the W 女というアーキテクチャ
最近ペースが上がっているというか漫画も曲も進められているのはいいことだ。
それで気づいたのが、やっぱり設計図が大切だということ。
ネームもデモもなく思つくままに展開させていくと、やっぱり後でつじつまが合わなくなってきて調整で余計に時間がとられる。
古来から踏襲されている方法には意味があるのだから無視してはならない。
といいつつ、一回は意味を疑い、手痛い失敗をして学びたい。
与えられたものをただ飲み込むのはイヤだ。
それでも色々失敗するしぜんぜん昇華されない恥だけが残るんだけど、でも過去の俺なんて俺じゃないと思えばそんなものどうということはない。
俺は思い出を切断処理する。
昨日木の股から生まれたんだ。
昨日は『The W』の日でもあった。
3時のヒロインアンチの嫁はんとみていた。
嫁はんは基本的にゆりやん以外全部つまんながっていた。
女が無理してる感じ、負け犬感がきつくて見てられないらしい。
俺はそこまで言うこともないとは思うが、やっぱりゆりやんみたいにちょっと人間を逸脱するかおばさんにならない限り、なかなか素直には笑えないよな、と思う。
Aマッソには感心したし、ぼる塾あんりの達者さはそこらの男芸人じゃかなわないと思うけれど。
でも、女というアーキテクチャがそもそもお笑いに向いてないということだと思う。
そういう社会通念が厳然としてある。
いわば、男が男だけの化粧の大会を開くようなもので、そりゃ女に勝つような男の娘も誕生するだろうが、すそ野の広さでは大きく水をあけられていることには違いない。
とはいえ気軽に見れる賞レースは良いものである。
・ボワイエ的根源的不確実性