『ライ麦畑で出会ったら』思春期拗らせイイ子ちゃん映画 75点
うわー、痛いな。この主人公もだけど、この映画を作ろうって側の繊細で傷つきやすい俺たちのための映画を作りました感が。
この映画をドヤ顔で家族や友人に見せて悦に入って、でもその数年後にあのときの彼ら彼女らには”そういう子どもっぽい感傷に浸る人”という認識で話を合わせてもらっていただけだと築いて、死にたくなるんだろうな。
年老いた気がしてなんか落ち込んだ
僕とサリンジャーとの出会いは日本の小説家佐藤友哉の『フリッカー式』。サリンジャーを日本の探偵小説・黎明期のラノベと合体させようとした作品で、小学校時代から中学時代にかけて新本格推理小説の徒(詳しくは任意のワードで調べてほしい)だった僕は、推理小説を読む目で見て、それとは違う思春期的なハマり方をした。
それで、ちょっと調べてみると『フリッカー式』に始まる佐藤友哉の「鏡家サーガ」がJ.D.サリンジャーがつづった『グラースサーガ』のオマージュ作品だということがわかる。サリンジャーといえば、『ライ麦畑で捕まえて』は知っている。
で、僕はすぐに、『ライ麦畑』を毎週のように通っていた市立図書館で借りて
――読まなかった。
なぜなのか、理由ははっきりとわからない。
ただ、僕はただ本を読んでいた、というだけで自我の発達や精神的な成熟は人よりも遅かったのかもな、と思う。
知らない外人の知らない悩みの話、というだけでどうも受け付けなかった。
冒頭のスペンサー先生との会話からして、学校の先生とそこまでの関係を築いたこともなかったし、これから築ける気もしなかった。
『ライ麦畑』と僕の距離は、『車輪の下』や『少年の日の思い出』と同じくらいに遠かった。それが遠いかどうかは、あなたの経験や思想によって変わるけれど。
それで結局いつ僕が『ライ麦畑』を読破したかというと、大学2回生(関西では年生ではなく回生という)である。もうとっくにホールデンの年齢は追い越した僕ではあるが、やっとなるほど、こういう話だったのかとつかむことができたしハマることができた。
思うに、ホールデンをちょっと上から見れるくらいの心持だったのがよかったのかもしれない。
『ライ麦畑で捕まえて』のアマゾンレビュー(野崎訳でも村上訳でもよい)をみると、結構な割合で「こんな自分勝手で中二くさい人間の小説には共感できない」という低評価レビューと「そこは認めつつもやっぱりホールデンに自分を重ねてしまうしこれは最高のジュブナイルだ」という高評価レビューが見られる。
僕も25の齢を重ねて後者の高評価レビューに差し掛かろうとしていたのだが、この映画『ライ麦畑で出会ったら』を読んで前者の低評価レビュー的な(いくら繊細か知らないけどただ甘ったれてるだけじゃん。さんざんいい思いして自分の立場をわかってるのか)という思いが沸いた。
これは僕が年老いてしまったのか、それともこの映画がより青臭いものなのか、不安のようなものが、心臓の周辺から胃袋の上端にかけて渦巻いている。
ストーリー
主人公ジェイミー(アレックス・ウルフ)は、まじめ・こじらせ・いじめられっ子。名門の男子校クリプトン高校の演劇部に所属しているが、やる気ばかりが空回りし、演技中にはゴミをぶつけられて笑われる始末。
そんなかれのバイブルはJ.D.サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。卒業制作で自作の演劇を披露する必要がある彼はその脚本を執筆し、サリンジャーの許可を得るべく、連絡先を探していた。
しかし、ルームメイトの裏切りにより、サリンジャーへの思いを込めた手紙(クラスのみんなは「体制の奴隷」です~~)を読まれ、自室は襲撃にあい、ジェイミーは学校をでていくことに。
サリンジャーの家に行って『ライ麦畑』の舞台化の許可がもらえれば何かが変わるかもしれない。スーツケースを転がしながらヒッチハイクを始めた彼を拾ったのは、唯一サリンジャーの話で通じた他校の女子、ディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だった。
結論、僕は老いていない
この話の何がむかつくって、学校の大人がみんな主人公の理解者で、聡明な女の子も主人公に惚れていて、結果すべてがうまくいくことなのだ。
おいおい、そんなにうまくいかないからこそ、ホールデンは最終的に閉鎖病棟行きになったんじゃん――。
こういう子供のことをわかったふりをして、すべてが丸く収まるような結末に持っていくことこそがインチキのはず。
ジェニファーは退学になるし学校の友人からもついぞ認められることはないけど、辞めてからでも人生は続くしディーディーの店には自分の意志で入り浸ってやったくらいの結末がよかった。
これくらい拗らせた注文ができるんだから、僕はまだ老いてはいないはずだ。
補足1:実話の再現度
この映画は85%くらい監督が実際に体験した実話らしい。
だろうね、と思う。
サリンジャーにあってからの会話がやたらに長くつまらないのだが、そのつまらなさは確かに現実にこんなやり取りがあったろうなと思わせるものであった。
ジェニファー「サリンジャーさん、僕はあなたの作品に感動しました! 舞台化させてください」
サリンジャー「あかんで。作品は俺のもんやで」
ディーディー「でも彼、学校でつらい思いをしてるんです!」
サリンジャー「さよか。才能あると思うからオリジナルでやり」
要約すれば上記のようになるやり取りが7分半ほど続く。
でも、監督が実際に体験したことだから完全再現したかったんだろうなあと思う。
ただ、前半変に色気を出したというか、周りの景色がみんなストップモーションになってジェニファーが観客に向かってベラベラ語り掛けるというジュブナイルものにありがちな手法が使われていたのは「ちょっと監督前半は”面白く”しようとしてたやん」と思った。
もう完全にリアリズムで行く、と覚悟して後半のつまらない会話シーンならまだ信念として評価できるのだけど、前半に色気出していたということは、単に配慮が足りないだけだね。
補足2:サリンジャーフォロワーの軽々な傾向について
この映画の後半のフックとしてジェニファーの兄がベトナム戦争で命を落としており、それがジェニファーの心の傷となっているというものがある。
ここで思った。
どうやら、『バナナフィッシュにうってうけの日』のシーモアと、『ライ麦畑』のアニー・D.B.をぐちゃぐちゃに混ぜて物語に援用するという発想は、サリンジャーフォロワーにとって自然にそうなってしまうものらしい。