現実のせい/Netfiixで『トークサバイバー』みた
俺は友達がいなくても家で一人で暮らしていても平気なタイプだ、サイコパスだ!と思っていたのだが、それは単に盛岡での暮らしに最適化していただけだときづいた。
仙台にいたらまた変わるだろう。
性格は変えられないという言葉があるが、俺の場合は性格はコロコロ変えられるらしい。
社交性とか身につかないかもしれないが、それは正確というよりスキルの話で。
金を使わず図書館にだけ通って飯を食わずに生きていけるよ、それが人間らしい暮らしやというモードの時もあれば、タワマンででかいソファに座って暮らしたいモードの時もある。
あれ、でもこれはだらついて生きていきたいという本質が変わっていないよ??
海外を飛び回って仕事をしまくりたいだろうか。
最貧国で現地の暮らしにどっぷりつかりながら生まれも育ちも異なる人々の役に立ちたいだろうか。
どっちも押し込められたら「できる」とは思うが。
結局、現実の型にはめられないと自分の嗜好一つ判断できない人間ということなのかもしれない。
だからこそ、現実を言い訳として使えるのだ。
現実のせいでなー。
昨日はNetfiixで『トークサバイバー』を見た。
おもしろかった。『sicks』肌に合わず、『キス我慢選手権』のドラマも別にだったので、あまり期待していなかったのだが、べたドラマとトークと選手権とNetflixドラマ感と佐久間Dのこれまで積み上げてきたフォーマット全部乗せといった感じで、納得と合点が行った。
というか、トークを聞くという形のお笑いが一番好きだから、それがメインコンテンツであればなんでも良かった疑惑もある。
疑惑は確信に変わるか?