裸で独りぼっち

マジの日記

バンド界のネアカ風潮とアカシックの進化について

カルチャーは流転する。

一昨年あたりから、バブル期に流行したプロデューサー巻きやペアルック(双子コーデ)が再びおしゃれに仲間入りした空気は、ファッションに疎い俺でもうっすら感じ取った覚えがある。

音楽も80・90年代音楽の再解釈的なものが世界でも日本でも流行っているだろう。

例えばBuruno Marsとか、星野源とか、シティ・ポップ勢とか。

 

その一連の流れと同じく、バンドマンのキャラクターも流転する、と思う。

 

90年代から10年代までのロストジェネレーションは自然体でダウナー、終わらない日常を歌う感性過多なやつ、がバンドマンのソーシャルイメージだったと思う。

それ、終わろうとしてるよね。ていうか最近終わったよね。

 

セカオワあたりが分岐点となってバンドマンは”たのしいときを提供する”バンダイみたいなやつの主戦場となってきている。

Mrs.Green Appleとか、ヤバイTシャツ屋さんとか、夜の本気ダンスとか、最近の若手バンドマンはもちろん感傷的な曲とか世の中への怒りを歌う曲はあれども、究極的には人生を肯定してる感すごない?

 

で、そういう流れに対して結構退廃的な世界観が現存してるのが女バンド界だと思うのだ。

 

ミオヤマザキとか、sylph emewとか、vivid undressとか。

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「いやまあ、メンヘラ向けなだけだろ」と言われたらそうなんだけど本質的な人生後ろ向き感に需要があるマーケットはそこだけなのかな、と。

 

で、アカシックもそういうバンドの一種だなーくらいに思っていたのだ。

 

でも違う、と最近反省した。

何が違うかっていうと、それはつまり、”aiko”成分である。

 

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aikoがMステで言及して一躍再生数が伸びた曲。

 

早口で語りっぽさを混ぜた譜割りの詰込みとかは大森靖子っぽいんだけど、階段状に上下するメロディラインだったりAメロの6度を使ったコード感だったりがaiko的なポップ感を付与している。

で。

それがこのバンドの「対象」を大きく広げていると思う。

やっぱり楽曲にポップさやメロディアスさが増すと、バンドっぽさが薄れる代わりに、豪華になる。それが過ぎるとコバケンサウンドに代表されるいわゆるJpopになってしまうのだが、そのバランスがちょうどとれたバンド楽曲は、誰でも「お、これは」と耳を向けるような大衆性を獲得できるのだ。

 

最新アルバムのリード曲の1つがこれである。

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事変っぽい。

主にguitarとピアノの音色のせいだとおもうけど。

 

注目したいのが2:30くらいからの間奏で、ポップになるとともにバンドとしてのグルーブも増している。だから間奏部分でもどれか1つの楽器がなっている、というよりは楽器全体が「曲」として音楽全体を形作っている感じがする。

 

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このころだとまだ演奏力がないっていうのもあって、2:07くらいからの間奏でもキーボードが目立つところはほかの楽器は引っ込んで、ギターが目立つところでは他の楽器は引っ込んで、となってしまっている。

 

要するに、ああ、これはメンヘラ軍団の仲間ではなく、もっともっと一般性を獲得していくバンドだぞ、と1リスナーとして俺は思ったのであった。

 

エロティシズム

エロティシズム

 

 

 

『スティング』(映画)感想 77点 名作ってこういうもの

いわゆる超名作超王道コンゲーム映画『スティング』を1.5回見た。

 なぜ1.5回かというと、1回目は途中で寝てしまったからだ。

 

勿論夏にしては過ごしやすいその日妙に早起きしてしまったとか、

昼下がりの微妙な陽光に眠気を誘われてしまったとか

環境面での理由が大きいのだが、

それでも寝てしまったということで

やや退屈に感じてしまっていた部分はある。

 

”スティング的”なものがあふれた世代

 スティングの影響を受けて生まれたであろう作品はこの世にごまんとある。

いわゆるどんでん返し系――『ユージュアル・サスペクツ』(1995)とか、『シックス・センス』(1999)とか、『SAW』(2004)とか、全部『スティング』の遠い子孫と言っても良いのではないか。

 

それらでさえ10年も前だ。最近で言えば『スプリット』(2017)とか『22年目の告白 私が殺人犯です』(2017)とかも…。もはやこれでも怒る人がいるくらい慎重に扱わなければいけない部分。。。

 

で、昨今の風潮としてカット割りの細かさで観客を飽きさせない、というのがある。そういうものと比較すると、スティングは長回しが多いし、シークエンスの切り替わりも小窓がシュルシュル小さくなったり、画面が横からスクロールして入れ替わったり、古典的(当時は最新)の手法ばかりだ。

 

”スティング的”なものの世代

勿論だからと言ってスティングがつまらないわけではない。

そもそもつまらなかったとしても全ての源流の1つとしてリスペクトされるべきだろう。

ちょうど今度新作が発表される『ブレードランナー』が今見ると多くのSFのあるあるシーンの詰め合わせに感じてしまうように。

 

ライムスター宇多丸ダイノジ大谷のラジオで映画『キサラギ』の問題点を解決している理想のモデルとして『スティング』を引き合いに出していた。

 

 ダイノジ大地:どうしても、最後予想もつかない大どんでん返しとかそういうのはもう大好きですよね?そういうのが映画のだいご味なのかなと。

宇多丸:例えばスティングですよね。予想もつかない大どんでん返し。

ダイノジ大谷:最高じゃないですかスティング。

宇多丸:スティングは何度見ても面白いと思うんですよ。だからそのパズル映画(予想もつかない大どんでん返しだけが魅力の映画)って何度も見る気になったりするの? みたいな・

ダイノジふたり:あー

宇多丸:いったん説いたジグソーパズルをもう一回やりますか? みたいな。

ダイノジ大谷:あとやっぱわかるのがさっき言った洒落とかおしゃれとかいうけど俺やっぱそっちの映画はおしゃれじゃないけどスティングはめっちゃおしゃれだと思う。

動画の24:35~

まあ全面的には首肯しかねる((そもそも一度しか見る気にならないパズル映画にも映画的価値はあると思うし、ドラマが描けていなくてもそれはそれでいいのだと思う。ちょうど綾辻行人に代表される新本格ミステリが、松本清張に代表される社会派ミステリと比較して「人間が描けていない」と批判されたが、いまだに多くの支持を集めているし、それ自体が小説の地平を広げたように。が、確かに「何度も見れる」「おしゃれ」というのには俺も同意だな、と思う。

 

この映画をどんでん返しだけにしない工夫がどこにあるかと考えると、ひとえにゴンドーフというキャラの魅力ではないか。

 

ポール・ニューマン演ずるゴンドーフのキャラクターはいわゆる絶対的な師匠。主人公フッカーが家を訪れた時には飲んだくれていたが詐欺の実力やトランプの手さばき(実際はニューマンではなくプロの手の差し替え)には絶対的な実力がある。

 

ジョジョ1部『ファントムブラッド』のツェペリ男爵みたいだよね。

 

フッカーよりもこのゴンドーフのキャラクターが作品を引っ張った。

だからこそ、wikiで紹介される順番もゴンドーフの方が先なんだろうし。

 

スティング (映画) - Wikipedia

 

逆にいうとゴンドーフ以外の人間はもう少し描いてほしかった気がする。

フッカーに金をだまし取られたロネガン一味の下っ端なんて「お、こいつが主役か」と思っていたら開始20分で殺されたからね。

スティング (字幕版)

スティング (字幕版)

 

 

村上龍『69』を読んでる途中の気持ち

村上龍『69』を読んでいる。

彼女にお前なら好きだろうといわれたからだ。

 

小学生時代の俺は村上龍を知らず、

中学時代の俺にとって村上龍は原題が「クリトリスにバターを」という小説『限りなく透明に近いブルー』を書いた癖に権威づいている人で、

高校時代の俺にとって村上龍はダブル村上の目の下が黒くてオードリー若林が愛読しており父の見るカンブリア宮殿で最後に感想文を書く司会だった。

 

要するに、周辺知識ばかり増えていったのだ。それなのに、俺はこれまで村上龍の作品を読んでこなかった。人並み以上には本好きであるあずにもかかわらず、だ。

 

何となく手が伸びなかったのは周辺知識を集めすぎたからかもしれない。タグ付けするほどに村上龍の幻想が俺の中で膨らみ、それが破壊されるのも肯定されるのもうっすらと怖いような気がしていた。

 

現在文春文庫版の『69』を110ページ。

四人の刑事が僕の家にやってきた。

ここまで読んだ。

 

彼女の言う通り、主人公の持て余す割にはあまりに実態のない自意識と性欲と饒舌な言葉は俺の好みにピタリと合う。

そんな部分が見抜かれていたかと思うと恥ずかしい限りだ。

 

 

69 sixty nine (文春文庫)

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台風の日の学校

台風は非日常を連れてくる。

学生時代、我々が文化祭準備に精を出す8月には必ず台風なんとか号がやって来ては学校に閉じ込めた。

精を出すといっても自主的なものではなく、ほぼほぼ奴隷労働も同然の単純作業担当となり、段ボールを切ったり発泡スチロールを結合したりしていただけである。

それは何のための作業なんだ?

と問われればお化け屋敷作りのためだ、年か言い様がないし、お化け屋敷作りだなんて児戯そのものだといわれれば、何も否定する言葉を俺はモテない。

それでも、台風で封鎖された学校の空気感は好きだった。

俺の通っていた高校は――今では珍しいのかな――内装は完全木造で校舎には世界大戦の爪痕が残されているほどの旧弊的なものだったため、校舎は良く軋んだ。

このままオズの冒頭のごとく飛ぶ教室となって、知らないところに漂流できるんじゃないかと思ったのだ。

その結果ぺんぺん草1つ生えないのに巨大サソリや巨大ヒトデが跋扈する世界に飛ばされたってかまわない――とは、口が裂けても言えないが、スウェーデンの野っ原に着地できるなら少々の手負いは厭わない、と思う程度の本気度ではあった。

 

今日は台風の日だ。バスは遅れ、窓は曇り、俺はこのバスごと何処かへ飛ばされていっちゃくれんか、と不謹慎な願いを学生時代のあの気持ちを噛みしめている。

もうほとんど味のない、青春の十二番出汁を堪能している。

 

台風クラブ [DVD]

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た 

『ドリーム』(Hidden Figure)感想

完璧な物語にはよく、「言うことがない」という形容がなされる。

これはすなわち「文句のつけようがない」という意味なのだが、

同時に「語りようがない」ということでもある。

これはすなわち映画を観た感想を書き散らすことを趣味にしている人間にとっては

ちょっと困ることだ。

ドリームはそういう、「語りたがり屋」をちょっと困らすような、正しさ、・面白さのレベルが限りなく高い位置でバランスを保っている作品で、まいった。

(こういう感想を抱く資格があるほど俺は映画詳しくないけど)

あらすじ

冷戦下、まだ人類が一度も宇宙に到達していない時代。アメリカとソ連はどちらが先に有人飛行を成功させるかに国の威信をかけ、競争に明け暮れていた。むろんアメリカにおけるその中心はナサ。ナサには「計算係」という部署があり、その部署では多くの優秀な黒人女性が不当な扱いを受けつつ持ち前の数学力・科学的知識を発揮する機会を狙っていた。そのうちでも大きな功績を残した女性が3人いる。たぐいまれなる数学力でスペースシャトルの軌道計算に携わったキャサリン・G・ジョンソン。米国発の黒人女性技術者となったメアリー・ジャクソン。プログラミング言語を駆使し、また管理職として多くの計算者を導いたドロシー・ヴォーン。キャサリンをメインのキャラクターに据え、3人の黒人女性がいかに偏見や差別と闘いながら宇宙計画に携わったかを描く。

 

 

www.foxmovies-jp.com

 

タイトル問題

この映画が日本のアーリーマジョリティの注目を集めるきっかけとなったのは、タイトル騒動だろう。原作タイトルは『Hidden Figures』。それが『ドリーム~私たちのアポロ計画~』という邦題に改題され、あまりに内容と違いすぎるということで多くの非難を浴びた。

www.buzzfeed.com

その結果、『ドリーム』というシンプルの極致的タイトルに改題されたわけだ。

う~ん日本っぽい経緯。。。

とはいえそのまま『ヒドゥン・フィギャーズ』では「どんな話なの??」ってなるだろうしなかなか邦題のセンスが問われる原題ではある。

『隠れた偉人』とかもあまりにで伝記っぽすぎるしね。

 

 

人間将棋説

人間を何かに例えて理解した気になるゲームほど面白いものはない。

この場合の面白さとは、カイジの兵頭会長とかが言うところの「面白い・・・!」を100,000倍矮小にした感じのもの。

そんなのわかってんだ、と保険をかけておく。

 

「凡人は歩だ」と考えてほしい。決して一回で何マスも進めるわけではないし、基本的には切り札として期待されるわけではない。前にしか進めない。成長を遂げることでやっとどこへでも進める。それまでは1方が1方の前に出てその進路を阻害することは許されない(二歩)。

 

「超天才は飛車角だ」と考えてほしい。縦へ、斜めへ、いくらだって跳べる。一発で凡人1人ならすぐに殺すことが可能だ。高飛車な若い時期を超えて成長したらいよいよどこへだって進める。それは、天才がある道で天才だ、と認められたならば他の分野でも一家言持てるごとしである。

 

「天才は香車だ」と考えてほしい。一方にしか進めない。ただ、その道でならばすぐさま突出した才能が発揮できる。だけど、戻れない。成長を遂げたら(金に成ったら)それまでの才能は失われてしまう。万能ではないが、一転において他の追随を許さない、それが香車の天才たるあかしだ。

 

「秀才は金銀だ」と考えてほしい。最初から視野の広い凡人相当の力は備えている。視野が広い。だから、最終的に対局に絡んでくることもしばしばだ。ただ、相手にとられてもしかたがないデコイとして 用いられることも少なくない。世の中の最大の歯車であり、だからこそ交換されやすいのが秀才だ。

 

「奇才は桂馬だ」と考えてほしい。突拍子もない結果を出す。果たしてそれがいいものか悪いものかの判断もつかないが、二者択一を攻められる場面などでは特記すべき効果を発揮する。

 

じゃあ王はだれだ?

 

「王は赤ン坊だ」と考えてほしい。どこへだって行けるのだ。取られたら終わりである。なんか主張したい文章みたいになった。

 

 

複雑かつポップで怪奇FEEDWIT

FEEDWITというバンドがもっと評価されるべきという話をする。

 

 変態の曲展開じゃないですか?

16/16拍子で展開するリズムの細かさの中でどんどんテンポチェンジをかましてくる。

音の空間の作り方もどこか変わっている。

 

全体の構成を書き起こすと

イントロ→リフ→Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→ブレイク→リフ→Cメロ→Dメロ→サビ→Eメロ→イントロ→リフ’→Aメロ→Bメロ→Aメロ’

 

最近の曲でよく使われるフレーズに「別々の2曲をくっつけたみたい」というものがあるが、まさにそれだ。ほかのそれ以上にそれなのだ。

 

そういう意味では流行っぽいバンドかもしれないが、(男女混成だし、)やはりそこに収まらないくらいの過剰さがある。方角の流行という画面に収まっていない。

 

この最新曲なんて特にそうで、東京事変っぽいところもあれば50回転ズっぽいところもあればTOMOVSKYっぽいところもある。

だから、以下のようなコメントも理解できる。

各人が才能あるのは分かるけど、才能やら個性やらを一曲に詰め過ぎかな?

(「執着に心」YOUTUBEコメントより)

 昔エレカシのミヤジがラジオでアナウンサーに際しなるバムを指して「一見食べづらいんですけど一回口に入れたらこんなうまいもんないや」という趣旨の感想を言われて「じゃあ食うな!吐け!!」と切れた一件があった。

その表現を借りるなら、「一見食べやすいけど食べたことない味すぎて「これ美味いのか???」てなります」だ。

でも、きっとうまいに決まっている。もうちょっと人類(俺)が成長しないと味がわからないんだ。

 

FEEDWITのVo.&Gt. 武藤弘樹(写真左から二番目)がアレンジして引いてみた音源。

 

ここから読み取れる(聞き取れる)特徴は

①4拍子目に置くアクセント

②リズミカルなミックス

③コーラスがコーラスの域でなくメロディになっている

クリーントーンが細かく鳴らすオブリガード…

上記のような部分だろうか。

 

「前々前世」をアレンジするなら、某ガチョウのハウジングみたいにアコースティックにしたり、ジャズ風にしたり、というのが思い浮かぶが、ここまで同じ方向を向いたアレンジ(疾走感×ハイトーン男声)なのにこれほど自分のものにできてるのはやっぱり只者ではない。

この人がバンドの方向性を作っているんだろうなあ。

Twitterを覗くと「前まで死にたかったけど今は音楽に向き合ってから死にたい」という趣旨の発言をしていたので今後もいい音楽を作ってくれるはずだ。

とりあえずライブを見に行きたい。それだけ。

 

 

小さじ一杯ヨーロッパ

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