「目を覚ましてふみカス!」の理由
宗教の話は面白いなあ……とネットサーフィンしていたら
このブログが「はてなブックマーク」のホッテントリになっていた。
内容は以下のものである。
宗教の話を表だってすることは 世間的にタブーとされている。だけど、宗教に入っている人はたくさんいるわけで、その話をしないのは「なんか変なの」と感じる。
その話をタブー視する風潮もあって私は「宗教」について深く考えて来なかった。それは、世間一般の人もしかりだと思う。
だから、今回の清水富美加さんの件で「目を覚ましてふみカス!」などという人がいることには違和感がある。
その人たちはちゃんと自分の宗教観を持っているのだろうか。
宗教にも「死を受け入れられる」「良心の仕事を肩代わりしてくれる」という利点がある。
そういった点も含めて日本人は宗教ともっと向き合うべきではないか。
極論ではないし、全然受け入れられる議論ではある。
でも、「「目を覚ましてふみカス!」っていうのは変なんじゃないの?」という意見には俺は首を縦に振ることはできない。
それは、これが宗教をタブー視するゆえに発せられているだけの言葉ではないと思うからだ。
「目を覚ましてふみカス!」の理由はもっとシンプルだと思う。
単純に、若めの新興宗教に入るやつはダサいのである。
ひいては、そういう見下しの視点が入ってしまうからみんなで宗教の話はしづらいのだ。
ファッションのダサさはすぐ改められるけど、宗教のダサさは一朝一夕で変えられるものではないから。
以下、理由を述べていく。
①神が死んだらどうするのか
「教祖が死んだらどうするのか」という部分を全然考えてない浅はかな感じがする。
いや、教祖じゃなくて神に帰依してるんだよ!神は不滅だろ。
という反論が予想されるが、あの人ら絶対教祖に帰依してる。
長井秀和も「池田大作先生は生きてるのか死んでるのかわかりませんけどねー」
とFACEBOOKに書いていたが、教祖を偶像としてあがめている信者が多いからこそ
教祖が死んだか生きてるかうやむやする方向に持っていているのではないか?
総裁が死んだら終わりだ。
それとも何か?
また別の霊能者が出てくるとでもいうのか。
しかし、2作目が駄作というのは世界の常識なのである。
まあ、ターミネーター2になれればいいけど、難しいんじゃないの。
死んだら神格化される説もあるが、それは一部の濃い信者だけの話であって死後教団は縮小すると思う。
「天国にいけるよ」といわれたところで、現世で熱狂する主体としての人柱がないとなあ……。
だから正直麻原彰晃を生かしてるのもおかしな話だなあと思う。
だってほっといてもどうせ寿命で死ぬし、死刑で死ぬのと寿命で死ぬのにそこまで実は信者さんたちも違いを見出してないと思う。
こじつけるやつは寿命でも神聖性を見出すし、こじつけないやつはどっちにしろ目を覚ますはずだ。
②「尊敬」を無批判に受け入れている
「尊敬」はあからさまであってはならない。ダサい。
例えば、「感謝」系日本語ラップとか
就活の面接で「尊敬しているのは両親です」っていう回答とか。
なんかそれで媚びてる感じがしないか?
媚びる奴はダサい!
(なんか、この物言いも近いダサさがあるのは自覚している)
いや、まあ清水さんがそんなに大川総裁を尊敬してるかは知らないけど、
ブラック労働環境から逃れられる教団というシステムに乗っかってるだけかもしれないけど、
教団入りするということは
「大川総裁を尊敬しています?」
と聞かれたら
「はいorYES」
と答えるしかないということだ。
好きだった女優がそんなんなっちゃったらそりゃ幻滅でしょう。
だから「目を覚ましてふみカス!」はわかるぞ。
じゃあ結局かっこいい宗教はなんなのか
あんまりダサくない。
もちろん無宗教に越したことはないんだけど、
その理由は、以下の3つだろう。
①歴史が長い
新興宗教とはいえ、さすがに100年以上続いたら大したもんだと思わざるを得ない。
ぶっちゃけ三大宗教も信用に足る理由の大部分は有名で歴史が長いからだ。
②教祖が死んでる
「教祖が死んだらどうするのか」問題をクリアしている。
関係ないけど「中山みき」ってめちゃくちゃ現代っぽい名前だ。
③地方の宗教である
やはり東京に本部があると金のニオイがすごい。
奈良だとなんか許せる。
まああんなお堂いっぱい作ってるんだからえらい寄付集めてるんだろうなあとも思うけど。
これらに加えて、やはり中島みゆき自体が歴史ある権威である種「教祖的な」魅力を備えているのも強い。
清水さんはまだそこまでじゃないでしょう。
まあほんとは芸能人なんて小さな教祖みたいなもんなのだから
「私が神だ!」というスタンスであってほしいし、そうでないと
カリスマ性は保てないと思う。
だから宗教には入らないでほしいものだ。
みなさんは熱狂する側でなく、熱狂を与える側でしょう?