俺のエゴ的な持続可能性
一応昨日は結婚記念日だった。
牛タンを食べることにする。
利休(仙台中心に展開している牛タンチェーン)に牛タンをテイクアウトしに行く。
その前に横にあるドトールで例のごとくミラノサンドとアイスコーヒーをのみながら多少仕事を進める。仕事はなんとなく楽勝な気がするし、どちらかといえばおほめにあずかることが多いのでどんどん受けちゃうのだけど、どっかで一線引きたい気もする。
仕事に追われることになるなら、結局俺はリモートで企業勤めでもしてもっとキャリアハイを目指していきたいような気がするのだ。
最近、フルリモートの企業が増えているのもその理由の一つである。
そこまで考えて、仲間もお金も大していらねーんだよなーと思う。
じゃあ何が欲しいのかというと、持続可能性だ。
其れも人類とか地球じゃなくて俺(と嫁はんとファミリー)の安泰な生活の。
嫁はんは安泰とは言えない暮らしを(俺から見れば)しているように見えるので、そうなると金を稼がねばならない、という気がするのだけれど、どうも金や慣習だけで嫁はんは仕事をしているのではないらしい。
仕事を愛しちゃってるかもしれない。
そうなると、俺が金を稼ごうが何をしようがそれは大きなお世話、とは言わないまでもサブ的な出来事でしかないわなあ。
できることはないのだ。
嫁はんを犠牲にして持続可能性を維持しているような気がしているけど、それはやっぱり幻想でこの形で完成されていて、俺が余計なことをしたら崩れる砂上のジェンガなのかもしれない。
でも、子供が生まれたり、家族が病気になったり、思いもよらない変化はどこからか押し寄せ、砂のお城はいずれ崩れる。
だから今はせっせと小さなスコップでビニールの切れ端交じりの砂砂を身の回りに集め続けているのである。
P.S.買い物をする中で折り畳み傘をなくした。3000円近くした奴だったので悔しい。