20200722_寺山修司記念館とハエ
俺には感性がない。
寺山修司を解さぬ。
そういいながら、十和田の田舎道を嫁はん(寺山修司ファン)と車で走行していた。
俺は弱気になっていた。
なんというか、観念的で人を選び、俺のような野暮天がわかろうとしたところでお前などはこの世界に入れないと、数万光年先に逃げてしまうような、そんな魔物めいたイメージを持っていたからだ。
嫁はんに、だから、俺は今日は行くのをよそうかと思うなどと弱気なことを言ってみる。
ロビーで仕事でもして待ってるよ。
といいつつ、悔しいので寺山修司の魅力は何か教えてくれよ、と尋ねる。
どっちつかずの人間である。
「うーん……結局は言葉の使い方なんだよな、世界観に合うかどうかだから。あんたは多分合わないと思うなー」と嫁はん。
そうはいっても道中気になって教えてほしいと追及してしまう。
「色鉛筆に跨っていくぞ地獄へ菓子買いに」
「一番最後でもいいからさ 世界の涯てまで連れてって」
「寺山修司の良さは青春の良さでもあるんだよなー」
「天井桟敷は障碍者ゲイ家出人など辺境の人々を登場させた劇団で」
なるほど、そういうとりあえずめちゃくちゃなことをやるとこがすごいってことだな?
と茶化してしまう。俺はいつもそうだ。
「だから寺山修司を話をお前にするのはいやなんだよ」
そういわれると、返す言葉もない。
それでも言葉を返したが、それはほとんど負け惜しみみたいなものだ。
とはいいつつ、実は俺は実は気づいていた。
俺は基本的にくさい言葉遣いとか、観賞が好きなのだ。
うつくしい、とか曰くいいがたい魅力があると思う。
しかし、「うつくしい」「曰くいいがたい魅力がある」ハッ。
そんな言葉でしか感情を表現できない自分の凡さを自覚させられるのが好きではないのである。
結果として、寺山修司記念館は俺にとって楽しい空間であった。
もちろん作品をしっかり見ていないので理解できない部分が大半であるが、でもなんとなく好きか嫌いかくらいはわかるものだ。
俺は嫁にいった。
「寺山修司は天才かもしれないが、好きだというお前たちは、天才たかるハエだ!俺はハエが好きじゃないんだよお!!」
でも、俺こそがハエなのである。
感性を羽音でごまかすことに耽溺する糞ハエだ。
ぶんぶん。