『淵の王』感想
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舞城王太郎の小説は『ディスコ探偵水曜日』でなんだか集大成を迎えてしまったような気になってその後の『ジョジョノベライズ』の悪評と『バイオニーグトリニティ』のイマイチはまらない感じで読まなくなってしまっていた。
しかし、『淵の王』最高傑作ではないか。
隣人のようで神のような二人称という文体が瑞々しくて新しい。
思えば我々読者は小説の主人公にたいして常に同様の立場―傍観者―をたもつしかないわけで、最も読者を代弁してくれる小説といえる。
だから、読みやすい。
その上でテーマは『こわい話』。
グルニエ、穴、食われる。
女の持つ恨みが呪いを引き寄せるというのは近年でもエポックな傑作ホラー『ぼぎわんがくる』との共通項だ。
時代の空気がここにある。
我々は主人公に寄り添うしかできない傍観者として、こわいものに巻き込まれていく彼らについていく。そして、こわいことがおこる。
しかし、主人公はあくまで戦うものであるのはこれまでの舞城節である。
暗くならず、でもこわい。
スキマ女という怪談があるが、スキマも含めて事物はみな淵で象られている。それを司る王に実態を食われるのが淵の王なのか。
しかし、最後の最後で淵に自ら飛び込む主人公。淵の奥で何がなされるのか。それは読んで確認されたし。
最後にタイトルについてうまいこと言って回収したい癖が抜けない。
正直なんで『淵の王』なのかは全然まったくわからなかった。
文庫版の装丁はぼくのりりっくのぼうよみの『Furuits Decaying』のジャケみたいだった。
Story
これは、舞城王太郎のこわいはなし。
中島さおり、堀江果歩、中村悟堂の3人のはなし。
さおりは地元の大橋伊都ちゃんのもとにきたこわいものと対峙―私は光の道を歩まねばならない
果歩はバドミントンに打ち込む学生時代から一転、漫画家へ。絵に入り込む謎の女がグルニエ(屋根裏部屋)にこわいものを呼ぶ―俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ
悟堂は虹色ちゃんとつかず離れずの関係でありながら斎藤さんの問題に巻き込まれてしまう―布団ふふふ布団布団布団。ご、ごごごっごごご悟堂くん悟堂くん悟堂くん悟堂くん
この作品リリース時に舞城王太郎は深夜百太郎というアカウントでTwitterで百物語を紡いでいたが、あれは何だったんだろう?
一番好きだったのは果歩の話。というか果歩がいい奴すぎるのだ。
そんな果歩がしっかりと青春にうちこみ、きっぱりと人生を進め、まっすぐにこわいものと戦い、それでも飲み込まれてしまうのがすごい。
それでもこわいわけでなく、悲壮感があるわけでもないのだ。
果歩の話は『大きく振りかぶって』『GANTZ』など漫画ネタが多く出てくるのも楽しい。ネタというか作中の部品として。