すたんす/奥村由之
あまり仕事をしていない。
昨日も日記に書いた通り散歩ばかりしている。
出来れば旅人になりたいが、遠くへ行きたくはないのだ。
快適な生活と自由は必ず矛盾するので、俺は快適な生活の方を選んで、半径3000メートルの自由を享受する。
コロナ禍の世の中にはうまく適合した生き方だったと思うけど、さて、来年以降はどうだろう?
poplifeの米津玄師のことを評論する回をきき、こりゃいいやと感電のPVを見る。
それ度同時に、川谷絵音と山口一郎の音楽談義の動画を見たのち、川谷が絶賛するスローモーション(サカナクション)のPVもみる。
いずれも監督は奥村由之という日本の映像作家のものだということを知る。
プロフェッショナルだらけの世の中だ。
確かにいい。
こうして売れっ子を繋いでいき、何かをまとめて知れば一角の好事家になれるような気がしていたが、好事家でないのに好事家のふりをしてもしんどいだけだというすたんすになってしまった。
もう無理はできない。
散歩の才能
何も考えないで散歩するのが好きだ。
何も考えないで散歩することが一番好きなのだ。
一番好きなことが才能の事であると思う。
何も考えないで散歩することが俺の一番の才能なのだ。
これが俺の才能なのか。
いや、文章を書くのだって人より得意だし、スケジューリングとかタイム読みとか得意だよ?
散歩しながら何も考えていないのだが、何もしていないというわけではない。
ずっとSpotifyオリジナルのpop life(タナソーと三原勇希のポッドキャスト)を聴いている。
カルチャーなど必要がない。
どう考えたってそうだと思う。
カルチャーなど憎らしい。
という思いもある。
カルチャーを愛せないのだが、カルチャーを愛している人の話を取り合えず、歩きながら愛でている。
たぶん、それが仕事だし、そこにレゾンデートルもあるし、という「やせ我慢・執着」がそこにはあるし、それは後天的に醸成されたものなので、俺だって時と場合が許せば身につけられるさと思うのだけれど、ときも場合もずっと俺の先に走り出していってしまったし、追いつくために必死に走るのは辛い。
だから俺は歩いているのだ。
散々と。
超人志望
昨日のことを思い出すためにこの文章を書いているのだけど、実は神でも昨日のことを振り返ることにしたので、昨日が欠落してしまった。
それでも、意味のないそれを書き続けること、何かを産むこと、はなんとなくやめてはならないと考えてしまっている。
結局後で読み返してちょっと面白い瞬間があるから、続けている。
あと、意味がないにしても少しはありそうなことをすること。
いらない穴をこのように穿つこと。
それは変わり映えのしない毎日の中で時間とともに劣化している自分の細胞をアナログからデジタルに変換することなのだ。
お金を稼ぐこと、子供を持つこと、立身すること、友達を大切にすること。
そのすべてに意味はないのだが、意味がないと知りながら実行しなければならない。
ニーチェの超人思想ってこういうことだってなんかで読んだことあるような気がするんだけど、全然幻かもしれない。
ホントかは知らないぜ。
哲学は深まらない。
昨日は原稿が一本できたのによかった。しかし、追い詰められていないので、それまでに比べて進みが悪い。
これが目的だと思うのはあまりにも悲しいけれど、他の目的を信じられるような超人になることはできていないのだ。
映画だって、毎日見るような気にはならないんだよな。
映画『アネット』ネタバレ感想
以下に書きました。
映画を見て、飯を作って、夜は出ていきたい。
嫁はんの新しい生活が始まっているのと同様、俺も始まっているのだ。
嫁はんの父にお酒を送ったと思っていたら、祖母に送っていた。
ハプニングが好意的に受け取られればいいな。
基本的にはあなたの方に善意の矢印が向いていますよというメッセージが発信されていれば大丈夫なはずだ。
Too thick supper(濃すぎる夕飯)
嫁はんに飯が濃いといわれるタイプの人生を送っている。
みさえいらいの批判のされ方であるが、健康や微細な舌の感覚を守るためなら、味は戦災に、それぞれに波を作った方がいいだろう。
思えば俺は音楽に関しても、調味料全部入れみたいなものが好きで、とにかく転調、セカンダリードミナント、電波ソング的なセリフ部分、テンポチェンジ、などなどつまりにつまっている方が好みだが、嫁はんはそうではない。
ピロウズとか、塩っけのあるミートとピクルス、それとパンズくらいのシンプルなハンバーガーのようなバンドが好きなのだ。
ケチャップも柚子胡椒もマスタードもかけまくりたい俺とは大違いだぜ。
ハンバーガーは昨日のおやつである。
130円。
画面の前の諸兄も、意外と、マクドナルドでシンプルなハンバーガーを食べることは少ないのではないだろうか。
なんだか夕食にはピザが食べたいという気分だったのだが、嫁はんが何時に帰ってくるかもわからず、また昨年に比べて収入も目減りする中でいきなりピザを頼むというのもどうかという感情が先に立ち、結果としてハンバーガーを食べて、ピザ欲を満たそうという考えに至った。
夜ご飯には、白ご飯と、子持ちめかぶと、手羽元ともやしとたまねぎの甘辛炒めともやしの味噌汁を出した。
そしたら、濃いといわれた。
Disgusting.
俺と、家族と、その他大勢
家で作った飯に腹は満たされているのに、胃が重い。
大事なのは油の量なのだ。
俺はと言えば自分のヨスガとなるような太い幹にすがりたくって仕方がないのだけれど、同時に自由でもありたいと思う。
自由と安心との対立!!!!
それが人間存在の悩みの根本である。
主に安心の部分の担保を嫁はんに任せてきた3年近くだった。
ここからはもう少し俺に安心部門の馬力をオフローディングしてもらって、家族としてのレジリエンスを高めていきたいのだが、さりとて最大限の自由も欲しているのだから難しいところだ。
働き方はどんどん多様化しているとはいっても、実際に週3日だけ第二次産業で正社員として働いている人など見たことがない。
俺と嫁はんをひとつの単位として、親族や友人をその周辺と捉え、その外部に存在する企業から何とか合法的に搾取して自由かつ安定した俺の人生を実現したいと悩んでいるのだが、俺は失業保険ももらい損ねた男である。
そのおかげで入ってきた機会の方が大きいとはいえ、そもそもがなんとなく「文学部」に行くタイプの、文章と抽象と芸術で遊ぶのが一番の得意というタイプの人間だということは忘れてはならない。
それらがあれば、とりあえず貧乏でも楽しく生きていけるような気がするけれど、客観的に見てそんな「心の問題」で解決してくれなんて方法を家族に押し付けるわけにはいかねえわな。
漆のように
達磨が、並んでいる。
その横にはカゴバッグ。右端には『東北スタンダードマーケット』と銘打たれ看板が。
あ、今目の前をゴスロリの2人が通り過ぎて行った。
こういう人が意外と普通の声でしゃべっていると、どこで人前で奇抜な格好を披露できる勇気を得たのか、と思いを馳せてしまう。
俺は人の目を意外と気にしている。
毛の少ない猿がアーマーを身にまとい、小麦の粉を発酵させたうえで焼き、その上にチーズと豚のくず肉の腸詰めを乗っけたものや、豆の煮汁を飲んでいる。
俺は「お湯が多かった」という理由で取り換えられた濃いコーヒーに胃をやられながら、日記を書いている。
My Hair is Badのサブスクが解禁されたので、聞いてみた。
「真赤」「元彼女として」「関白宣言」「ワーーカーインザダークネス」「惜春」。
ふーん、普通だなー、と思うが、その普通さは売れた後はスタンダードになった。
セフレみたいな女の歌詞とか、犬系2番目彼氏の歌詞とか、マーケティングがお上手ですね、と皮肉がついつい浮かんでくるが、よくよく考えればぴんからトリオの時代から、悲恋を歌うのは日本人の歌のスタンダードである。
まあ、世界的にも失恋ソングってスタンダードなとこあるし。
そういう太い幹みたいなものをあえて忌避するほうが、変に意識し過ぎているんじゃない?
うるさい。
漆。