品が伝えようとしたものを日本人が味わおうとするなら、すでに『生きる』(1952)がある、ということなのかもしれない。
ただ、『生きる』はまだドラマ性があるからな…。
もっと(悪い意味でなく)つまらない『生きる』だな。
「空」について
植物が咲き乱れる場所の前を通る際には決まって「クソ女め」とつぶやく。
公式説明文でも明らかにもって余った言い回しになっているこの植物が咲き乱れる場所。
そこがなんなのかは、物語の終盤に明らかになる。
そこは、「エデンの園」。つまり、クソ女とは、イヴのことだ。神に作られた最初の人類、アダムの妻で、蛇の誘惑に負け、知恵の実(リンゴ)をかじったことでエデンの園から追放された彼女。
――クソ女め、お前がリンゴをかじったせいで、俺はこんなクソったれな現実を生きてるんだぞ
数万世紀越しの「母ちゃんのせいで…」。
ラッキーは作中で3回エデンの園の前を通るのだが、「クソ女め」とつぶやくのは最初の2回だけ。
3回目は黙って立ち去り(そこで”そこ”=”エデンの園”だとわかる)、「エデンの園」は「閉園中」だということがわかる。
もう1つ、示唆的なシーンがある。
デヴィッド・リンチ演じるハワードが終活のため、呼んだ弁護士にケンカを売ったラッキー。「終活なんかするな! 弁護士なんざ詐欺師だ! 表に出ろ」。表でタバコをふかしていると、友人のポーリーが止めに来る。そうして2人が話していると、店のわきの空き地から、音楽と赤い光が。ポーリーは待てといい、その中へ進んでいく。しばらくしてラッキーもその中へ。そこには落書きだらけの空間と「EXIT」と書かれた扉があり、その中へ進んだラッキーが覗き込んだ顔面のショットで、夢が覚める。
そして翌日、ラッキーは「死ぬのが怖いんだ」と告白する。
つまり、このシーンは、ラッキーが「出口」=「死」を覗き込んだ様子を表しているのだろう。死は、落書きや聞きなれない音楽のように不愉快な道の先にあり、覗き込んだ先は、暗闇でしかない。
終盤、禁煙ルールが敷かれているエレインの店でラッキーはタバコを吸うと言い出し、もめた後、こう言う。
「死とは、「空」だ」
これは、非常に仏教的な考えだ。
空とは、梵語「シューニャ」の訳語で、よく「無」とも漢訳される。(中略)ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを「空」という。
例えば、ラッキーが趣味とするクロスワードパズル。言葉はすべて単体では成り立っていない。「L・U・C・K・Y」のLは「L・I・K・E」の「L」でもあり、「L・U・S・T」の「L」でもある。そこに絶対的な意味はない。観測者が意味を見出すだけである。
説明文の通り。ラッキーは神を信じない。自信を現実主義だと言う。そして自己流で、たどり着いたのが仏教の考え。そう思うと、この作品は、キリスト教では救われない魂が仏教的な”空”の教えに救いを求める話なのかもしれない。
自分は不勉強にして『レボマン』も『パリ、テキサス』も観たことがなく、ハリー・ディーン・スタントンを知らなかったのだけど、これは、彼の映画なんだね。
【ハリー・ディーン・スタントンのプロフィール】
1926年7月14日、ケンタッキー州生まれ。第二次世界大戦に出征、海軍に従軍して沖縄に上陸した。
「ゼン・カウボーイ」と形容され、仏教的な価値観を支持する人物としても知られた。
カントリー・タッチのシンガー、ギタリスト、ハーモニカ奏者として精力的な活動を展開。
そんな彼が遺作として、自身の分身のような作品を作ったこと、それ自体に価値がある、というのはわかる。
まさに、死によって完成した物語なんだな。
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