裸で独りぼっち

マジの日記

20200803_許された子どもたち

月曜。

結局フリーランスであっても仕事を振ってくるのは企業なので、そちらの暦に都合を合わせることになる。

今日は1本ウェブ会議があった。

以前は会議があるとなると送れるなんて考えられず、家でずっといるスケジュールを組んでいたりもしたのだが、現在はそこに手綱を握られることはなくなった。

俺はフリーランスなのだ。勝手な人間でなければならない。

勝手をやらないのもまた自分の利益となる場合のみである。

まあだいたい勝手をやらない方が自分の利益になるのだが。

過剰な配慮は敵である。

 

というわけで、映画を見に行った。

『許された子どもたち』。

許された子どもたち

 

なるほどこれは、「いじめ」映画ではなく「暴力性」映画なんだなーと、また、内藤監督は結構明確に反少年法的な主張を持っているのではないかなー、と思った。

前者について。
そもそも冒頭のシーンからして、いじめシーンではない(グリムに対する軽いいじめはあったがそこは主眼ではない)。田舎にありがちな創作案山子をとにかく衝動のままに主人公キラ一味が破壊するシーンである。

で、ついにそのことが起こる殺人も、いじめ殺人というよりはまさに殺人だ。川に飛び込ませるとか、マットでくるむとか、そういう醜い「遊び」の果てに事故的に死が訪れてしまうのがいじめ殺人というものだと思うのだが、今作ではキラがかなり明確に意思を持って(まさに)引き金をひき、そしてクラスメイトを殺してしまう。さらに証拠も隠ぺいするなどしっかり殺人といって過言でない。

本来いじめを描くなら冒頭のシーンは殺された子を学校でいじめるシーンであるべきだ。いじめの残酷性は子どもたちにとって逃れえない世界──学校で常にやられる側ーやる側という関係がある、そしてそこに行かなければならない(と子供たちは思っている)ことにあるのだから。

詐称と工作で罪を逃れたキラだが、引っ越しを余儀なくされ、生活は崩壊していく。そこでもクラスメイトの歪んだ正義感で素性を暴かれ、いじめられている少女桃子との出会いで謝罪に行くが、やはり罪と向き合えず、暴力に走る。

という流れ。正直引っ越してからの話はリアリティがない。なんだあのボクサー小学生は。「ぼぉくが、君を裁いてやるよ!」なんてクラスで大上段に発って殺人少年を追い詰めようとする優等生もどきもいないだろ!先生は全然クラスの手綱握れてないし。また、キラ一家の生活が貧しくなったといいつつも、カラオケやパンケーキ、腹筋マシーンに将棋といった娯楽を常に楽しめているのも気になった。父親にも逃げられ、仕事も失ったのだからもっと生活の端々に貧しさが表れてもいいはずだ。
借金してまで欲に溺れてしまう、そういう家なんだよという話なら、その描写はやっぱりほしかったよなあ。
…でも、引っ越し前の法廷描写にリアリティがあったかというと……。さすがに裁判所があそこまで被害者に冷たいことあるか?

このようなウソっぽい部分と対峙してずーっとあり続けるのがキラの暴力性だ。廃墟で自らの殺人道具である割りばしボウガンを作り、謝罪のために自ら被害者宅へ伺ったにもかかわらず犯行現場の花々を荒らす。またキラの母にはネット民の暴力が振るわれる(余談だが、ネット描写もかなり気になった。今時ニコニコ・にちゃん的なネット民描写はどう考えてもダサい)。暴力性を制御できないのだ。

つきつめると、更生とはなにかね? という話に収れんすると思う。人間は生まれながらに暴力性を持っていて、それには個人差が存在するものの全員が有している。それをこうやって暴力的な映画を見たりひとりごとで汚いコトバをつぶやいたりして発散できるものもいれば、行動に移さなければ気が済まないものもいる。もしも人を殺した人間が罪悪感に苛まれる時があっても、その暴力性は消えない。ただ、今は鳴りを潜めているだけである。そのコントロール方法を覚えさせるのが更生施設なのだろうが、果たしてその役割を十分に果たせているだろうか?
エンディング前、キラは饒舌にシュールな夢の話を語り、赤ちゃんに笑いかける。人間は、一様に殺人犯/いい人、と分けられるわけではない。だからこそ、更生は途方もなく見極めがたい。

だから、目には目を、人を殺したら死刑に処すべきだと思います、という正義モドキクラスメイトの主張自体にはやはり制作陣は説得力を感じているのではないかなと思った(勝手な憶測)。でもそれをまっすぐ主張するほど割り切れているわけでもないからあそこまでキャラクター的な配役に言わせたというか。。

ともかくずっと緊張感があって起き抜けに眠い頭が覚めたのは確かだった。
また主人公キラやその母を演じた役者人は本当に勇気があるなと思う。

 大筋には感銘を受けつつもディティールをかなり悪く言っている。

しかし、公式サイトの対談動画やディスカバリーシネマのライムスター宇多丸との対談などを見ると、内藤監督はそもそも障害児学級を担当する教師であり、また法廷の描写などについてもかなり取材をしたうえで、それでも中は見せてもらえないという中で資料を書いたということが分かった。

もちろんそれでも露悪が過ぎると思うし俺の読みも的外れではないと思っている。

ただ、自分の中の「公正世界仮説」が邪魔をしているかもしれないな、とも感じた。

俺は基本的に世の中は5:5でバランスが取れていると考えている。

いかなる失態を俺が犯したとしても、またいかなる被害を俺が被ったとしても半分は俺に責任があり、半分は世界もしくは他者に責任がある。

そのバランス理論からして、本作品の描写は明らかにバランスが加害者に偏っていると感じたのだ。

しかし、監督の弁によると最初は加害者家族・被害者家族を5:5で描く脚本だったらしい。

そこを結局何が書きたいんですか?とプロデューサーに尋ねられて加害者家族に焦点を当てることになったとのことだ。

たしかに、俺の言うような「バランス」重視の脚本では結局お題目のような作品、ただ形が整っているだけで一見の価値を感じさせない映画になり果てていたかもしれない。

とはいえ、その歪さを批判的に描いたって言いだろう。

だって、俺はただの観客なんだから。