俺は「害悪」
嫁はんはぐったりと疲れており、俺は3月の始まりに心躍らせる。
というほどの対比もない。
本当は俺は通常営業で、嫁はんは沈んでいる。
浮き沈みが大きく人生を進めている嫁はんと、ほとんど(授業のない)学生みたいな生活を続けている俺との違いだ。
嫁はんは「詩みたいに生きたい」と詩みたいなことをいう。
俺は「でも、詩みたいに生きるって、ヒモみたいに生きるってことなんじゃないかな? 詩みたいに生きる人よりも地べたを這いずって生きる人の方が偉いんじゃないかな」と誰かへの言い訳のように反論する。
俺が「詩みたいな生き方」を肯定してしまっては、非難されるのではないかと恐れているのだ。
これが、水野しずいうところの「言わせない感」だろうか。
俺は平等を愛し格差と権力を憎んでいるが、お客さん気分で日々の大半を過ごし、ドトールで働く自分よりずっと年上の方々に給仕をしてもらう。
自分が血を流して得たわけでもないお金で。
なぜ働くかというと、お金のため・家計のためというのがいの1番に現れ、その土台として(ようするに0番目として)何か意味のあることをやっていないと気が済まないということがある。
仕事の連鎖でこの世界の文明はできており、それらは悪辣なものを除いてすべて尊い。
そして、悪辣なものだって、何もしないよりかは少なくとも「パワー」はある。
俺はそれらが生み出したパワーを使ってボスンボスンと排気ガスを吹かす遊びのSUV。
社会も街も臭くなるから消えてくれねぇかなあ!と文句をいう住民Aが登場。
だけど、無視できる。それが俺の特性である。
だって、社会も街もどうでもいいからね。
でもそれってどうしようもなく「害悪」だよなあ。