裸で独りぼっち

マジの日記

星の子(小説)の感想─映画を見てから読んだ

映画を見てから原作小説を読んだ。

星の子 (朝日文庫)

映画を見てから読んだ。この俺が映画を見てストーリーを知ったうえで本を定価で買って読むとは! 実際原作を読むと映画のお粗末な部分がやや見えた。謎の人物だったでぶでうそつきのひろゆきがやっとわかった。 全体的な読み味も違って、さくらももこ的なユーモアエッセイwith不穏な新興宗教といった読み味。確かに最初は芦田愛菜を合わないと思ったといっていた人の気持ちもわかる。主人公はなかなかポーッとしていて映画ほど何も深く考えていない。春ちゃんの「もう一生あえないかもよ」に大きい声を出した意味をやっと理解した。

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1時間半ほどでスラスラ読めた。

映画でほぼあらすじをつかんでいたこともあるが、それだけ平易な文体なのだ。

以前『あひる』を読んでぴんと来なかった覚えがあるのだけれど、今なら面白く感じられる、そんな季節が訪れている気がする。

 

やはりこういう平易な文体に憧れる。

手慰みに小説を書こうとしたこともあるのだが、どうも西尾維新崩れみたいになってしまう。読んできた世界がそうだからだ。

それはそれで価値だとは思うけれど、料理漫画ならば確実に負ける側である。

俺は足し算しかできない。

 

最後はもともともっと不穏な意味合いが込められていたとの小川洋子との対談。

小説の中では主人公の視点に寄り添って宗教についても否定も肯定もない感じがした。

あくまで主人公の視点からは。

だから取り込まれてしまうのもある意味自然だし、幸福?にも思えるのかもしれない。

 

以前ピース又吉が小説の利点として読む人口が少ないので自由な発想をぶつけられるということを話していた。

映画では「カルト」とされる宗教にはやはり主人公含め批判的・不信感を持って接していたし搾取構造を明示的に描いていたと思う。

小説は後半の春ちゃんの彼氏が「俺、また何度も来ます」と宣言するくだりとか、宗教に何となく取り込まれてしまう人々、それがその集団の論理の中ではリンチや洗脳といった不穏なキーワードも飛び出しながら当人にとっては“良いことか悪いことかわからないこと”という風に描かれていたと思う。

うそつきのひろゆきが女の子を呼び出しては「お前、俺と将来結婚するんだぞ」と無理やりキスをしようとするエピソードは宗教の欺瞞性をかぎ取り口を閉ざした少年が同じ構造で搾取を試みることのメタファーだろうか。

 

 

星の子─宗教VS社会VSカルト

芦田愛菜6年ぶりの主演作『星の子』を見た。

自身が病気がちだったせいで親が水を信仰する怪しげな宗教にはまってしまった。宗教二世の物語、

『むらさきのスカートの女』で令和初の芥川賞を受賞した今村夏子原作。

星の子

 

平均評価が低かったので不安に思ったが結果良かったので積極的に評価していきたい。
先日邦画『のぼる小寺さん』を見たが、学校の描き方が実に対照的な2作品だったと思う。個人的には『星の子』の学校の方がリアル、というか俺が住んでいた世界に近い。
廊下はあんなに騒がしくないし、知らないやつとは仲良くならない。恋は遠くからボヤッと眺めることだし、先生と生徒の間には軽く靄がかかったような隔たりがありながら上下の関係が成立している。

それは、思うに漫画原作と小説原作の違いではないかと思う。
ジャンルにもよるが、小説は思想を描くもの、漫画はキャラクターを描くものという要素が強いように思う。
だから、まあ思想を描くための道具立ての方が思想フェチの俺にとって好ましいのだろうな。
漫画のほうが絵で語る分映画的といえるし、実際画で見せるショットは『のぼる小寺さん』の方が多かった。『星の子』はセリフ量が多い。説明的セリフこそなくあとは行間を読んでくださいスタイルの演出が多かったが、それこそ小説的だろう。
原作も読んでみたい、と思った。

この映画に興味を持ったのはやはり宗教一家の子供が主人公で、親と世間との間で板挟みになるという構図が興味深かったからだ。宗教とは反社会的なものだと思う。反社会的なものが好きだ。宗教、猟奇事件、旅、哲学、読書、隠遁、ヤクザ、路上のケンカ……。俺が面白いと思ったのもその反社会的なものが社会との間で軋轢を起こすストーリーに期待を抱いたからだけど、結果としてはそういうわけでもなくごく個人的なちひろの話、というか状況説明に終始していた。

『のぼる小寺さん』では無自覚に悪い教師が出てきていたが、今回の南先生は普通に悪い。悪役であるが、カルトに対する世間の反応としては割に真っ当なものだったりもする。

反社会的な存在である千尋に対し、南先生のように拒絶するのか、なべちゃんのように「変な宗教はいってるしどんどん貧乏になってくよ」といいつつ友達でいるのか、新村君のように良いバカとして接するのか、おじさん家族のように掬い上げようとするのか……。

途中で出てくる嘘つきのデブの子供の話はなんだったんだろう。さんざん言われているように唐突に出てくるアニメーションは意味がよくわからない。監督の自己満足で入れたのではないかと疑わしく思ってしまう。
タイトルアートの絵はすごくよかった。

 色々とまた感想を読んだ。

両親が集会のために葬式に来ないシーンがあって、そこで葬式に来ない両親を「非常識なやつだな」と俺は引くわけだが、よくよく考えたら葬式も宗教的儀式であり、そんなもの平たく言えば別に意味なんてないのである。

「いや、遺族の心をいやす通過儀礼としての意味がある!」というならそれこそまさに根拠のない宗教パワーを“信じる”ことで意味を見出しているのだ。

決して安くない料金がかかるしな。

 

少し前に、イオンの葬式広告を批判する坊さんのツイートがバズっていた。

俺も一読して何となく「これはあかんやろ……」と感じたが、よくよく考えたらこれで何かを冒涜していると感じるのは非合理な感覚でしかない。

なぜ葬式をパッケージングして明朗会計で遂行してはならないのだろうか。

そこにはやはり、うっすらと染みついた“宗教観”がにじんでいるのだ。

パッケージの中で肉汁を吸い込んだドリップ(下の紙)のように。

 

そういう自身の姿をデフォルメして描いたのがこのお話であると思う。

俺たちは何かを信じている。

「騙されてない?」となべちゃんに問いかけられて「騙されてないよ」と答えられるのは「ただただそういうものだと信じているから」なのだ。

オン・ザ・ロック

オン・ザ・ロックを見た。

オン・ザ・ロック

嫁はんと見た。
つまらなくはないが、どうにも釈然としない話だったというのが共通の見解。
だって、この話、平たくいうと「浮気を疑ったけど結果取り越し苦労だった」ってだけじゃないですか?
どう考えても考察班が「実は夫はやっぱり浮気している」とか「主人公が浮気している」とか「父親は実は死んでいる」とか思っても見ないだまし絵パズルを解き明かさないと話としてあまりに起伏がないというか……。
なんか三方よしみたいな感じで終わったけどそれでええんか主人公!!
結局旦那の浮気疑惑がいったんは解消されただけで、今後も父親との関係はダラダラ続くし女としてまた職業人として自身が失われていくことからは逃れられないんじゃないか?
いったんは本を書き始められているけども。

夫が育児とか火事を割とまかせっきりぽかったり、誕生日プレゼントの一つ目がスーパースマート電気鍋みたいなやつだったり、やや前時代的な姿勢であることへの回答みたいなものはないのか?
いやまあ、フェミニストちゃうし別になんでもええんやでワイは。
でも父親が「男は女を支配するのが望みだ」的な発言をして、それが予告編にも使われている以上なんらかの回答が現代の映画ではあってしかるべきに思うんや。
メキシコで父親に切れただけではそれは収まらんやろう。

もちろんソフィア・コッポラフランシス・コッポラとの関係をそこに重ねることでシネフィルは喜ばしかったり絵解きができたりするんかもせんけど。。。俺にはよくわからない。

結局おやじの時計を外して夫の時計をつけたってだけで、いわゆる現代的な自立は獲得していないんじゃないのだろうか。まあでも、そういうの押し付ける意見は嫌いなんだけどサ。
イケてる金持ち外人おしゃれ生活映画はそれだけで見てて楽しいし好みなので全然よかったけど釈然とはしなかったぜA24。

なんか幼稚園のシングルマザーの話が随所で出てきてたけど、考察したらあいつの浮気相手が夫だったりしないかな。だったら面白いねんけどな。

 勝手なことを言っている。

まあ、映画の感想なんて全部勝手なことなんやけど。

のぼる小寺さん──古厩監督舞台挨拶付き

ちょっと話題になっていた邦画、のぼる小寺さんの舞台挨拶付き上映が盛岡フォーラムで2020年10月9日の18:30-回でやっていたので見に行った。

のぼる小寺さん

上映後の舞台あいさつで監督が「あだち充みたいな映画が撮りたいんですよ笑」と話していて納得した。
ずっと小寺さんを見ているだけだった近藤が、小寺さんと並び立って見られる側になるべく頑張る四条や、見るから撮るへと行為を昇華させた田崎の影響を受けてついに「俺を見て!」と決意するようになるという流れはストレートで「ああ、これが描きたいんだな」とよくわかる。
監督は「昔から見ることについては映画を撮ってきていた。すごくこの映画は初期っぽい気持ちで撮った」とも話していて、その言葉は映画から受ける印象とも素直に一致する。

話のメインキャラクターである近藤、小寺さん、四条、田崎、梨乃の5人はいずれもほとんど言葉を交わすことなく、「見る/見られる」という関係でかろうじて観客からは見える透明な線だけで話を作る手腕は確かなものである。

と、いうのがこの映画の感想における歌詞である。

この映画においてずーっとリフレインしていたリフがある。
それは、「アホの学校なんか」というリフである。

まず、小寺さんが茶髪なのだが、ネイルをしたことがない、不思議ちゃんでボルダリングにしか興味がない、周りを気にする感覚がない小寺さんが髪を染めているのが気になった。それはでもまあ、周りを気にしないからこそ逆にかもしれない。
しかし、この学校は相当教育機関としてビミョーであることは間違いない。

そもそも部活の場にコーチがおらず、練習は生徒にまかせきりなのだ。基本的にやる気を出すかどうかは生徒にゆだねられるし、練習法の指導もない。まあ、ボルダリングと卓球だからギリギリいなくても成り立つのかな。
しかし、体育の授業にも教師がいない。生徒は真面目そうなやつでもなんかバスケで遊んでるだけ(おもんなさそう)。音楽の授業も仕切りや女子以外は無法状態。案の定、ボルダリング部の備品を勝手に使うバカが現れ、四条が困らされる。
一人だけ出てくる、担任の先生も最悪だ。
なんでみんなの前ででっかい声で生徒の進路を発表するんだ! 学習指導要領的に絶対やってはいけないことだろ。小寺さんがあのキャラだったからよかったものの普通に考えて問題になる行為である。
また、田崎が学校ででかい一眼レフを使いまくりなのも気になった。あんなもんな、普通学校に持ってきたら没収だ没収! 実際盗撮に悪用しとるやないか。

と、かような疑問は多分漫画だと気にならないところなんだろうな、と思う。小寺さんが見ている近藤や田崎に不自然に気づかないのも漫画なら成立するのだ。
そこが「あだち充を実写でやることの壁」だなということが分かった。

でも、小寺さんが校舎を登って3階まで風船を取りに行くシーンは実写ならではの迫力と「小寺さんすげえ・・・・!」という感動があった。
あそこだけでも実写にした価値があったなと思う。あそこがこの映画のサビですわ。
といいつつ、原作読んでないけど。。。。

 舞台トークショー(『ファンシー』廣田正興監督との対談)付きということで当初はロクに作品も見てない監督同士の話なんか聞きたくねえよ!と思い、スルーしてコッポラの『オン・ザ・ロック』を見に行こうと思ったのだけど直前に急に思い直した。

結果としてよかったと思う。

そういえば文化祭のシーンで髭もじゃの学生がいたのも気になったな。

工藤遥が後半でニキビができていたのもよかったな。

 

いや、前半のカメラワーク的にフェチズム的に小寺さんを見つめる「近藤の目」が合ったのもよかったよな。シャツの隙間から覗く素肌を見るのが正直見る端緒だったのは間違いないし、青春ってやっぱエロだから。

しかし、あの学校は学校指定のジャージもないのか?

それも気になった。

(アホの学校なんか?)

 

 

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を見た。

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー

「悪人がいない映画」といわれているけど、主人公なんか悪人じゃん、と思う。
悪人というか質が悪い。
エミリーの気持ちがよく分かる。
勝手に連れ出すんじゃないよ。親の前で下ネタでちょけられんのもめちゃくちゃイヤやしな。
がり勉なのに自分たちに自信があるのは前提なのが新しくて生かすポイントなんだろうけど、あのあたりの調子乗りは結局いさめられず、最後まで変わらずでよく考えたらモリーはびた一文成長していない。
あんなやつはイェールに進学してから、大手サークル副部長みたいな上級生と付き合って同級生にマウントを取り、1年くらいで別れて次は後輩の期は優しいけど出世頭みたいなやつをエジキにするだろうよ。

完全な偏見を開陳するコーナーである。

なんとなくステロタイプがあり、それに当てはまらない例もあることを理解しているからこそ、ステロタイプを利用して笑いを取る面白デブタイプ(柳原可奈子、くつざわライン)の芸風は嫌いだ。

なんとなくアメリカのそういうやつの顔をしてるんだよな~モリーのやつはよう。なんかベッキーに似てるんだよな。うっすら。

予告とか宣伝の時点でこれ絶対面白いやつやんというにおいはぷんぷんしていたし、だからこそ褒められる意見を目にするたびに俺の心は離れていくだろうなあとも思っていた。

アメリカの金持ちの世界の日本の一般人の世界ではあまりに絡みがないので共感はできない。

あんなトイレ落書きだらけの学校が進学校なん? ほんで卒業前に家で騒いで警察くんの?

そんなん許すんじゃないよ! 親! 何やっとんねん親。

近所のしがない主夫に気持ちになってみればあんな若もんが騒ぎまくる家が近くにあったら最悪だ。
車で暴走するな。
ジャレッドの車に何してもいいと思っているのか。

こういうナチュラルなヤンキー性にいちいち腹が立ちながら、展開の速さやモチーフ自体は好きなのでニコニコ見ながらの2時間だった。

嘘。本当はにこにこしていない。でも心は楽しかったということ。

マスクをなくして焦っていた。

所詮金持ちエリートの話というのは所与の前提だし、三角締めブログの「大学」問題についてははっとさせられたが、まあ仕方がないと思う。まじであの学校には大学進学者かGAFAMレベルに就職するやつしかいないのだ。

三角締めブログの「大学」問題>最後のモリーのスピーチで「『大学』でダサくならないでね!」といったが、「大学に行ける恵まれた人間ばかりじゃないよ!」という指摘である。

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(ネタバレ) | 三角絞めでつかまえて


そんな奴が大手をふるって世界を回すのだからこの世から落書きもオーバードーズもなくならないだろう。
ほんとうは卒業式のあの集団の中でもパーティに一つも行けず、進学もパッとせず怨みを持ったやつはいるはずだがそいつは結局描かれていないのだ。結局物語に全員を登場させるのは無理である。

俺は絶対行かずにブックオフとか言ってるだろうな。

そういえば、アメリカって夜開いてる店一杯あるくせに充電カフェみたいなのないの?

ちょっと不可思議だったなあ。

童貞みたいな振る舞いのレズというのはあんまりほかの映画で見たことがなくてよかった。

結局つまらんか面白いかで言えば面白かったし、帰り道では『Osaka loop line』を聴いて帰ったけども、同時にむかっ腹も立ったなあ。。。

 この話を嫁はんにぶつけたら「その点日本のBL/GL描写はなかなか描写が進んでいるのではないか」という話になった。俺はそんな読んでないからわからない。

でも、「“穴”を間違えるレズが出てきたやつはあんまりないのでは?」と聞いたら「確かに……でも女が間違えるかね果たして」といわれた。

確かに女が間違えるかね。

 

20200930_パブリック 図書館の奇跡

夜中にパブリックを見た。

パブリック 図書館の奇跡

なんかムカムカする中でみたのであんまり頭に入らなかった。
寝たわけじゃないんだけど。
結構直に言わずに知識があればこそわかるようなセリフで示唆してくるのであんまり意味をつかみ切れている感じがしない。
怒りの葡萄』なんかよんでないよくそう。

冒頭のweaponizedもなんか本を燃やせみたいなこと言ってるから事前知識がなかったら全く逆の意味で取ってしまっていたよ。
それにユダヤ人嫌いのばばあとか、ホッキョクグマのはく製とか、刑事の息子マイクの存在意義とか、嫌な現市長を怒らせた選挙CMとか、いろいろなんか含みがありそうなパートが全部引っかかって呑み込めていない。

なんでとっとと警察官が踏み込んでこないのかもわからなかった。
しかし、市警とはよく言うがなるほど、市の警察なんだなというのは改めてしみじみと思わされた。
始めの裸のおかしなホームレスは結局どうなったのか、あそこにいたのかも気になる。
もう一回見てもわかりそうにないのでコメンタリーか解説付きで見たいな。

 また解説を欲している。

図書館という空間は好きだ。

病院の待合室とか、市役所とか、公共性の高い場所は過ごしやすい。

確かに図書館のヘビーユーザーだったときはよくホームレス方と遭遇したし、俺も最悪将来金なくなったらああして日がな図書館で本を読んで喉が渇いたら冷水器の生ぬるい水を飲んで過ごそうと思っていたな。

18:00以降の夜がこんなに長いなんて当時は気づいていなかったのだ。

 

今じゃ、図書館に行く手間を惜しんで本を買い、本屋に行くのもめんどくさくてAmazonで注文するかKindleだ。

図書館に住みたいと思っていた俺はもういない。

20200929_梨泰院クラス全部見た

梨泰院クラスを全部見た。

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良くも悪くもすごくマンガだった。
一応長家を倒すという目標は一貫して設定してるんだけど、「ほんとにまっすぐ進もうとしてる?」というくらいその他の要素も多い。
でも結局はそれが長家を倒すことにつながっていたことになって、どんどんタンバムは成長していく。

4年、8年、3年とでかい年月が飛ぶ場面があり、そこで○○編が終わる。
いわば、1シーズン15話といいつつ、実は3シーズンを1つのシーズンに詰め込んだ話だと考えられる。

ようするに、展開が早い。1話に2時間くらいの内容が詰め込まれていて、あんまりキャラそれぞれの日常とか背景の掘り下げはされない。
大体タンバムか、クラブか、行きつけのカフェか、で話が進む
(だからトニーの自宅がちらっと写るシーンが妙に頭に残る)。お前らタンバムしかやることないんかと、麦わらの一味みたいに全員船で一緒すんでんのかと、突っ込みたくなる。

悪口めいた書き方をしているし、実際悪いことを探しているのだが、しかしそれでも面白く15話見通してしまったことの方が重要だ。
キャラの日常生活や別の顔についてろくに描いていないのに、なぜだか愛着が湧いてしまうのは、本来の目的であるタンバムの営業中にガンガンキャラを出しているからで、それはつまり全員が目的の奴隷となっていないということであるからして、実は目的に対してまっすぐ向かってはいないのだけど、ガワではずっと復讐に突き進んでいる。
考えてみると変な話の作り方である。掃除の時間に「掃除をするぞ!」と全員で宣言しつつその実イチャイチャしたり、ほたえたりしている様子を魅せられて、「面白いけどこれじゃ掃除進まんやろ」と思っていたら、最終的には部屋がピカピカに!
みたいな。

なんか、ズルい。しかし、面白い。
そりゃ、ヒョニがちょっと頑張ったくらいでメシマズから最強の居酒屋で優勝するまでに腕を身に着けるかよ、とか、あんなあさりの酒蒸しにカレー粉入れたみたいな料理に長家負けんなよとか、最後全然経営関係なくなっちゃった!とかいろいろ言いたいことはあるのだけど、好きなキャラがほたえてたらそら面白いし、結果としてそこから(無理やりにでも)結果につなげられるならそれは意外性のある面白い話といえるのかなあ。

スアが通報してなかった件とか、最終的にイソになる件とかやっぱり予想外でこんな重箱の隅をつつく考えなんて矮小なものだと思わされたね。
つつくけど。

 韓国では日本ほどの評価を得ていないらしい。

外国の話だからこそ、夢物語として楽しめる点は少なからずあると思う。

やっぱり身近なものはついなめてかかってしまうというか、わかってるだけに「こんなんありえんやろ!」というツッコミがついつい口をついてしまう。

しかし、それが外国の習俗ということになるとある程度の説得力を感じざるを得ない。

エンタメにおいて説得力がいかに大事かということがよくわかる。

 

セロイの頭たたくやつはかなり真似したくなるけど芸人とかで使ってるやつ見ないよな。

ものまねグランプリとかではだれかやってたんだろうか。