2019/01/03 夜
今日は高校時代の友人4人とともに京都へ。
なんのことはない、新幹線に乗る友人を見送りに行ったのだ。
高校の有象無象が同窓会をやらかしたというのでその噂を聞く。
5人中、一人しか参加していない。
連帯や絆という言葉とは関係性が薄く、休み時間は100yenを賭けた大富豪に興じる5人であった。
文化祭の日にはマージャンをしていた。
予想通りというべきか、期待に合わせてくれたのか、クソつまらなかったという報告に安堵。
そうでなくっちゃねとしか言いようがない。
俺の過去に潜む俺と関係者以外の有象無象に”面白い人生”の一端にケツ肉をなじませる余地はないのだ。
(と、ツートライブの漫才をオールザッツの動画を見ながら考える)
帰りは、運転手がほぼ居眠り運転状態で非常にビビった。
ビビったといえばキュウソネコカミのメジャーデビューファーストトラックだが
当時はメジャーに行って実に微妙な曲を出したなと思ったが今聞くと意外に良い。
青春とはそういうものである。
青春おじさんがいっていた。
青春おじさんを味のある絵柄(山本さほ的な)で描ける画力忍耐力財力がいつか見につきますように。
2019/0103 朝
昨日の振り返り。
王将は、王将ではなく、空音(くうね)という香芝の中華料理屋だった。
香芝というのは、奈良の地名である。
大場と梅野風味のチャーハン
鶏肉の黒コショウ炒め
エビチリ
牛乳プリン
などを食べた(ほかにもいろいろあったが書くのが面倒になった)。
うちでは杏仁豆腐が苦手な方に配慮して牛乳プリンを提供してます…とのことだったが「牛乳プリンが苦手だったらどうすんだ」と思った。
夜はそのままいとこの家へ。
『深夜のダメ恋図鑑』という漫画を読む。
もともとにちゃんまとめサイト等で存在は知っていた。
4巻が欠落していたが気にせず読み進められた。
まあ、面白かった。
風呂に入って24:30に寝床へ。
『有吉の壁』がやや恋しかったが、もうコンテンツより眠気を優先する年であり人間になってしまったのだ。
それが幸福の秘訣である。
健康に勝る宝物などないのだから……。
2019/01/02 おせち、甘樫丘、王将
もっとブログを痰壺にしていかなくてはならない。
9:30-「おせち」
今日は朝からおせちの残りを食べる。
ドンキで買ったおせちの残り。
「魚類はたいてい臭いけど今回は臭くなくてうまいな」と父。
俺は臭いほうがうまいと思う。
……嘘だ。
10:30-「甘樫丘」
中学からの友人と奈良の激アツスポット甘樫丘へ。
どのくらい激アツ化かというと、友人の1人E君がそこで別れ話をしたのだ。
前の彼女と。
そのE君もついに結婚ということで非常にうれしく思う。
18:00-「王将」
今年の親族含めての新年会はいとこのバイト先の王将。
友人には「貸し切りだ」といったが本当は貸し切りではないみたい。
どういう嘘だよ、俺。2019年も嘘まみれの1年になりますように。
なんで?
『ライ麦畑で出会ったら』思春期拗らせイイ子ちゃん映画 75点
うわー、痛いな。この主人公もだけど、この映画を作ろうって側の繊細で傷つきやすい俺たちのための映画を作りました感が。
この映画をドヤ顔で家族や友人に見せて悦に入って、でもその数年後にあのときの彼ら彼女らには”そういう子どもっぽい感傷に浸る人”という認識で話を合わせてもらっていただけだと築いて、死にたくなるんだろうな。
年老いた気がしてなんか落ち込んだ
僕とサリンジャーとの出会いは日本の小説家佐藤友哉の『フリッカー式』。サリンジャーを日本の探偵小説・黎明期のラノベと合体させようとした作品で、小学校時代から中学時代にかけて新本格推理小説の徒(詳しくは任意のワードで調べてほしい)だった僕は、推理小説を読む目で見て、それとは違う思春期的なハマり方をした。
それで、ちょっと調べてみると『フリッカー式』に始まる佐藤友哉の「鏡家サーガ」がJ.D.サリンジャーがつづった『グラースサーガ』のオマージュ作品だということがわかる。サリンジャーといえば、『ライ麦畑で捕まえて』は知っている。
で、僕はすぐに、『ライ麦畑』を毎週のように通っていた市立図書館で借りて
――読まなかった。
なぜなのか、理由ははっきりとわからない。
ただ、僕はただ本を読んでいた、というだけで自我の発達や精神的な成熟は人よりも遅かったのかもな、と思う。
知らない外人の知らない悩みの話、というだけでどうも受け付けなかった。
冒頭のスペンサー先生との会話からして、学校の先生とそこまでの関係を築いたこともなかったし、これから築ける気もしなかった。
『ライ麦畑』と僕の距離は、『車輪の下』や『少年の日の思い出』と同じくらいに遠かった。それが遠いかどうかは、あなたの経験や思想によって変わるけれど。
それで結局いつ僕が『ライ麦畑』を読破したかというと、大学2回生(関西では年生ではなく回生という)である。もうとっくにホールデンの年齢は追い越した僕ではあるが、やっとなるほど、こういう話だったのかとつかむことができたしハマることができた。
思うに、ホールデンをちょっと上から見れるくらいの心持だったのがよかったのかもしれない。
『ライ麦畑で捕まえて』のアマゾンレビュー(野崎訳でも村上訳でもよい)をみると、結構な割合で「こんな自分勝手で中二くさい人間の小説には共感できない」という低評価レビューと「そこは認めつつもやっぱりホールデンに自分を重ねてしまうしこれは最高のジュブナイルだ」という高評価レビューが見られる。
僕も25の齢を重ねて後者の高評価レビューに差し掛かろうとしていたのだが、この映画『ライ麦畑で出会ったら』を読んで前者の低評価レビュー的な(いくら繊細か知らないけどただ甘ったれてるだけじゃん。さんざんいい思いして自分の立場をわかってるのか)という思いが沸いた。
これは僕が年老いてしまったのか、それともこの映画がより青臭いものなのか、不安のようなものが、心臓の周辺から胃袋の上端にかけて渦巻いている。
ストーリー
主人公ジェイミー(アレックス・ウルフ)は、まじめ・こじらせ・いじめられっ子。名門の男子校クリプトン高校の演劇部に所属しているが、やる気ばかりが空回りし、演技中にはゴミをぶつけられて笑われる始末。
そんなかれのバイブルはJ.D.サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。卒業制作で自作の演劇を披露する必要がある彼はその脚本を執筆し、サリンジャーの許可を得るべく、連絡先を探していた。
しかし、ルームメイトの裏切りにより、サリンジャーへの思いを込めた手紙(クラスのみんなは「体制の奴隷」です~~)を読まれ、自室は襲撃にあい、ジェイミーは学校をでていくことに。
サリンジャーの家に行って『ライ麦畑』の舞台化の許可がもらえれば何かが変わるかもしれない。スーツケースを転がしながらヒッチハイクを始めた彼を拾ったのは、唯一サリンジャーの話で通じた他校の女子、ディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だった。
結論、僕は老いていない
この話の何がむかつくって、学校の大人がみんな主人公の理解者で、聡明な女の子も主人公に惚れていて、結果すべてがうまくいくことなのだ。
おいおい、そんなにうまくいかないからこそ、ホールデンは最終的に閉鎖病棟行きになったんじゃん――。
こういう子供のことをわかったふりをして、すべてが丸く収まるような結末に持っていくことこそがインチキのはず。
ジェニファーは退学になるし学校の友人からもついぞ認められることはないけど、辞めてからでも人生は続くしディーディーの店には自分の意志で入り浸ってやったくらいの結末がよかった。
これくらい拗らせた注文ができるんだから、僕はまだ老いてはいないはずだ。
補足1:実話の再現度
この映画は85%くらい監督が実際に体験した実話らしい。
だろうね、と思う。
サリンジャーにあってからの会話がやたらに長くつまらないのだが、そのつまらなさは確かに現実にこんなやり取りがあったろうなと思わせるものであった。
ジェニファー「サリンジャーさん、僕はあなたの作品に感動しました! 舞台化させてください」
サリンジャー「あかんで。作品は俺のもんやで」
ディーディー「でも彼、学校でつらい思いをしてるんです!」
サリンジャー「さよか。才能あると思うからオリジナルでやり」
要約すれば上記のようになるやり取りが7分半ほど続く。
でも、監督が実際に体験したことだから完全再現したかったんだろうなあと思う。
ただ、前半変に色気を出したというか、周りの景色がみんなストップモーションになってジェニファーが観客に向かってベラベラ語り掛けるというジュブナイルものにありがちな手法が使われていたのは「ちょっと監督前半は”面白く”しようとしてたやん」と思った。
もう完全にリアリズムで行く、と覚悟して後半のつまらない会話シーンならまだ信念として評価できるのだけど、前半に色気出していたということは、単に配慮が足りないだけだね。
補足2:サリンジャーフォロワーの軽々な傾向について
この映画の後半のフックとしてジェニファーの兄がベトナム戦争で命を落としており、それがジェニファーの心の傷となっているというものがある。
ここで思った。
どうやら、『バナナフィッシュにうってうけの日』のシーモアと、『ライ麦畑』のアニー・D.B.をぐちゃぐちゃに混ぜて物語に援用するという発想は、サリンジャーフォロワーにとって自然にそうなってしまうものらしい。
『ムタフカズ』67点 バンドデシネ×Studio4℃アニメ
2018年10月28日(日)12:00-13:40 @仙台の映画館チネ・ラヴィータ
CreepyNutsのANNゼロを聴いていたら、声優として出演してますよというお知らせがあったアニメ、ムタフカズ。
一瞬の出演時間といっていたけどマジで一瞬だった。
知り方は好きなラジオだったわけだが、俺は別にミーハー女的な感性で作品を見に行ったわけではなく、元々こういうのが好きだった。
アニメを全然見ないのに、こういうのに惹かれてしまうのはサブカル的な(「バンドデシネ」っておしゃれや~ん的な)自意識なのか。
だとしたらダサいな、と思いつつ、恥じらいつつ、それでも見に行ったわけである。
実際のとこ、感想はどうだったかというと、67点という点数が示す通り、あまり高くなかった。
俺は、物語を信じているからだ。
行ったり来たり
ストーリー
犯罪者と貧乏人の吹き溜まり、ダークミートシティ。その街でその日暮らしを送るのが、物語の主人公アンジェリーノ(通称:リノ)<声:草彅剛>、その相棒のヴィンス<声:柄本時生>である。
…リノは黒の素体に大きな目、ヴィンスは頭に火のともった骸骨。
ペットのゴキブリ(大量!)とともに暮らすある日、ピザ配達の途中に目にした美女に目を奪われてリノは事故にあい、それ以来謎の頭痛と幻覚に悩まされ、人間の影が角の生えたおかしな形に見えるようになる。
そんな彼らは、馬鹿で臆病なコウモリのウィリーと遊びにでかけた中途から、黒服の集団に追われることに。家にまで襲撃を受けたリノとヴィンスは、政府の指名手配や黒服の襲撃をかわしつつ、逃げることになる。
”気づいてしまった”主人公が 逃げる話である。
ただ、そういう話に重要な「冒険」感が致命的に欠けているのだ。
自宅から追われたリノとヴィンスはスラムの隠れ家に潜むが、その家はすぐに見つかり、また逃避行が始まる。
――一通り、カーチェイスを行い、追手は壊滅したのに、腹が減ったためにまた地元へ戻る。
――で、なにゃかんやあって逃げ切って、バスでメキシコ国境を超えようとしていたのに、ヴィリーの電話を受け、また戻ることになる。
…全然マップが広がらない…。
逃げては戻り、逃げては戻り。リバタリアン各位はさっさと逃げんかいと腹立ちのつるべ打ちだったのではないか。
ウィリーの電話を受けて戻るときに「俺はココで戻らなくちゃ、一生自分を許せねえ」的なことをリノが言うのだが、それはウィリーに言わせるセリフだろと思った。
臆病で逃げてばかりのやつがそんなセリフを吐いて戦うからこそカタルシスが生まれるのであってめちゃ強い主人公がそのセリフを吐いても普通にちょっと違和感が生じるだけだ。
レスラーなんやってん
この物語の基本設定をネタバレしちゃう。
主人公リノは宇宙人と人間の交配種だった。そして、街で見かけた謎の美女も。彼らは人間以上の力を持つが、寒さに弱く、冬は活動できない。その問題を解決するため、地球は温暖化の危機にさらされることになった。そう、地球温暖化は合衆国政府の陰謀だったのだ(ドジャ~~ン)
リノが自分の中のもう一人の自分(宇宙人性)に悩むが、友情により、我を取り戻すくだりはまるでナルトをみているようであった。日本の漫画の影響を感じるストーリーの仕立て方である。そこにゼイリブが混ざってる感じ。
そして、リノを追う黒服集団は宇宙人の手先だったのである。宇宙人の王的な奴は、人間側の科学者をとらえ、地球を温暖化を進めていた。しかし、科学者の一人がリノたちが起こした騒ぎに乗じて反逆、使命を受けたレスラーの助けを得て、地下牢を脱出する
レスラーの登場、唐突だったろう。
…実際の物語でも、これに近しい唐突さなのだ。
行ったり来たりする暇があったら、彼らの使命とは何なのか、博士はどういう経緯でとらえられていたのかをもっとしっかり説明してほしい。
そして、物語終盤のネタバレ。
レスラーと博士が発明したロケットが撃ちあがり、地上に雪が舞う。すると、多くの宇宙人は機能を停止し、倒れてしまう。敵側の人間トップはリノたちを殺そうとするが、マフィアの助けを得て、最後には倒すことに成功する。
ほぼ、レスラーと博士が物語を動かしている。
リノとヴィンスは狂言回しに過ぎなかったのだ。
これには脱力してしまった。結局俺たちが勘定していた2人はただ逃げただけだったのか。
穴を掘って埋めるような話である。
原作もそうなのかもしれないが、これじゃああんまりだよ。
無たふ風
拭いているのに吹いていないと同じ、無風の風を無たふ風(ムタフカズ)と呼ぶ(嘘)。
正にそういうドライブ間の映画であった。
走ってるのに気持ちいい風が当たらない違和感である。
ただ、以下のポイントはしっかりよかった。
・かわいいキャラ・街のデザインセンス
・町全体のゴミゴミした空気感
草彅剛の声も正直違和感があったな~。
けだるい感じを出してたんだろうが、単に下手な感じに聞こえた。
最後にこの映画を一言で表すと、
『鉄コン筋クリート』のドラマ性が薄いバージョンである。
でも、デザインはかわいいよ。
さくらももこさんとのぶみのこと
さくらももこさんがなくなったので、というわけではなく『さくらえび』を読み返した。
いや、嘘だ。さくらももこが死んだから読み返した。
『○○の○○』や『あのころ』3部作ももちろん読んでいるのだけれど、僕はこの本が一番好きである。
さくらももこと友達と息子の日常が基本的に短い文章で場面場面を切り取るように綴られている。
ヒロシが鯉を買ってそのズボラさからすぐに全滅させてしまう話、ポスターにサインをして警備員に怒られた話、歯医者に行く話、息子にさくらももこだとばれないようにする話。
自身が総編集長となって創刊した雑誌『富士山』に掲載していたエッセイだからか、その筆致はほかの記事にもないほどゆるい。
文字数も少なく、「神経衰弱」というエッセイなんて、300字に満たないほどだ。
でも、『ちびまるこちゃん』ファンの目を気にすることもなくただ自分の日常を日記のように書くそのモードが、僕は好きだった。
いわば、メジャーデビューしたバンドがインディーズレーベルから趣味全開で出したアルバムのようなものである。セールスは見込めないが、ファンはそちらのほうが好き。
そんな気持ち、わかるでしょう?
さて、その僕がこよなく愛するさくらももこのエッセイに絵本作家ののぶみさんが登場することに読み返して気が付いた。
のぶみといえば、インターネットではすこぶる評判が悪い。
このありさまを見ても、以下の記事のようなレビューを見ても、とてものぶみさんが僕が好感を抱くような思想を持っているとは思えなかった。
その彼が、『さくらえび』に出てくる「のぶみくん」なのか。
逆デジャヴ。といえばよいのか、ともかく不思議な感覚である。
『さくらえび』のなかで「のぶみくん」がでてくる話は3つ。
『みんなで怒られた話』と『のぶみくんの金券』と『本間さんのダンナさん』。
『みんなで怒られた話』は、前述のポスターにサインをして警備員に怒られた話だ。ここで、サインをするポスターがまさにのぶみの絵本の紹介用のポスターなのである。
『のぶみくんの金券』はそのタイトルに名前が冠されていることからわかる通り、彼がオリジナルの金券を作ってさくらももこに渡す話しだ。この話もとても短い。
『本間さんのダンナさん』でのぶみは当時の彼女に指輪を送ってうれし泣きさせる。
この作品を読んでいた中学自分の僕は、「さくらももこの変な友達の1人」として彼のことをとらえていただけで特に好悪の感情はなかった。
で、今も実はそんなに好きでも嫌いでもないんだけど、伝聞で伝わってくる情報からは「どうもいけすかないやつ」という感じがする。
さくらももこが『さくらえび』で描いた彼は絵本作家らしいちょっと浮世離れした善人。
現在ネット上の評判でわかる彼はちょっとやばい思想を持って特定の層に絵本を売りつける宗教家もどき。
そのいずれも、真実なのだろうな、という気がしている。
『さくらえび』のほかに、彼のことをさくらももこが描いたエッセイはありますか?