裸で独りぼっち

マジの日記

バカこそ評論をしろ

前まで映画や見たものの感想を文章にしてまとめることを義務付けていたのだが、やめてしまった。

それは根本的に評論というものがしんどくそれに比べて金銭的な意味でも名誉的な意味でも実入りが少ないとかんがえた俺が、只感想を垂れ流す装置として利用していたからだ。

本当に映画について語ろうと思ったら、知識と熱の両方が必要になる。

本当は熱だけでもいいのだけれど、熱が高まれば自然と知識が入るはずだ。

 

とはいえ、知識の羅列みたいな評論はつまらない、というのも確かである。

ライムスター宇多丸のムービーウォッチメンは、明らかに酷評が減ったことで昔に比べてつまらなくなった。そのスタンスの変化は非常によくわかる。

まず、コーナーが人気になりすぎたこと。その影響力により、「宇多丸がけなしたから見ない」「ほめたから見る」「監督に凸する」みたいなことは普通に起こりうる。その際の責任を取ることはできないと考えたのだろう。

それに、宇多丸にぼろくそ言われたからもう映画を撮らないとか、やり方を変えてしまうとか、そういう作りても出てきてしまうかもしれない。存外ガラスのハートの人種は多い。細田守なんかも、きっと絶対的な価値観を持っているようで批判を無視できるタイプではないだろうし、脚本を非難されたであの巧みな演出技術が失われてしまうことは惜しい、と考えられてもさもありなんである。

 

また、ぼろくそ言うだけの熱が湧くのは「絶対こうした方がいいのに、なんでこうなるかわからない!」と思うからだ。作劇場の事情とか、あのクラシックへのオマージュとか、自分の心を救うためとか、そういう理由付けをされたらもう俺たちは何も言えない。インサイダーとなったことでそれまで得られなかった判断材料が多数手に入ったし、また読み解けるということだろう。

 

あとは、個人的な付き合いでいい人には言いづらいというのも当然あると思う。

 

そう思うと、エンタメとしての無責任な評論というのはまさに弱者、バカの武器である。

成功者の姿はみな一様だが、中産階級以下は多様であるという。

偏った、不正確なものの見方を思いっきり語ってもらいたいのだ俺たちは。

 

あれ? となると、やっぱり知識とか熱とかなしに徒手空拳スタイルで感想書き散らせばいいのかな?

わからなくなった……。