寄付と道徳的優位
本当に昨日のことをあんまり思えだせない日というのはあるものだ。
だから、日記を書くのだが。
朝は、行きつけのパン屋でパンを食べた。確か、600円くらいかかった気がする。
タルタルレモン海老バーガーとクリームコロネを食べて、サービスのコーヒーを飲んで、読んだ小説の感想を書く。
優雅なものだと我ながら思うが、本日来ているシャツは洗濯なしで3日目。
インナーだけ6着分持ってきて、その上のシャツの替えを一枚も持ってこなかったのだ。
俺は家がないと不潔になってしまう。
俺は社会がないと飢えて死んでしまう。
お昼には大学時代の部活の先輩の難病の家族に10ドル寄付した。
というのも、俺の中で寄付したい欲が高まっていたのだ。
従来から、手放しで偉い行為なんてこの世に寄付くらいしかないと感じていた。
そして俺は、道徳的優越性が得たいのだ。
才能とかお金とかモテとか努力とかおよそ人間を序列化する色々を、「いや、相対的なものだから」と否定して、器に最後に残った一滴が道徳的優位である。
ウクライナ情勢を見て「すわ、動くときか」と思ったのだが、いうても戦争に関与するということに完全無欠の道徳的優位があるようには思えず、また、今後暴かれる「何か」があればロシアとウクライナの扱いが逆になる可能性もないではない──と思い、「そんなことにこの俺の「道徳的優位(=金)」はベット出来ねえやなア」と偉そうに様子をうかがっていた。
しかし、本当は知っている。
病気の人に対する寄付とかなら、基本完全無欠の「良い行為」となるはずだってことに。
だから、俺は「いいことがしたい」とともに、顔を知ってる誰かに「いいやつだ」と思われたかったんだろうな。
道徳的優位と名誉を約1000円で買っただけだ。
なんだ、これ只の投資じゃん。
俺の道徳的優位はそれでも「やらない善よりやる偽善」のおかげで反転することはない。
だけど、もうちょっと身銭を切らないと本当は少しかっこ悪いぜ。