恥ずかしい。
あれ、ライター楽しいな。
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何にせよ、人間役割が与えられ、これをやっておけばいいという「居場所」が与えられるとうれしいものなのだ。
しかし、どうも恥ずかしい。
俺はライターという仕事が恥ずかしい。
社会の役に立っていると言い切れない。
社会の役に立っていたり、カクゴを持って仕事に打ち込んでいたりするライターもいるのだろうが、俺はそうではない。
そうでないのに、楽しいからとか楽だからという理由でブーブー生きている自分が恥ずかしい。
それを発信しているのが恥ずかしい。
俺は何もできない木偶だが、それなら何もしないで閉じこもっていた方が潔いのだ。
何もできないのに何かやっているそぶりをして、何かできるみたいな顔をして本当は見下しているたくさんのまっとうに働いている人々と、そんなことないフリしながら接するのが恥ずかしい。
かといって、頭を垂れることはできない。
プライドが高いのだ。
恥ずかしくて恥ずかしくて虎になってしまう気持ちは今まで何千となく文学になり音楽になり映像になってきたのだ。
それをまた、性懲りもなくデッドコピーを、繰り返しているのが恥ずかしい。
こんなに恥ずかしい気持ちをごまかすために、「他者は存在しない」という夢想に興じることに夢中になってしまうのだ。
だって、俺の恥ずかしい失態を、観測する人がいなければ恥ずかしい、なんて思う必要はないわけだからね。
ということは、「恥ずかしい」という感情は他者の存在を前提とするのもなのか。
なんかそういう論文を読ませてくれ。