マナー vs 環境
不十分でもいいのだ。
最近、この一文がふわっと浮かんで、そこから関係ないことを書くという流れができている。
要するに散文である。
散文「的」ではなく、単に散らかっており、要するに脳をフロー状態にして気持ちよくするための文字書きでしかない。
とはいえ、これもキーボードやUTF-8や入力装置に制御装置という概念などが考えられなければこの世になかった感覚なのだ。
今俺は遊んで暮らしとる。
これを失うなんてありえないからと、来年からの身の振り方をどうやって社会の動きにいつでもついていけるだけの実力を蓄えつつ、できれば遊びに行ったりするためのお金もゲットしつつ確定すればいいのかと迷っているが、そしてそれが実現できないなんて塗炭の苦しみ!人生は生きている価値がない!なんて感じているが、そんなのは「生活習慣が上がったからもう水道水は飲めない~!」なんて戯言をほざいている成金と同じ児戯にも等しいわがままである。
しかし、それがそもそも無理なんだよなと思っていたㇻ、そもそも慣れ親しむこともなかったんだよなと思う。
マナーが人を作る?
環境が人を作る?
いずれも確かだが、前者の方が「人」を尊重している。
どうしようもない環境で生まれ育ってどうしようもないことに手を染めるどうしようもない人間もお母さんのおなかから生まれた以上同じ人間だよ、という人権教育を俺はかなり信じて生きてきたし、それが今後の世界でもあまねく広がってもらわなければ困ると考えているが、同時にマナー的な意味での人間でいえば俺は「畜生」かもしれないし、別に「それならそれで畜生でかまいやしねえ!」なんて昭和の薄汚い貸本漫画の主人公のように啖呵を切りたい気持ちになるのだ。