同じ温度に浸かれたら
かわり映えのしない毎日を過ごしている。
でもそれ以上なんか望めないのだ。
これはあきらめとか投げやりではなく、自分探しの旅に出た兄妹が結局自分の家に幸福の青い鳥がいたと気づくように、この世の手に入らないものなんか今手元にある日常以上に面白くなんかない、俺は俺に最適化されて生きている、ということである。
取材を控えているとやはりちょっと先のことを考えて気が重くなる。
他人と接するのが苦痛だ。
俺は一日にたくさんのことをこなしている、と思っているが、それは「人と接する」という最も時間がかかり最もMPを消費する行為を回避し続けているからである。
しかし、俺に金をくれるのは結局人なわけでそれはどうかと思わざるを得ない。
だから取材をするんだ。
一応「今日は曲をやるぞう」とか「今日は絵を描くぞう」とか注力する目標を掲げてみるのだけれど、それはあまり達成されない。
ちなみに昨日は動画を作った。
夜──嫁はんは人と接する仕事を終えて疲れ果てて帰ってくる。
時計は10時を回っている。
へとへとに疲れ果てて。
俺は十分に彼女を慮ることができない。
慮るとは、同じ温度の湯につかることだ。
熱く到底過ごせない温度、冷たくて心から冷える温度……。
忙しくはたらき55℃の湯につかる嫁はんにたいし、俺の温度計は39℃を指す。
この快適な状態では、十分にその過ごせなさ、その中でそれでも過ごすことの消耗を十分に理解することができない。
──それでも理解したフリをすることが誠実さなんだと思うが、俺はそれが大の苦手だ。やさしさと演技力がない。だから就活もうまくいかなかったんだろう。
自戒として。